雨の夜 4
階下で待っていたシュウの車に乗り込むと、めずらしくタマも一緒についてきた。なぜかといえば美桜の疑問をシュウにぶつけるためだとわかった。
「シュウ。あんたが昼間いったいなにしてるのか、美桜は疑問らしいわよ」
「タマ……!」
「本人に聞けって言ったでしょ。私はあんたのナゼナニ博士じゃないのよ」
そうじゃなくて、と美桜はあせって運転席を見やる。ワイパーの先から目を離さないシュウはなにを思ったのかわからなかった。
「夜、ちゃんと休めてないなら、昼は休めてるのかな、って……」
美桜に起こされるまで気付かなかったシュウは、付き合いの短い彼女でも疲れがたまっているのかな、と思う。
昨夜のように雨にぬれながら駆け回っているのなら、疲労の蓄積ははげしいだろう。聖魔の限界は知らないが、先日のように倒れたりしないか、心配だった。
それを、あら、とタマがまぜっ返す。
「なんだ。私てっきり、美桜がシュウのプーを心配してるのかと思ったわ」
「はあ?」
「二十歳すぎの目つきが悪くてがたいのいい若者が職も持たずにプラプラしてたら、チンピラ街道まっしぐらっぽいものね。その心配じゃなかったの?」
違う! と美桜は思い、ハタとタマのいう可能性にも気付いた。だいたい一匠伯父からして、なにをしているのか得体の知れないところがある。
と、タマが大きくふきだした。
「やーだ、本気にしないでよ。あんたってホント、むかしっから考えてることがすぐ顔に出るんだから」
似たようなことを伯父にも言われた。美桜はいそいで頬をこする。すると、運転席からため息が出た。
「──警備保障会社の社員です。昼間は模擬格闘指導にあたっています」
会社員なんだ、と意表をつく答えだった。まあ、そうでなければプラチナカードなど持てないだろう。
しかし、この若さで指導員……そしてやっぱり格闘系、と変に感心してしまった美桜だった。
体育会系だからあの食欲なのか、と納得もし、しかしいったい、どういう経歴の持ち主なのだろうと新たな疑問がわく。
「えっと……社員さんなら、始業時間とか──終業時間とか、大丈夫ですか」
常に美桜に合わせてもらってしまっている。シュウは右折のウィンカーを出しながら淡々と答えた。
「師範代の肩書をいただいているので、融通は効きます」
やっぱりナニモノ、と心で冷汗をかく。格闘系にはうとい美桜でも、その肩書が簡単にもらえるものじゃないのは想像がつく。
しかも、シュウの若さだったらきっと反発も大きかっただろう。それらをおくびにも出さない青年に感心もしていた。
タマが少し鼻で笑う。
「聖魔だって働かなきゃ食べていけないもの。まあ、大丈夫よ。巽家の系列だから」
また!? と美桜は内心おどろく。巽家はずいぶんと手広い。
「えっと……でも、そうしたら如月さん、休むヒマ、なくないですか?」
「問題ありません」
もう聞きあきた、そのセリフ……と心で思ってタマを見やった。タマは人が悪そうに笑っている。
「シュウの身体が心配なんです、ってはっきり言わないとわかんないわよ?」
「タマ……ッ!」
頬に血がのぼる思いであわてて視線をもどしても、シュウは淡々と運転に向かっていた。意地が悪く、タマは美桜に告げる。
「シュウの身を心配するなら、巽家に身を寄せたら? おじじにもはじめにそう言われたでしょ」
「え……」
「一匠はあんたに甘いから。いきなり生活を激変させたくないんだって。だから、シュウの送り迎えはあるけど、生活自体に変化はないでしょ。ホントだったら、どっかに監禁されてもおかしくないのに」
妖魔に狙われ、聖魔の間にも知れ渡れば混乱が起こる存在であるのに。久子に言われた言葉が思い出される。
以前と同じようにはいかないことを自覚したほうがいいわ──。
美桜は指先をにぎりしめた。タマは淡々と事実だけを口にする。
「まあ、巽家に身を寄せたら、今の仕事も辞めなきゃならないわね。到底通えないでしょ。そのうち聖魔のだれかと見合いでもして、結婚して子どもを産む。──そういう人生でもいいんじゃないの?」
タマに指摘されて美桜も気がついた。食べて、生きていくために仕事はしているが、とくに今の職に執着があるわけでもない。前の職場だって、けっこうあっさり辞めてしまった。
美桜は自分を立て直すためにとにかくひっしに毎日をこなしていた気がするが、将来に対する展望はなにも抱けていない。
結婚して子どもを産むだけが人生ではないと、先の失敗でわかってはいるが。じゃあ、ほかに自分にはなにがあるのだろう。
あの時にも思った、ぽっかりと空虚な自分に美桜は押し黙った。
「……タマって、イジワル」
「はあ? だれも言わないから私が言ってやってんでしょーが」
「久子先生のこと言えないじゃない。タマだって十分口が過ぎるよ」
「っは。じゃあ言ってみなさいよ。あんたに他のどんな生き方があるってゆーのよ」
グッとつまった美桜は、タマのほーらごらんなさい、と勝ち誇った顔にカチンとなった。
「わたしはこれでも、毎日ひっしなの! ご飯作って掃除して仕事して……イヤなこととか、大変なこともあるけど、それでもけっこう頑張ってるの! それのなにがいけないの? おじさんがわたしの生活を守ってくれるっていうなら、わたしはそこで頑張るだけだもの!」
