週末の受難 1
週末、美桜はふたたび巽家を訪れていた。
今日は温泉はなしでお昼過ぎにシュウと待ち合わせ、暗くなる前に到着したが、山の中にある巽家ははや夕暮れのにおいに包まれていた。
シュウは前回と同じく車を置きに別れ、タマは今回同行していない。
昨日あたりから表情が難しくなっていて、美桜がたずねてもなんとも言えない顔をし、今日は朝から伯父の元へもどってしまっていた。
なんだろうとは思うものの、シュウの様子はいつもと変わらないようだったので、あとで伯父か巽老人に聞こうと思うぐらいで終わっていた。
巽老人には先週来、今後手土産は必要ない、とやんわり言われてしまったので手ぶらだった。なんとなくいたたまれない。
その巽老人には来客が来ているらしく、美桜は一人、いつもの部屋に通されてさらに手持ちぶさただった。
夕食前に庭を散歩でもしてこよう、と思い立って部屋を出る。
先週通された庭の見える部屋を目指して回廊を進み、夕暮れの風が吹く外回廊に面した。
冬枯れの景色の中でも、早梅や桃の花が姿を見せる。桜の木も見かけたし、まだピンクになっていない蕾は寒さに耐えているようで春が待ち遠しい。
巽老人は花の樹木が好きなのかな、と外回廊伝いに歩いて、庭園の向こうの離れの戸が開きっぱなしなのを目にした。
近くの縁石の上に突っ掛けを見つけて美桜は拝借する。好奇心でテクテク歩き、離れをのぞきこんだ。
(道場だ……)
剣技道場だろうか、武道を修練する場だろうか。
広い板張りはきれいに掃除がされてあって、厳粛な雰囲気をただよわせていた。
ちょっとだけ、と美桜はおそるおそる上がり込む。
シンとした空気を感じ、壁際にある年代物らしい扁額を見上げて、なんて読むのだろうと背伸びした。
そこにいきなり声はかけられた。
「──おい、おまえ!」
鋭くとがめる声に美桜は飛び上がった。あわててふりかえると、戸口で一人の若者が険しく美桜をにらんでいた。
今時の若者だった。
年頃でいうなら二十代半ば。染めた髪に癇の強そうな面立ち。着くずしたレザージャケットと派手なシャツ、胸元にも腕にも耳にも、いたるところにあるアクセサリーの光。
どこか遊び歩いているふうのお坊ちゃんといった印象だった。
ただ、他人に対して容赦のなさそうな酷薄さがただよって、それが美桜をおじけさせた。靴を履いた土足のまま上がり込み、ずかずかと歩みよってくる。
「見ない顔がこんな奥まで入り込んでなにしてる。巽家の関係者か?」
美桜は首をふった。伯父は関係者だが、美桜はそのおまけといったところだ。
若者はあからさまにうさんくさそうな顔で彼女をジロジロと見た。
「ここでなにしてる」
「な、なにも……」
とがめられる迫力にもけおされて後ずさった。その背が壁に当たる。
このお屋敷で、当主の巽老人と関係者以外に逢ったのははじめてだ。しかも、いままでのだれとも違う、険しく鋭い眼差し。
不審者と思われている事実が美桜の身体をかたくした。
「よそ者が巽家に──こんな奥まで入ってこられるわけねえだろ。めんどくせえからさっさと言えよ。何者だ、おまえ」
何者と言われても、と美桜はまごつく。と、若者の胡乱な目つきが怪訝な色をふくんだ。
「なんだ……? おまえ、如月の百雷くせえな。けったくそ悪い。ヤツの女か?」
思いっきり頭をふった。とんでもない!
