週末の終え方
朝食を終えて庭の見える部屋でひなたぼっこがてら、のんびり読書をしていた。
朝起きたら、いつの間にか足もとで丸くなっていたタマも日だまりの中で毛づくろいをし、いたってのんきな光景だった。
そこに襖の向こうから声がかかり、笹野さんに案内されて別室へ赴くと、巽老人と先日逢った名取女医が控えていた。用件は健康診断の続きだという。
そんなに美桜の健康状態をチェックするのは急務なのかと、すこし逃げ腰になった。巽老人が先日の伯父と同じことを保証し、美桜は久子と二人きりになる。
先日の件を謝られて、美桜はあわてて首をふった。久子に謝られることではないと思う。
彼女はやっぱりくったくないさまで大きな荷物の中からあれこれと準備をはじめた。
血圧を計られ、聴診器で心音をたしかめられ───ほんとうに健康診断と変わりない。
今日の久子は白衣を着ていないせいか、ふつうに近所の主婦といった感じで、医学的なカルテを書かれると違和感があった。
「───それでね、美桜ちゃん。生理周期を教えてもらえるかしら」
とまどったが答えた。たぶん、美桜が病院にかかった記録は不妊治療を受けていた半年以上前のもので止まっているのだろう。
久子はうなずきながら書き留め、手帳をめくって日にちをたしかめた。
「そうすると───今度の生理日は月末から月始めのあたりね」
美桜はとまどいのままたずねた。
「それって、なにか重要なんですか………?」
久子は顔を上げると、美桜の表情にかるく苦笑した。
「これが私が呼ばれた理由でもあるのよ、美桜ちゃん。一匠さんたちじゃ、月経の話なんてできないでしょう」
されても困る。まだわかっていなさそうな美桜に、久子は小さく笑った。
「あなたの流す血に、闇の気は群がると聞いているわ。一匠さんたちも、いつを重点的に警戒すべきか、前以て把握しておきたいのよ。なにが不測の事態になるかわからないからね」
言われて美桜も思い出した。
前回、闇色の影に傷つけられた時、黒い影に───闇の気に、美桜は喰い付かれた。タマが払っても払っても、身の内を蝕んだ痛いほどの苦しみは記憶に残っている。あれが生理期間にも起こるのだろうか。
青ざめた美桜に久子がやさしく笑いかける。
「大丈夫よ、美桜ちゃん。シュウ君があなたの護衛についているし、一匠さんたちも最善の手を打つと思うわ」
でも、と美桜はやりきれない思いで顔をゆがめた。
「わたし、先月の生理の時はなんともありませんでした。ふつうにお腹が痛いくらいで………。なんでいきなり、そんな───」
言葉にできないもどかしさと、理不尽さで心が乱れた。久子も同情するように眼差しをやわらげる。
「そうね。一匠さんたちの取り越し苦労で終わる可能性もあるわ。でも………美桜ちゃん。あなたはもう、彼らに見つかってしまった。あなたの波長がそちらに傾けば闇の気がたやすく現れるのは、先日も目にしたでしょう?酷なことを言うようだけれど………もう以前と同じようにはいかないことを自覚したほうがいいわ」
美桜はその時やっと、自分がどれだけのんきに事をながめていたのかを知った。
泣きだしたい思いになりながら、美桜は久子に訊きたいと思っていたことをぶつけた。
「先生は………わたしが、聖魔と妖魔、両方を産める存在だって、聞いているんですよね?」
「ええ」
「わたしの卵子とか、実験に使ったりするんですか?」
久子は目をしばたいて首をかしげた。
「体外受精を試すんじゃないか、ってことかしら?」
「はい」
うーん、と久子はうなった。口にすべきかどうかを迷ったふぜいで、美桜の真剣な面持ちにかるく息をついた。
「あのね、美桜ちゃん。そりゃ、私たちは聖魔を研究している人間だけれど、あなたの承諾なしに倫理に悖る行為はしないわ。───信じられない?」
美桜はためらって眸を落とした。
「………先生がしなくても、そういうふうに考える人はきっといますよね」
不妊治療を受けていた美桜が、その可能性にすがったように。
久子は困ったように首をかしげた。
「この件は、美桜ちゃんにとってとてもナイーブな問題なのね。………あのね、美桜ちゃん。一匠さんは話さなかったかしら。聖魔に繁殖能力はないんだ、って」
