週末の受難 2
息をのむ緊迫した空気も一瞬。
「──そこまで」
突如、なにもない空中から一匹の白狐が現れた。シュウと若者、二人の間に割って入って戦闘をいさめる。
「主さまのお屋敷で、二人とも度が過ぎる。わきまえよ」
表で足音がしたと思ったら、続いて巽老人が姿を見せた。
「いったい、なんの騒ぎかね」
言葉とともにその場の状況を正確に見て取ったらしく、温厚そうな巽老人も険しい顔つきになった。
「貴巳。女性に乱暴とは、一条のご当主の教育がしのばれる。それともご当主は、巽家で暴行をふるまえとでも命じたのかね」
「あんたが、コソコソ隠し事してるからだろ! だいたい……なんだよ! その女も、如月の力も! 新しい聖魔が誕生したなんて報告、どこの家も受けてねえぞ!」
「だからといって、きみのしたことが許される行為ではないのは、子どもじゃないのだからわかるだろう。来なさい。この件は査問にかけさせてもらう」
癇癪をおこしたように貴巳と呼ばれた若者が立ち上がった。
「やってみろよ! こっちだって、あんたが隠してた事実を裁いてもらうからな!」
新たな声がそこにかけられた。
「──バカ貴巳」
やわらかな女性の声だった。ハッとしたように、はじめて彼の傲慢な態度にもひるむ気配があった。戸口の影のほうから女性の声が続く。
「あんたの起こした行動が問題だって言っているのよ。貫成さまにお詫びしてさっさと来なさい。灸をすえてもらうわ」
忌々しそうに舌打ちすると、音を立ててその場を後にした。シュウと美桜にはもはやふりかえりもしなかった。
巽老人は息をつくと、気遣う眼差しを道場内に向け、白狐とシュウに目線で合図して同じように立ち去っていった。
辺りからひとけが絶え、だれもいなくなったのを確認して、シュウの手から武器が溶けて消えた。
美桜は壁に身を寄せ、切り裂かれた衣服の前を押さえて、ただ起こった光景にふるえていた。
ふりむいたシュウの眸がいつになく怒気をはらんでいて、それが先の若者とかぶって、さらにすくみ上がった。
「なぜ──もっと早く呼ばないんです!」
「……っ」
美桜の身体が縮こまった。たすかったと安堵するよりも、恐怖で身体も思考も占められていて、言葉にならずに感情がこぼれた。
声を殺して泣きはじめた美桜を見て、シュウにもたじろいだ様子があった。
苦しそうな息がつかれると静かに歩み寄り、美桜の身体はふわりと暖かいものに包まれた。シュウのコートだった。
自身はその前で膝を折り、怒気を懸命に押し殺した様子で美桜を見つめていた。
「……怒鳴ったりして、申し訳ありません。……お怪我は」
案じる気配が伝わった。
シュウの体温が移ったコートをにぎりしめて、彼の無器用そうにいたわる眼差しに合って、美桜の心がほぐれた。
シュウが来てくれた事実が彼女に安心感を与え、呼んだらほんとうにたすけに来てくれた信頼が根付いた。
かけてもらったコートをかき合わせ、シュウに手を伸ばした。彼の存在をたしかめて、ほんとうにもうだいじょうぶなのだと安心したかった。
美桜がシュウの服の袖をつかんでも、彼は避けなかった。ただ黙って、そこにいてくれた。
それは、絶対な安心感だった。
「……め、なさ……」
理解すると同時に涙があふれた。
怖かった。──こわかった。
彼が来てくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。知らない男性に乱暴された事実はなにより彼女を傷つけたし、された行為が肌に残って吐き気がするほど気持ち悪かった。
自分が女であるということが、この時ほど厭わしく思えたことはなかった。
同時に、シュウに課せてしまっているものの重みを目の当たりにした。