「ああ? じゃあ、なんだってんだよ。ヤツの女でもないノーマルが、なんだってこんなところをウロついてる」
その言葉を聞いて美桜もハッとした。マジマジと、あらためて若者を見やる。
「あなたも、聖魔なの……?」
「ああ?」
さらに目つきに剣呑が加わった。美桜を問い詰めるために口が開きかけて、なににか間を置き、声と目つきにはいぶかしさがあらわだった。
「おまえ……まさか、聖魔か? すっげえ弱っちい力しか感じねえが……。つか、新しい聖魔が生まれたなんて報告、受けてねえぞ。巽のじいさまはなに隠してる」
一歩を詰められ、美桜は横に逃げる。
久子の忠告を思い出した。あなたの存在が知れ渡ったら──。
そろそろと、足は戸口のほうに向かっていた。
すると、おい、と剣呑な声と足が出て、美桜の背後にした壁が音を立てた。身をすくませるにはじゅうぶんな行為だった。
「オレが聞いてんだろ。なに逃げようとしてんだよ」
美桜の行く手をさえぎるように片足で壁を蹴りつけた若者は、上段から彼女を見下ろした。ぞっとする酷薄さがあった。
「おまえみたいな弱っちいヤツがオレ達と同じ種族だってのもおこがましいが、教えといてやる。オレ様は上級聖魔だ。おまえみたいな下層級がオレに逆らうんじゃねえよ!」
ふたたび壁が蹴りつけられて、美桜は自分が蹴られたように縮こまった。
久子の言ったとおり、聖魔の中でも格差があるらしい。
自分がうかつなことを口にしたのはわかったが、どうしたらこの場を切り抜けられるのかわからなかった。
若者の酷薄な声が響く。
「正直に答えろ。巽のじいさまはなにを隠してる。おまえは聖魔か?」
はいとも、いいえとも、自分の中でまだ整理がついていない答えに惑って、美桜は追い詰められた。
タマ、と心でたすけを求めて、ふるえる唇から声をつむぎだした。
「わたしが聖魔だったら……あなたに、なんの関係があるの……?」
剣呑な光が眸に走って、美桜は失敗したのだとさとった。壁を蹴りつけたのとは反対の足が一瞬で彼女の両足を払い、道場の床に美桜は全身を打ちつけていた。
とっさに顔面はふせいだものの、激しいしびれが全身を襲った。
「質問してんのはオレだって言ってんだろが。わかんねえ女だな。そのトロくさい様じゃ戦闘兵でもありえねえし……かといって、聖魔にしても弱すぎる。それとも──妖飼って気配を消す力でもあんのか?」
一人で話を進める若者は人の痛みをなんとも思っていないのが明らかだった。
美桜はいきなり、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのかわけがわからず、彼の態度に恐怖と痛みと、泣きそうな思いで憤りを覚えていた。
「おい。どうなんだよ。答えろ」
つま先で転がされて、ますます泣きたいくらいの悔しさがつのった。なけなしの矜持でキッとにらみやった。
「あなたに答えなきゃならない、義務も義理もありません」
ふたたび走った剣呑な光に、次の暴力を覚悟して身体をかたくした。
が、それはやって来ず、おそるおそる目を開けた美桜は次の瞬間、視界に突き立てられた黒刀にかたまった。
黒銀の、一目で切れ味を思わせる威力を秘めた短刀。
それは、彼の片手から生えていて──いや、右手が黒い短刀に変じていて、人の手ではありえなかった。
それが彼女の目と鼻の先、すぐそこに突き立てられた事実に、美桜の目に遅まきに涙か汗かわからないものがしみた。
それに懸命にまたたきした。彼女に突き立てられても、おかしくなかった。
「オレに逆らうな、ってんだろが。クソが」
我慢も限界に近かった。恐怖がはじけそうになって、美桜は泣きそうな思いで彼に問いかけた。
「なんで……? なんで、こんなことするの? わたし、あなたに何かした?」
「頭の悪い女だな。オレが聞いてることに答えろ、ってんだろ。あの鷹衛の迅が日本にもどってきてあちこち飛び回ってんだ。本家じゃなくたって、なにか起こってんだと勘付くだろーが。──そうしたら、なんだ? 巽のじいさまが隠してんのは、おまえみたいな弱っちい聖魔かよ。納得がいかねえんだよ。巽のじいさまはいったい、なにを隠してる」
間近で膝をついた若者に険しくにらまれ、美桜はようよう起こした半身で壁を背にした。払われた足や各所がズキズキと痛みを訴えていた。
「わたしは……知りません。あなたに答える義理はない」
若者の眸にはっきりした怒気が走った。
計算する余裕もなにもなく、美桜はがむしゃらに立ち上がって逃げだそうとした。その腕を引っ張られて、再度身体が板敷きに打ちつけられた。
容赦ない乱暴と痛みに涙がにじむ。
身体が転がされて、にじんだ視界にのしかかった若者が映った。酷薄そうな微笑がそこに浮かぶ。
「いい度胸してんな、おまえ。ノーマルでもなかなかいないぜ。このオレにこうまで逆らう女なんてよ」
右手にはふたたび黒銀の刃が形を成し、恐ろしい威力でもって美桜に突き付けられていた。
息を止めて身体をかたくする彼女をながめて、彼はクッと笑う。
「おまえのやせ我慢がどこまで続くか、見せてもらおうじゃねえか」
「や………」
顎の下のハイネックのワンピースの先に冷たい刃先がかかると、黒刀が容赦なく布地を切り裂いていった。
声にならない衝撃が美桜を襲い、遅れて悲鳴があがった。