言ってハッとした。タマはフン、と鼻をならしている。
「それならそれでいいじゃない。あんたの長所と短所は、そうやって人のことを気遣って自分を殺しちゃうところなのよ。まわりを思いやるのもいいけど、自分のこともちゃんと守りなさい」
「……タマ、お母さんみたい」
「こんなに手のかかる子ども、産んだ覚えないわよっ!」
クッと運転席から笑いがもれた。シュウは短く笑ってそれを収め、失礼しました、と返す。
シュウにまで笑われたじゃない、とタマの視線が投げられ、わたしのせい!? と無言のやりとりが交わされる。
そうこうしているうちに会社近くのいつもの路肩に車が停まり、美桜がシートベルトを外していると、運転席を降りたシュウが後部座席のドアを開けた。
じゃあね、とタマは尻尾をふってそこから飛び降り姿を消す。
乗り込んできたシュウに美桜はえっ、ととまどった。
彼が後部座席に来るのは精気のやりとりをするためだとわかっているが、朝にその習慣はなかったので逃げ腰になった。見越したようにシュウは無表情に告げる。
雨が降っていますので、と。
念のためということだろう。理解できたが、美桜はとっさに車内から外を見やった。
後部座席はスモーク窓になっているが、フロントガラスからは丸見えだ。
つい先日、シュウの車から乗り降りするところを社内の人に目撃され、「彼氏?」とからかわれたばかり。精気のやりとりするところを見られたら、もう言い逃れもきかない。
しかし、シュウに美桜の事情はわからない。窓ガラスに張りつく彼女にただ怪訝な顔をされる。
シュウは義務なんだし、と言い聞かせ、だれも通りがかりませんように! といつものお祈りをしてガラス窓から身を起こした。
彼の顔が近付くのを見守るのは気恥ずかしくて、美桜はいつもぎゅっと目を閉じている。それでも彼の仕草は覚えつつあった。
シュウは意外に、気遣うように美桜にふれる。
こんなに武骨そうな青年なのに、と彼の指先が隙間が足りなさそうに美桜の顎にふれて持ち上げるたびにそう思う。
「……っ!」
唇がふれたとたんに、美桜には余裕がなくなる。
熱い息吹が身体中をかけめぐって、鼓動の音に聴覚は占められる。脈打つ血液のひとつひとつまでわかるような、熱い奔流。追い上げられて息がせり上がる。
目もくらむそれにのまれて、いつも通り身体中に力が入らなかった。
息を切らしてちょっとぼうっとしていた美桜は、あれ? と思う。いつもなら肩を支えられているはずなのに、シュウの胸元に寄りかかっていた。
すぐ近くで、彼の声が落ちる。
「主人を守るのは自分の役目です。あなたが俺の身を気遣う必要はありません」
(……はじめて、俺って言った……)
息が静まるのを待ちながら、美桜はシュウの体温を感じていた。ふしぎと落ち着く人の暖かさだった。
息遣いが収まって美桜はひとつ息を入れ替え、そのまま顔を上げてシュウの首筋に口付けた。大きな彼にはすこし届かないから、胸元の服をにぎりしめて首を伸ばした。
ほんとうに、恋人同士の行いと相違ない行為に、どうしても頬は赤くなる。精気を吹き込んで離れた。
「……必要ないとか、言わないでください。あなたがわたしを主人だって言うなら、主人だって僕の心配はするんです」
シュウはいつも冷たいくらい無表情で口調も冷ややかだから、なにを考えているのかわからない。
けおされて美桜は口をつぐんでしまう。だから、主張したいことはそれに負けちゃいけないのだと、学んだ。
「ほんとうは、このままじゃいけないんだろうって、わかってます。まだどうしたらいいのかわからないし、一匠おじさんや如月さんに甘えてますけど……ちゃんと、考えます。だから如月さんも──必要ないとか、拒絶しないで。自分の身体のこと、ちゃんと考えてください」
困惑げに眉を寄せられ、この人は限界まで無理をする人だったと思い出した。美桜は小さく息をつく。
「聖魔って、身体能力に秀でる代わりに、自分のことには無頓着になるんですか?」
ちょっと嫌味っぽく上目遣いになった。依然として困惑があらわなシュウに、ふと笑いがこみあげた。
「仕事行きます。送ってくれて、ありがとうございました」
荷物を持って車を降り、傘を広げて会社のほうへ小走りに向かっていった。
シュウもかるく息をつくと運転席へもどった。
滴をはらい、雨よりも彼女の呼気がまだそこに残っている気がした。片手がしぜんとそこにふれていた。
──拒絶しないで。
自分におびえて怖がっているふうなのに、なぜそんなことが言えるのだろう。
なぜ──笑顔など向けることができるのか。
自身の体調管理は彼女に心配されるまでもなく、軍隊時代から訓練のうちのひとつだった。おのれの管理はすべて、おのれでこなす。
彼女はそれを知らないから、彼の気遣いなどよけいなことに気をまわすのだろうと思った。だから必要ないと言っただけなのに。
(調子が狂う……)
巽家の食事とは違う。店先で食べる料理とも違う。彼女が手作りした味。はじめは困惑と遠慮がちだったのが、気がついたらアッという間に平らげていた。
どうかしている、とシュウは眉根を寄せて目を閉じる。
胸に刻まれた刻印よりも、彼女がふれたそこがなにより熱く存在感を放っていた。