はッと美桜は顔を上げた。久子は小さくうなずく。
「男性の聖魔に子種はないのよ。女性の聖魔も月経がない。だから排卵もしないわ。よって、ね。体外受精を試みようとしても、精子のサンプルがないの」
なんだ、と美桜は気抜けした気分になった。同時に疑問がわく。
「でも、じゃあ………どうやってわたしは聖魔の子どもを産むんですか?」
「あら。その気があるの?」
「………疑問なだけです」
クスクス、久子は人が好さそうに笑う。採血の準備をはじめながらそれがね、と明るく告げた。
「私にもさっぱりよ」
「はい………?」
肩をすくめてわからない、と意志表示をしてみせる。
「一匠さんもそこのところは教えてくれないのよね。でもたぶん………推測するに、あなたとふれあうことで、聖魔になんらかの変化が起こるんだと思うの。シュウ君に王印がついたように、彼の力が格段にはね上がったように」
とまどって眸をゆらす美桜に、久子はちょっとあらたまったように器具を置いて向き直った。
「美桜ちゃん。ほんとうなら私なんかが話すべきことじゃないと思うけど………でも、あなたに関わりあることだから話しておくわ。───聖魔は、突然変異で生まれる。その数はほんとうに少ないの。それが、ここ何十年も聖魔は誕生していないのよ」
「え、だって、如月さんは………」
ああ、と久子はかるく額を押さえた。そこからか、というように。
「戦闘兵なら生まれているわ。でも彼ら戦闘兵は聖魔ほど長生きではない。人より多少、長生きするぐらいよ。戦闘兵と聖魔の違いは聞いた?」
「妖と契約する力がないって………」
久子はうなずく。
「聖魔は昔からね、妖と契約し、その力を使い、長寿の生を生きるものをこそ、聖魔とする考えがあるの。それを上級聖魔といって、シュウ君たち戦闘兵を下級聖魔といって区別しているわ。もちろん、巽家や一匠さんたちはそんな考えの持ち主ではないけれど………身分差があるのはたしかよ」
言って久子はため息を落とす。
「人の社会と同じ、格差がまかりとおっているのが聖魔の世界よ。そこに美桜ちゃん、あなたの存在が知れ渡ったら、どうなると思う?」
「え………」
久子の眼差しは厳しかった。逃げることをゆるさない色。
「各家からの争奪戦になるわ、間違いなく。あなたは、何十年も現れていない聖魔を自分たちの手で産み出せるかもしれない、希少な存在なんだもの。だれもがあなたの身を欲しがるわ」
震撼として美桜は身じろぎした。久子の話は恐怖しか誘わなかった。
だからね、と久子が言いつのろうとしたそこに、どこからともなく現れたタマが背後から久子の頭の上に乗っかった。
突然のことにキャ、と声をあげた久子の髪の毛を乱してタマは飛び降りる。美桜の膝の上で久子に冷ややかな睥睨を投げた。
「好き勝手なことペラペラしゃべってんじゃないわよ。一匠はあんたにそんなこと頼んでないでしょう」
「タマ………」
かばってくれた事実と、なにかにすがりたい思いで美桜はタマを抱きしめた。タマが抗議の声をあげる前に、ちょっとだけ、と泣きそうな思いですがる。
タマがしかたなさそうに息をつく気配があった。
美桜は聖魔を産める存在。妖魔も産める存在。闇の気に狙われるのは理解したつもりだった。そのためにシュウが護衛についていてくれるのだと。
でも美桜は、聖魔からも身を守らなければならない。タマが言っていた貞操の危機とは、そういう意味だったのだ。
(怖い………)
一匠伯父はこんな世界に美桜を放り込んで、いったいなにがしたいのだろう。伯父が美桜を裏切ることはなくとも、周囲の環境はそうはいかないのではないか。
「ミーオ」
腕の中の猫に呼ばれて顔を上げると、ペシ、と肉球が額に当たった。
「一匠を信じなさい。一匠はあんたの人権を守るために、いまあちこちを駆け回ってるんだから。あんたに疑われたら、あの強面顔が泣くわよ」
想像つかない。考えてみようとして、フッと張りつめた気分がほぐれた。それを見てタマは美桜の腕の中から降りる。
髪の毛を直しながらその光景を見ていた久子に冷ややかな一瞥を投げた。
