伯父との再会 2
「───美桜?」
身体が跳ねるくらいビックリした。
いくらのんびり屋の母に似て、とろい、鈍い、といわれる美桜だって、自分に向かって人が近付けばわかる。柱にもたれた彼女の周囲に人はいなかったはずなのだ。絶対。
それが、まるでなにもない空間からふってわいたようにすぐそこに人影があって、美桜の心臓はとび跳ねた。
がたいのいい、美桜より頭ひとつ背の高い男性だった。短く刈り込まれた白髪に、これまた真っ白な、頬骨から続く髭。日に焼けた肌がなめし皮のようで、日本人の枠からはみ出した印象を与えた。
眼光鋭そうな褐色の眸が一瞬、猛禽類を思わせる。
「………一匠、伯父さん?」
息をのむようにたずねると、褐色の眸が少しやわらいだ。
「やっぱり美桜か。すぐにわかったよ。───昔の蓉子に似ている」
あいまいに笑い返して、まじまじと伯父をあらためた。
伯母の夫だった人なのだから、優に還暦は超えているはずなのに、会社の年配男性のようなメタボ体型など歯牙にもかけない体躯だ。
肌にしわやたるみも見当らない。正体を知らなければ、せいぜい四十代ぐらいにしか思わなかっただろう。
眸には生気がみなぎっていて、まさに働き盛りの年代に見える。唯一、白い髭と白髪が彼を年配者に見せていた。
「何年ぶりになるか………。私を覚えてるか?」
「あー………えっと、………なんとなく」
言葉は尻すぼみになる。
伯父の声は学生時代の体育教師のように野太く、大声を出して人を叱責するのに慣れた風情があった。なにより。
規律正しく、厳格なにおいが学校の怖かった教師のようだ。
知らず緊張する美桜を頭からつま先までひとなでし、伯父は気にしたふうもなくうなずいた。
「最後に逢ったのは、美桜が小学生低学年の頃だからな。覚えていなくても無理はない。───今日はわざわざ悪かったな。仕事帰りだろう」
「あ、うん。………えっと、お店、こっち」
目線で了承して伯父は美桜の横につく。その時になって、いやに周囲の注目を浴びていることに気がついた。
伯父の存在感は日本の会社帰りの景色の中で飛び抜けているのだ。ネクタイこそ締めてはいないものの、イタリア製のスーツでも着こなしたら、その筋の人間に「ファーザー!」と呼ばれそうだ。
───いや、笑えない、と美桜はひとり青ざめた。伯父はたしか、海外で軍事関係に携わる仕事をしていたはず。それが原因で伯母との結婚を反対されたと聞いたことがあるのだから。
「あー、えっと、伯父さん。お寿司でよかったの?」
帰国した日本人の定番食だが。和食屋の方が色々と選べてよかったかもしれない。
前もって予約していたお店に案内し、週末ゆえに混雑していたがカウンター席で板前が目の前についてくれた。
店内を軽く一瞥した伯父がおしぼりを受け取りながらうなずく。
「美桜がおいしいお店に案内をしてくれると、幸恵さんが言っていた」
「え………っ」
伯父がお寿司を食べたいと言っていたのではなかったのか。お母さんったら、と心で剣突くを食らわせて美桜はあせる。
「あー、えっと、ね。私もそんなに食べ歩いてるわけじゃ………」
なにせ、勤めに復帰してまだ三月あまりだ。生活を軌道に乗せるのにいっぱいいっぱいで、会社が都内の中心部、著名な通りの近くだろうと食べ歩く余裕はなかった。
本日チョイスしたお店は友人のアドバイスと、ネットの口コミで判断した。が、メニューを開いて美桜は青ざめた。
(お寿司の値段がない………。ってことは、時価?)