「いやあッ!」
はねのけようとした若者はびくともせず、転がりのけようとした身体は腕をとられ、男の人の重みがのしかかって逃れようもなかった。
息もふれかかるほどすぐそこで見下ろした彼が、怒気よりも楽しそうに美桜を見下ろす。
「ちょうどヒマもてあましてたんだ。おまえ、悪くない顔だし、スタイルもオレ好みだ。如月の女なら、なお楽しいぜ。自分の女を寝取られたら、あいつ、どんな顔すんだか──」
低い笑いをもらして冷たい刃先が美桜の首筋から鎖骨を伝った。その恐ろしさに凍りついた。
「やめて……」
「おまえが知らないなら教えといてやる。聖魔を傷つけるのはなにも、妖魔だけにかぎらない。聖魔同士でも充分だ。とくに、おまえみたいな弱っちい相手ならな」
黒刀が肌をすべって下着の先にかかると、もてあそぶように切られた。同時にチリッとした痛みが走る。
ふだん外にさらさない肌が外気にふれて、美桜の目から涙がこぼれた。
黒刀が消えて若者の手が美桜の両腕を床に押し付ける。視線でなぶられている気がした。
「ヤツの女なんてもったいねえな」
羞恥と恐怖で息がつまった。やめて、ともう一度嗚咽まじりに声が出る。
「わたし、なにも知らない……。ほんとうに。だから、もうやめて」
フンと今度は興味なさそうに鼻が鳴らされる。
「べつに、それならそれでいいぜ。言ったろ。ヒマつぶしだって」
彼の顔が首筋にかかると、息遣いとともに他人の舌が美桜の肌を這った。全身が総毛立つ嫌悪感でふるえた。
「やだ………イヤ」
彼の片手が乱暴に美桜の肌をわしづかみにする。顔がそこにうずめられていって、若者の息はすぐに荒くなった。
「なんだ? ……すげえ、力がみなぎってくる。……なんだ? おまえ、なんなんだ──?」
少しだけ顔を上げた彼の顔は、驚愕に満ちていた。
美桜はただ恐怖にわなないて、やめてと懇願する。すると若者は、なににか一瞬怒気を走らせた。
「うるせえ、カラス! 黙ってろ!」
ぶつけられた言葉に身体がふるえた。
美桜のふるえを感じたように若者が低く笑った。
「おまえ、ただの聖魔とは違うみたいだな。おもしれえじゃん。何者なのか、じっくり調べさせてもらうぜ」
「やだ……!」
つかまれた手に力が入って、痛みに美桜は顔をゆがめた。嫌悪感しかなかった。
こぼれる涙の視界で、恐怖にかき立てられて美桜は叫んだ。
「……らぎ、如月さん! 如月さん、たすけて……!」
「うるせえな! すこし黙れ!」
「やだあッ! 離して……ッ」
かろうじて自由な片手で抗議し続けたその時、フッと身体にかかる重みが消失した。それは唐突なさまだった。
痛そうな音が響いて壁にかかった扁額が落ち、ガラスの割れる音がした。
美桜は自分の身体に落ちる影を認めた。美桜のはたで大きな背中を向け、立ちはだかったシュウの姿だった。
反対側の壁まで殴り飛ばされた若者が、怒気をあらわに身を起こした。
「てめえ……如月」
殴られた跡をこぶしでぬぐい、不穏な空気が見る間にその場を占めた。
「だれに手を上げたか、わかってんだろうなあ……!」
若者が声を荒げるや否や、鋭利な黒い小刀のようなものがいくつも飛び出し、シュウと美桜たちのほうに襲いかかった。
とっさに目をつぶった美桜とは反対に、シュウの手には氷色の大刀が表れる。それが一振りされただけで、黒い小刀は霧散した。
「な……」
驚愕したのは若者のほうらしかった。が、一瞬で怒気に変わっている。
「てめえごときがこのオレに楯突くんじゃねえ!」
シュウの身体が突如としてわき起こった竜巻にのまれた。間近にいた美桜は力ある風圧に押されて壁に打ち付けられる。
明らかにシュウ一人を狙った小型の竜巻は、彼の動きを封じるものにほかならなかった。
その彼のはたに右腕を黒い刀に変えた若者が、殺意をこめてそれを振りおろすところだった。
金属を打ちつけるような、激しい音が響いた。
竜巻をものともせずたじろがなかったシュウが、自身の武器で一撃を受け止めていた。若者の顔には嘲笑が浮かぶ。
「てめーの武器じゃ、オレの力に太刀打ちできねえって知ってんだろが。バカが!」
が、余裕は一瞬だった。拮抗していたように見えた力は、シュウがこめた一撃でいともたやすく振り払われた。
「なん……!?」
続けざまに繰り出されるシュウの攻撃を、若者はかろうじて打ち合い、かわしていく。
だが明らかに押されているのは若者のほうだった。その事実が癪にさわったらしく、一度飛びすさって距離を置くと、シュウの身体が再度竜巻に包まれた。
音を立てるほどはげしいものだった。
短く嘲笑し、右腕の黒刀をふるうと、先にも見た鋭利な小刀が幾本も竜巻の中に飛び込んでシュウに襲いかかった。
目をみはる出来事が起こった。シュウが大きく太刀を一振りすると、竜巻も小刀もあっけなく霧散した。
後には、かすり傷ひとつ負った様子のないシュウがいた。
氷色の太刀が瞬時に銃型に変じると、間髪入れず肚に響く音が道場をふるわす。
声をあげたのは若者だった。黒銀の右腕がシュウの一発に撃たれ、見る間に人の腕にもどった。
「てっめえ……如月。ありえねえぞ。戦闘兵でその力……。いったい、なにしやがった」
シュウは冷ややかに銃口を再度若者に向けた。明らかに狙いは頭部だった。