「だから私キライなのよ、研究者って。人の感情もそっちのけに結果しか見ないんだから。あんたたちにとっては生まれたての聖魔を研究できるチャンスかもしれないけど、命を軽々に捉えるのは医学の道に反するんじゃないの」
フン、と鼻を鳴らすタマに、美桜はそうか、とも思う。久子たち研究者にはそういう思惑もあるのかもしれない。
「ええと………」
久子は困ったように笑いを落とす。
「私なんだか、タマちゃんに嫌われてるみたいね。なんて言っていたの、美桜ちゃん」
え、とおどろきそうになって、先日の久子の話を思い出した。聖魔でなければ、彼らの言葉は聞き取れない───。
「………一匠おじさんを、信じなさいって」
そう、と久子は返し、少し考え込むように沈黙を落とした。そうして大きなため息をついた。
「ごめんなさいね。私先日から、美桜ちゃんを追い詰めるようなことしか口にしていないのね」
ほんとうに反省するように額を小突いているから、美桜も冷静になれた。いいえ、と。
「先生は、わたしがちゃんと知っていなきゃいけないことを話してくれただけです。知っていなきゃ、如月さんに必要な精気みたいに取り返しのつかないことになってたかもしれない。だから………ありがとうございます」
聞かされた話に怖い気持ちはあったが、素直な思いで頭を下げた。
久子はだからね、と言った後に、美桜に自分の身を守るように、と言いたかったのではないかと思えた。
たしかに研究者としての彼女の中には、タマの言ったような一面もあるのかもしれない。でも久子は、美桜の置かれた立場を思って忠告してくれた。
彼女がご先祖の聖魔に向けていた親愛はウソではないと、あの時感じた。
顔を上げた美桜に久子はやわらかくほほ笑んでいた。
「あなたはいい子ね」
美桜はたじろいだ。三十路を越えて面と向かっていい子と言われた経験はない。
フフ、と久子は笑って美桜のはたの猫にも眸を移した。
「私も少し、気が急いていたみたいね。いままでにない、次世代を生み出せる存在に逢えて」
大きく息を吸って吐きだすと、落ち着いたさまで美桜を見返した。
「美桜ちゃん。老婆心だけど、耳に入れておいてね。聖魔はね、圧倒的に男性体が多いの。数少ない聖魔の中でも、女性体はほんとうにごくわずかよ。それはきっと、妖魔との闘いに理由があると思う。女性の身体では、どうしても限界があるから。
───彼らは、聖魔として生れついたその時から、次世代は残せない因果も背負うことになった。望もうと望まざると。………あなたになら、きっとその気持ちがわかるわよね?」
美桜は唇をかんでうつむいた。
自分のいまの立場は自身で望んだものではない。聖魔となった者たちも一緒だと、久子はそう言いたいのだろう。
次世代を残せない悲しみ、苦しみを、美桜ならよく知っているのではないかと───。
「………先生、ずるいです」
やっぱり美桜を追い詰める。
女性として生まれながら、次世代を残せない───子どもができない苦しみは、イヤというほど味わってきている。
美桜にはまだゼロではない可能性があったが、聖魔という宿命を背負わされた者には、ゼロを突き付けられたのが現実だったのだ。
これからきっと、美桜はそういう人たちと関わらざるをえない。
それでもいままでのように男性を敬遠し、男はもういらない、という姿勢を貫けるのか。───られるのか。
美桜だって不妊治療に通っていたとき、着床した、と喜ぶカップルや、自然懐妊した、と喜ぶ夫婦を見てきた。おめでとうございます、と祝福を述べながら、心の中ではなぜ自分じゃないのだろう、という思いでいっぱいだった。
こんなに望んでいるのに。こんなに待ち望んでいるのに。その思いはだれにも負けない自信があるのに───。
「…………っ」
思わずこぼれた涙に急いでぬぐった。あの時の思いがドッと去来してきて美桜の鼻をぐずらせた。
タマがあきれたようにティッシュ箱を手で押してきて、ありがたく引き抜く。鼻をかんで、美桜はつと───久子に手をにぎりしめられていた。
ちょっとぽかんとするくらい、それは唐突なふるまいだった。