彼は護衛だから、美桜の身を守ってくれる。僕だから、呼べば来てくれる。
でも、美桜の身を守るためには、同じ聖魔とも闘わなければならない。
「ごめ、なさ……」
美桜の安全はシュウの危険と隣り合わせなのだと、いまさら目の当たりにして心が乱れた。
と、彼女の身体はふわりとシュウに引き寄せられた。抱きしめられたのだと理解した。
男の人の身体にビクリとふるえた美桜だったが、シュウの力は強引ではなく、美桜を気遣うような、いたわる暖かさがあった。
「あなたが、謝ることではありません」
無器用な彼の、精いっぱいの気遣いだった。なぜだか身体中から力がぬけて、美桜はシュウにしがみついた。
彼は安心していいのだと、心にしみこむ安堵感だった。
コートでくるみ直されると抱き上げられ、あてがわれた部屋へ運ばれる。途中で巽老人に事情を聞いたのか、めずらしく血相を変えた様子で笹野がやってき、美桜に気遣う眼差しを向けたまま部屋へ先導した。
お風呂場にお湯がためられ、静かに、それでもテキパキと笹野は動きまわる。着替えと救急箱とお茶の準備がされて、シュウはうながされた。
「あとは私が」と。
シュウは静かに美桜を部屋に置くと部屋を辞していった。
美桜も鼻をすすって顔を上げる。笹野にお茶をすすめられ、暖かい湯気と香りに、やっと気分が落ち着いた。
「………ひどい目に遭われましたね」
いたわられるやさしさに、残っていた涙がこぼれた。美桜はそれをぬぐって鼻をかむ。
「もう、大丈夫です」
たしかにショックな出来事だったが、いつまでも被害者気分に浸っているのはイヤだった。笹野は案じる眼差しをかたむけながら、つと膝を上げた。
失礼しますね、と断って美桜をおどろかせないようにコートを脱がせる。どうしても身体がこわばった。
ていねいに美桜の衣服を脱がせ、代わりに浴衣を着せかける。彼女の怪我を検分しているようだった。
一度風呂場へ立ってお湯を確認し、湯殿をすすめられた。
美桜もそれに従った。あの若者に触れられた箇所を、跡を消すように力をこめて身体を洗った。おさめた涙がこぼれた。
湯船には長めにつかった。笹野が入れてくれた入浴剤が深緑のにおいで、美桜をやさしくなぐさめた。
お風呂を使って部屋にもどると、そこにいた姿に思わず声が出た。
「タマ……!」
笹野もいたにも関わらずかけ寄ると、その姿を抱えて抱きしめた。
おさめたはずの涙がこらえきれずあふれた。
「タマ……タマ」
タマもめずらしく文句を言わず美桜になされるがままだった。
しゃくりあげて泣きじゃくる美桜にしばらく黙っていたが、いっこうに泣き止む気配のない彼女にだんだん焦れてきたらしかった。
身じろぎして身を起こすと、ペシッと肉球で美桜の涙顔を押しやった。
「いい加減、泣き止みなさいよ。そんなに身体から水分出したら、干からびてシワクチャになるわよ」
タマらしい言い草に美桜も鼻をすすって顔を上げた。
腕の中のタマは泣きじゃくってグチャグチャの顔の美桜を見、小さく笑ってペロリと美桜の涙をなめた。
「あんたの泣き顔って、小さい頃と一緒」
子どもと一緒、と言われているようで美桜は急いで泣き止んだ。腕から離されてタマは許容まじりのため息をついた。
「とにかく、怪我の手当てしてもらって、食事にしなさいよ。あんたお腹が空くと、いっつも弱気になるから」
「……怪我?」
言われて思い出した。左足のくるぶし辺りが鈍い痛みをずっとあげていた。容赦ない暴力を受けたためだ。
美桜の言葉に笹野が救急箱を間近に彼女をうながした。
足にシップと包帯を巻かれ、跡になって残っていた手首にも同じ処置がされる。笹野はさらに「失礼します」と美桜に断って浴衣の帯をゆるませ、左肩の肩甲骨の辺りにも湿布を貼った。