飲み物や一品物の値段はある。が、お造りは要相談らしい。
本日二度目の擬音語が頭の中を飛び交い、おのれの詰めの甘さをよくよく思い知らされた。
そんな美桜の心中を知ってか知らずか、ふッと伯父が笑った気配があった。
「今日は私のおごりだ。好きなものを頼みなさい」
「あ、いえ………!」
「美桜がわざわざ私のために時間をつくってくれたからな。遠慮はいらない」
うッと美桜は一瞬、よろめきそうになった。女も年を取るとジジイ萌えに目覚めるのだろうか。
大変失礼なことを思いながら、運ばれてきた飲み物に乾杯と「いただきます」を口にしてビールを流し込んだ。
「~~~~ッ」
この一杯がどうしようもなくたまらない。
二十歳を過ぎて覚えたアルコールは、はじめまずいばかりだった。ビールは特に苦くてまずくて、こんなもののどこがおいしいのだろうと世の大人たちの味覚を疑った。が、勤めだしたとある日、仕事終わりに飲んだ一杯がたまらなく美味しかった。
ビールってこんなに美味しいんだ、と思ったのが最後。以来、ある一定の時期をのぞいて美桜の晩酌にビールは欠かせない。
板前さんにお任せで出してもらったお造りがこれまた美味で、魚貝類の新鮮さゆえに引き立つ旨みを美桜ははじめて知ったように思う。
この上なく感動して、ここに通おう、と美桜は心に決める。
次の給料日までの日にちを数えて、あ、でも今日のお会計を見てから決めても遅くないかな、と一人暮らしゆえの金銭感覚が頭をもたげる。
と、低い笑い声が隣からもれ聞こえた。見ると、お猪口を片手にした伯父がその陰で笑いをこらえている。
美桜の視線に気付いてお猪口を傾けた。
「───美桜は昔のままだな」
世にもめずらしいものを目にした気分で、美桜はオウム返す。「昔のままって、なにが?」………ですか、伯父さん、と付け足して。
手酌でつぎ足そうとするのにあわてて手を出し、あっさり制された。
「反応が素直で、興味のあるものを見つけると、とたんにそれに夢中になる」
「べつに………そんなこと、ないですよ」
「図星を指されると目が泳ぐ」
ぐっと、またしても泳ぎそうになる目線に美桜はそっぽを向いた。
「気分をそこねると、すぐに頬をふくらます。フグになるぞ、と昔言ったな」
「ふくらませてませんッ」
むきになって返して、今度は目の前の板前が小さくふきだした。
思わず上げた目にすみません、と謝罪してお詫びです、と握りを追加してくれる。………うん。サービスもなかなかだ。
美桜が今日、特に気に入ったコノシロを出してくれるところが心憎い。
口に入れるとどうしてももう、それ以上仏頂面はできない。思わずゆるむ口元、目元に、伯父と板前の視線がそそがれて、プロである板前が「ありがとうございます」と笑顔を見せた。
一匠がそっと息をついたのは、美桜の預かり知らぬところだった。
食が進んで周囲の混雑もあり、板前たちも美桜と一匠だけにかまえなくなってきた。そんな中、一匠がコン、とお猪口を卓に置いた。
「───美桜」
「ん?あ、伯父さんお代り?同じやつ?」
ああ、と答える伯父に美桜は手を上げて注文を通す。
はじめの気億劫がなんだったのだと思うぐらい、今の時間が気分よかった。
チョイスしたお店ははずれじゃなく、文句なしにおいしい。口重な伯父は自ら進んでしゃべることはないが、美桜をからかう性分からして、見かけほど取っ付きにくい人ではないのだとわかる。
それは、多分にアルコールの力も借りているだろうが───。
伯父の顔をのぞき込んで、美桜はあらためて思う。
(髭剃ったら、ジジイ萌えできなくなるね。絶対)
もしかしたら、三十代ぐらいに見えてしまうかも。いや、はたまた、髭を剃ることによって伯父の老齢化があらわになり、真のジジイ萌えが───。
「美桜」
酔いも覚ます厳粛たる声音に、「はいッ」と背筋が伸びた。
「………おまえの家族の話は聞いた。両親ともに変わりなく、奈美も結婚して子どもが二人いると」
伯父との共通の話題で出した家族の近況だ。うん、と美桜は心なしひるむ思いでうなずく。
それで、と伯父の眼差しが一瞬、猛禽類の鋭さをはらむ。
「おまえの近況は」
「え………」
射竦められた獲物のように美桜は強張った。心の一角を占めていた氷の冷たさが、見る間に侵食して指先にまで伝わりきそうな錯覚。かろうじて、苦笑いした。
「だから、一人暮らししながら、こうして都内で働いてますってば」
「おまえが半年前に離婚して、一時期実家に戻っていたのは知っている。私が聞いているのは、ここ最近、おまえの周りで妙なことが起こっていないかだ」
妙なことって?と、頭では問い返したつもりだった。けれど、美桜の表情は最後の言葉のまま固まっていたのが、伯父のせばめた眸の中でわかった。
「…………」
ぎこちなく笑って眸をはずして、なんとか取りつくろおうと言葉を探す。
こんなこと、べつにたいしたことじゃない。たいしたことじゃない。
前の職場でも話題にされた。いたたまれなくて逃げ帰った地元では、さらに好奇の目にさらされた。
───高城茶園の娘さん、いま出戻ってるでしょ?やっぱりね、離婚したらしいのよ。都内で一流企業のお婿さんつかまえた、とても裕福な家のお坊ちゃんって、そりゃ自慢してたのに。なんでもね、旦那さんが浮気したらしいわよ。やっぱり身分の差とかあったんじゃないの。なんか、お姑さんとかあちらのご兄妹ともうまくいかなかった、って。やっぱり、育ちが違うとダメなんじゃない?高城さんは娘さんを都内の大学にやった、って鼻高々だったけど、しょせん、そこらの女子大と変わらないレベルでしょ。やっぱり名の通った大学じゃないとねえ。