「ごめんなさいね、美桜ちゃん。私はやっぱり、あの人寄りでしか聖魔を捉えられない。………タマちゃんが私を嫌うのもムリないわ。でも、ね………」
ぎゅっと、美桜の手をにぎる力がこもった。
「私も、二児の母よ。あなたがこの先どんな道を選ぼうと───たとえそれが、聖魔とは関係のない道だとしても、あなたが幸せになれる道ならば、私は応援する。絶対よ」
またたいて美桜は久子を見つめ返した。知らぬ人が現れたような───でも知っている、美桜を絶対的な庇護でくるむ人。
───母親。
久子は美桜の母親の代弁となって、言ってくれた。
美桜がどんな道を歩もうと、どんな人生を選ぼうと、絶対味方になる。かならず力になる。───母親だから。
母に逢いたくてたまらなくなった。はい、と答えてきゅっと唇をかみしめた。
と、襖の向こうから声がかかった。失礼してよろしいですか、とシュウの声で。
どうぞ、と答える久子の声にスッと襖が開かれ、シュウが姿を見せた。
室内を一瞥すると、シュウはスタスタと美桜に近付き、間近で膝を折った。
「───何かありましたか」
「え………な、なにも」
おどろきながらあわてて美桜は涙の跡をふく。タイミングよすぎ、とちょっとうらめしく思いながら。
するとタマの冷静な声が出る。
「邪気はきてないわ。巽家の守りはさすがね」
なにかを感じて彼は来たのかな、と美桜は鼻をすすってシュウを見上げた。
ジッと、検分するような───どこか案じる色を宿した眸に出逢って、ドキリと鼓動が鳴った。
急いで眸をもどして鼓動を押さえた。ナニコレ、とちょっとびっくりした思いで。
シュウの静かな声が聞こえた。
「昼食の準備ができたそうです」
言われると美桜には空腹が思考を占めた。朝ちゃんと食べたのに、と気恥ずかしさも覚えてしまうくらいの食欲だ。
そこに久子があわてて待ったをかける。
「シュウ君が来てくれたのなら、ちょうどいいわ。シュウ君か、貫成さまがいる時にって言われてたから。ご飯食べて血糖値上がる前に採血させてね、美桜ちゃん」
説明を受けていた美桜もはい、と答えていた。部屋にある机に袖をまくった左腕を置き、結束バンドに静脈が浮き上がる。
用意された注射針にいつものように直視できず、ギュッと目をそらした。久子は少し苦笑し、ちょっとチクッとするわよ、と子どもに言う口調で採血を済ます。
抜かれた針跡に脱脂綿で押さえられ、ホッと美桜が涙目を開けると、シュウが美桜の腕をとって脱脂綿の先の針跡に口をつけた。
「はわ………!如月さんっ」
ビクともしない彼の顔を───美桜の傷口に口をつけている彼の顔を、はじめて目にした。
ひどく無防備な、保護欲をかき立たせられる無心さだった。ナニソレ!?とまたも鳴る鼓動に混乱し、かけめぐる熱にその感情も押し流された。
ハッと息をついたが、いつもよりはかなりマシだった。首筋じゃなかったからだろうか。
久子のクスリと笑う声がする。
「仲がいいのね」
違いますぅ、という美桜の声にならない目だけが事実を物語る。
シュウが傷口に精気を吹き込むと、針跡は見る間に消えた。───自分が、自分じゃないものになった感覚。
ナニコレ………ともう一度思って、痛みもなにもない左腕を取り戻した。採血検査をされると鈍い痛みとだるさが残っていた左腕。なんともない、腕。
困惑のまま袖をもどし、荷物をまとめた久子とともにシュウに案内されて昼食の場所へ向かった。久子は急いでいるから、と食事を断って巽家を後にする。
巽老人は席を外しており、シュウと二人で昼食をとる事態になっていた。
先日からなれた状態ではあったが、おうどんの昼食がシュウだけ追加メニューでお代りと天丼とかき揚げ丼が加わっていた。
見惚れる食欲に目を奪われ、ほんとうに体調はもどったらしいとわかる。なんだか安心する光景だった。
午後はだれに干渉されることもなく、のんびりうたた寝まで満喫し、三時すぎにお茶の席に呼ばれて巽老人がたててくれた本格的なお抹茶にかしこまった。
そんなこんなで、美桜は土日を十分休息し、人様のお宅でリフレッシュまでさせてもらい、帰宅の途に着いた。