それでやっと、身体の各所で訴えていた鈍い痛みが鎮まった。
笹野はタマの声が聞こえていたのか、無駄のない手際で食事の支度も整えた。立ちのぼる湯気とにおいに、あんなことが起こった後でも美桜はお腹が空いた。
それにちょっと、気持ちがなごんだ。食欲は人の基本的な欲求で、心神が健康な証拠だと、彼女は知っていた。
「いただきます」と手を合わせて食事をはじめた。
いつかのように笹野に見守られ、味付けや香辛料が控えめの料理を平らげた。
食後のお茶をもらってタマになにがあったのかを聞かれ、ためらったがすべて話した。
笹野は黙々と布団を敷いて寝支度を整えると、近くの部屋にいるのでなにかあれば呼ぶように、と伝えて部屋を下がった。
それを見送って美桜は、彼女はたぶんノーマルなんだろうが、久子先生のように聖魔の事情をそれとなく察している人なんだろうと理解した。
そうでなければきっと、巽家に仕えることはできないのだろうと。
現に、タマだって笹野の存在をわかっていながら、美桜とふつうに会話をした。そのタマは、大きなため息をついた。
「あんたってホント、面倒なヤツに目を付けられるのが得意なのね」
「……そんなの、得意なんかじゃない」
「まあ、今回のことはおじじにもシュウにも油断があったわね。巽家にいるから、って安心してた部分があるんでしょ。っていうか、あんたもなんでさっさとシュウを呼ばなかったの」
タマの目線は次いであきれまじりになる。
「呼べばほんとうに来るなんて、思ってもみなかったわけね」
美桜は小さくなった。あの時、彼女がはじめに心でたすけを呼んだのはこのタマだった。タマの主は美桜ではないのに。
「……あの人は、聖魔、なのね」
しばし黙したタマはかるい息をついた。
「おじじか一匠がそろそろ説明するつもりだったみたいだけど」
そう言ってすこしあさってのほうをながめた。
「突然変異で生まれる聖魔だけど、その血筋を遡ると、だいたいそのご先祖に聖魔がいるの。聖魔は数が少ないから、血脈同士が寄り集まって家ができた。───日本には五つの家があるわ。
本家と呼ばれる京都の一条家。木曽の本条家。四国の海棠家。蝦夷の四条家。そして、相模の巽家」
ふ、と息をついて視線をもどした。
「長寿の生を生き、身体能力に優れている聖魔が無軌道なふるまいに及ばないよう、それぞれの家が責任を持つようにしているの。事が起これば五大家の当主たちで裁く。彼らの存在が世に広まらないよう、各家で協力し合ってるのよ」
それはなんとなく、わからないでもない話だった。美桜はじゃあ、と問う。
「一匠おじさんや如月さんのご先祖が、巽家と関わりがあるの?」
「一匠はそうだけど、シュウは違うわ」
首をかしげる美桜にタマはちょっと耳の後ろをなでた。
「各家に色々……特徴があるのよ。シュウたち戦闘兵は血脈を遡っても聖魔が見当らないの。そういう戦闘兵を受け容れているのが巽家で……バカ男みたいに、血筋を尊ぶバカな考えを持つ輩からは、戦闘兵は見下されてる。だから、五大家の中でも巽家の権威はあまり高くないわね」
タマは少し息をついた。
「あの医者も言ってたけど、あんたの存在が知れ渡れば混乱が起こる。だからその前に、一匠があちこちに根回ししてた、ってわけ。バカ男のせいで台無しになりそうだけど」
自分の不注意もふくまれているのだろうと、美桜は少しく落ち込んだ。
「……一匠おじさんは、それで忙しかったの?」
「そうね。でももともと、一匠はヒマな身じゃないのよ。妖魔討伐の総責任者だから」
「え………」
タマはちょっと首をまわすしぐさをした。人が疲れたときにやるような。