え?浮気する男が悪い?やだ、奥さん知らないの。美桜ちゃん、子どもができなかったのよ。田村さんも高城さんの奥さんに聞かれたらしいもの。いい先生知らないか、って。ずいぶん悩んでたらしいんだけど、でも、こればっかりはねえ。
………ここだけの話、美桜ちゃん、鬱状態になって旦那さんに暴力ふるって警察沙汰になったこともあったんですって。それで結局、向こうの家から縁を切られた、っていうのが真相らしいわよ。旦那さんの浮気もあったのかも知れないけど、でも、自分の親兄妹とうまくいかない、不妊症に悩んだあげく暴力ふるう妻なんて、そりゃ、旦那さんだって浮気のひとつやふたつ、したくなるでしょうよ。いやあね。自分の娘はそんなふうになってほしくないわ───。
何気なく立ち聞きしてしまったあの日から、美桜の耳には茶畑のあちこちからささやき声が聞こえた。
悪意のあるうわさ話は事実と異なるものばかりだったが、しかし、たとえそれを言い立てたとしてなんになるのだろう。
美桜は結婚生活を破綻させて出戻った。それが事実だ。
このままじゃいけない、と自分で自分を追い立てるようにして、再度都会に出てきた。
結婚前と変わらず派遣社員だけれど職について、自分で自分の口を養って、単調な日々の生活を繰り返して、妹の子どもたちのエピソードに心なぐさめられて、長く一緒にいる飼い猫を湯たんぽに冬は眠りにつく。
そんな生活を取り戻した。やっと。
なのに、いまさら、二十年以上疎遠だった伯父が美桜の内情を口にする。
なぜ?彼女の離婚はそんなに醜聞ネタだったろうか。二十年ぶりの伯父が口にするほど、いまも方々で口にされているのか。
美桜の醜聞ネタは、この先一生、消えることはないのか───。
「………ごめんなさい、伯父さん。私、けっこう酔ったみたいです」
暗に切り上げたいとにおわせて、バックを引き寄せた。伯父はなにも言わずおあいそを頼むと美桜も出しかけた財布を留め、会計を済ませた。
コートを受け取って外に出、夜気に白い息が視野を染めた。
駅までの道を戻りながら、自分の態度は大人げない、と美桜はあらためた。
「あの………伯父さん。今日はいっぱい、ごちそうさまでした」
「いや」
言いつのろうとして、週末ゆえの酔っ払いの団体が美桜にぶつかりかける。強く腕を引かれて、美桜をかばった伯父が酔っ払い集団に一瞥をくれていた。
伯父の迫力と眼光には酔いも一瞬で醒める威力がある。彼らがかけていく点滅した信号に二人は間に合わず、道路の中洲に取り残された。
礼を言おうと顔を上げて、伯父の褐色の眸が美桜を見下ろしていた。
「不用意なことを口にした。………悪かった」
伯父が謝ることじゃない。変に過敏になっている美桜がいけないのだ。
首をふって否定しようとする美桜の頭に、伯父の手が置かれる。それは思いがけず、伯父が姪に向ける、やさしい仕草だった。
「おまえの傷は、まだ癒えていないんだな」
ふいに、こみ上げるものがあって、美桜は急いでうつむいた。
両親や妹、友人たちは、まるで腫れものにさわるように美桜に接した。まわりの気遣いはありがたく、感謝しなければ、と思うものの、無性にすべてを投げ出してだれも知らない世界へ消えてなくなりたい衝動にかられる時があった。
………心身ともに、ほんとうに疲れていたのだと思う。
いまも、すべてふっきれたわけではないが、時間が癒してくれるのを待つしかないのだと、美桜も自分でわかっている。
「………すまない」
ふたたび謝られて美桜はびっくりする。目を上げた先の伯父は、剛毅果断な気質らしくなく、なにかを悔いる眼差しをしていた。
「もっと早く、逢いにくるべきだった」
「………伯父さんがいたら、あの人をコテンパンにやっつけてくれたのにね」
伯父は軍人上がりと昔聞いたのを思い出した。
ふッと目元がやさしくなる伯父に美桜は笑い返して───思い出した記憶があった。
「わたし…………ヒゲのおじちゃん、って伯父さんのこと呼んでた!」
美桜の勢いに一匠は手を離した。その伯父をあらためてのぞき込んで、美桜はなぜ忘れていたのかふしぎなくらい思い出していた。
昔は黒々とした髪とヒゲで子どもたちからはクマと呼ばれ、恐れられていた。なにより、その強面の風貌といかめしい雰囲気が人を寄せ付けなかった。なのに、美桜だけがなついた。抱き上げられた時のチクチクするヒゲの感触まで覚えている。
「むかし、みんなで海水浴に行った時、わたしがおぼれて、岩場の陰で気付かれなくて………伯父さんがたすけてくれた」
思い出した記憶で美桜は興奮していた。一匠の複雑そうな眼差しの色を思いやることはできなかった。
ああ、と大きな息をはきだした一匠は視線を伏せ、心なし、そのいかめしい身体つきから覇気がうすれた気がした。
「………そうだな。潮時だ」
自身につぶやいたにしては、だれかと会話した口ぶりだった。
上げた双眸には弱った翳りなどおくびにも出さない───ありえない、強い力があった。
はじめに見た猛禽類の鋭さを思い出して、美桜はひるんだ。
「───美桜。少し付き合ってもらえるか」
「え………」
「私が日本に来た理由だ。心配ない。すぐに終わる」