「一匠は人の間でも聖魔の間でも、ちょっとした有名人なのよ。だから妖魔討伐のために、むかしから世界中を飛び回ってた。巽家の役割もそういう面が大きいしね。その一匠が日本に腰を据えてるから、この前からやたらと各家が探り入れてきてたのよ。ホントにもう、うるさいったら」
あの時の彼が言っていたのはそのことかと、美桜は納得した。そんなところに自分の存在が知れ渡ったらどうなるのだろうと、前にも感じた恐怖がよみがえる。
「わたし……これから、どうなるの?」
チロリとタマの視線が寄越された。
「とりあえず──寝たら?」
「へ………」
あんたの合いの手って、へ、とか、ほえ、とか変なのが多いわね、とタマはあさってなことを言う。あっさり問題を棚上げした。
「今日のところはもう休みなさいよ。明日あたり、一匠がもどってくるはずだから」
「おじさんが?」
「そ。シュウが隣の部屋にいるし、今日みたいなことはもう起こらないから、大丈夫よ」
「……タマは?」
子どもっぽいとは思ったが、タマに対してはいまさらだと開き直った。
「ここにいてくれる……?」
案の定、タマにはあきれたような表情が浮かんだが、ため息であきらめたようだった。
「いるわよ。だからもう寝なさい」
「……ん」
安心して寝支度を整えると電気を消して布団に入った。
その枕元でタマが丸くなり、夜目にも白いその毛並みと息遣いに、心から安堵して眠りに引き込まれた。
~・~・~・~・~
その気配が眠りについても、シュウには警戒が解けなかった。
己の油断がなにより腹立たしかったというのもあるが、
(──邪気)
ほんとうにごくかすかだが、僕であるシュウにはわかる。
巽家に闇の気は寄り付かない。選ばれた土地柄と、古来から幾重もの結界に守られているためだ。
それで彼女の気配から目を離した。その結果、久しくなかった身の内が沸騰するような怒りに支配されたが。
もちろん、自身に向かって。
悲鳴で呼ばれて瞬時にかけ付けた時、シュウは目の前に緋が落ちた気がした。
あの時、なにを考えたか正直覚えていない。男を排除し、そのまま末梢する勢いだった。白夜に止められても、たやすく頭にのぼった血は冷めなかった。それをそのまま、彼女にぶつけてしまった。
傷つき、おびえていた彼女に荒ぶる感情をぶつけたことを、すぐに後悔した。
ひっしに己の中の荒れ狂う怒気を鎮め、なれないながらも彼女を気遣った。それが彼女から手を伸ばされ、謝られたときになにかが切れた気がした。
守れなかったことをはげしく後悔した。シュウにしがみついて泣きじゃくった彼女に、シュウのほうこそどれだけ謝罪しても足りないのだと、焼き切れるほどの後悔で思った。
今ふれるのは避けたほうがいいだろうと、さすがのシュウも遠慮して精気を分けるのを控えたのだが。
(彼女の気配が漏れたのか──?)
乱暴されたショックで闇の気が近付いたのか。しかし、それならそばにいるタマが気がついてもよさそうだ。なにより、ここは巽家である。
自分が彼女の僕だから気がつく程度のものなのだろうと思う。しかし。
(血が出る怪我はしていなかったと、聞いたが)
彼女のそばについていた家人から容体は聞いた。左足の捻挫、右手首と左肩甲骨の打撲と打ち身。
彼女は聖魔よりもノーマルに近い。聖魔の力で暴力をふるわれ、それだけですんだのが幸運といえるかもしれない。
が──。
シュウにそんな考えは毛頭ない。彼女に怪我を負わせたもの、すべてにそれ以上の苦痛でもって返してやりたかった。
「……ッ」
苛立たしくシュウは短い髪をかき上げた。彼女にまとわりついている、かすかな邪気が不快でならなかった。
精気を分けなかったことを悔やんでいるのか──もらえなかったことが彼の感情を乱しているのか、わからなかった。
一人、長い夜を煩悶して過ごした。