週末の過ごし方 2
「───美桜!」
呼ばれるのと、美桜が身体を支えるために手をついた岩場がぐにゃりと変形したのが一緒だった。
バランスをくずした美桜の耳は、以前にも聞いた肚に響く銃声を拾った。そして岩場に思いっきりおでこをぶつけていた。
戯画のように星が散るくらい本気で痛かった。と、その美桜のおでこをぬるりとなにかがふれていって、銃声の音が立て続けに響いた。
木々の合間から鳥たちのおどろいて飛び立つ音がする。
なんとか身を起こした美桜は、間近で背を向けたシュウがなにかに向けて発砲しているのを見た。渓流が流れていく起伏の影で、美桜もちらりとその姿を見た。
───子猿のように小さく、しかしその姿はありえない異形の形をしていた。
(一つ目の、鬼………?)
一瞬ふりむいた顔には大きな目がひとつ。青黒くでこぼこした肌の頭には、明らかに角があった。
鋭く舌打ちしたシュウが後を追いかけて、美桜の存在をあらためたようだった。一度彼女をふりかえり、妖が消えていった方角をながめ、吐息で追跡を断念した。
シュウの右手にあった氷色の銃が溶けるように消えたのを美桜は見た。
「───立てますか」
その右手が差し出されて自分がへたり込んだままなのをあらためた。
手を借りて立ち上がり、突然の光景にまだビックリしていた。
「いまの、なに………」
「妖魔の一種です。───あなたはいったい、こんなところで何をなさっていたんですか」
「え、あ………ちょっと、散歩………」
シュウの迫力は明らかに怒気をはらんでいた。たしかに、温泉に浸かっているはずの美桜がこんなところをウロウロして妖魔に狙われていたら、護衛のシュウとしては叱声のひとつやふたつ、投げたくなるかもしれない。
縮こまって、美桜は謝った。
「………すみません」
大きなため息がつかれて、美桜の額髪がかき上げられた。え、と思うそこにシュウの唇が落ちる。
「きさ………っ」
ぶつけた額は少しこすって血がにじんでいたらしい。そこにシュウが口をつけ、精気を吹き込んだ。
痛みが熱にとって替わられ、目まいのするそれに膝がくだけた。それをシュウが支え、美桜の身体はたやすく抱え上げられた。
川岸からもとの歩道にもどり、手足に力が入って美桜は降ろしてもらった。先日といい、今回といい、自分の身体が軽々と運ばれるのにはどうもなれない。
そこに、緑を飛び越えてタマがやって来た。
「シュウ!妖魔の気配がしなかった?」
「───取り逃がしました」
「逃がした?シュウが?」
おどろいたようにタマが問い返し、美桜の様子に気がついた。
「美桜。怪我したの?」
思い出したように美桜も額にふれ、でも、もう痛くない、と答えようとした矢先、シュウの大きな身体がふらりと体勢をくずした。
シュウ!如月さん!とタマと美桜の声が重なる。膝をついたシュウの顔色は白く、生気がないのが一目瞭然だった。
「如月さん、大丈夫ですか!?」
ふれようとした美桜の手は拒まれた。片手で額をおおうようにして、シュウは目まいと戦っている様子だった。
「わたし、人を呼んで───」
膝を上げた美桜にタマのため息まじりの声が響く。
「精気が足りないのね。あんた、我慢しすぎよ」
「精気って………」
美桜はいまもらったばかりだ。そう思ってハッと気がついた。
「わたしの………」
この一週間、美桜はシュウからもらうばかりでその存在をつかめず、返せていなかった。はじめにタマに言われていたのに。
シュウは精気をもらえないと死んじゃうのよ───。
精気を知ろうとする努力を怠っていた。日々の忙しさや、急変した事柄にとらわれて。
自分のことしか、考えていなかった。
「…………」
どうしよう、といまさら泣きそうになった。
水や食物と同じぐらい、彼らには必要という精気。美桜だって水や食べ物がなかったらとっくに倒れてる。一週間もちこたえたシュウの体力に感服すべきかあきれるべきか。
タマは冷たくあきれていた。
「一匠もあんたも、美桜の事情なんて考慮してないで、さっさとこういうところに連れてきて考えさせるべきだったのよ」
まったく、と言って美桜を見上げた。
「私、おじじのところに行って事情伝えてくるから。あんた、シュウを休ませておいて」
「うん………」
「こういう事態だし。急ぐなとは言わないわ。ちゃんと考えなさい」
はい、としおれた美桜を残してタマは走り去った。
膝をついたままのシュウにもう一度人を呼んできますと言いかけて、彼が息をついた。自力で立ち上がり、旅館の方にもどりだすシュウに美桜はあわてる。
「如月さん!歩いて大丈夫ですか」
「問題ありません」
ウソだ。顔色は全然よくなってない。
しかしシュウが歩けなかったら美桜一人で担いでいくのはとうてい無理な話で、旅館までもどれる体力があるのはまだたすかった。
「部屋で休んでください」
外回廊から温かい館内にもどり、美桜は歩幅の大きなシュウに小走りについていく。シュウの態度は変わらずけっこうです、と冷たい。
美桜はふりはらわれるのを覚悟でシュウの腕をつかみ、その前に回り込んだ。
「お願いですから、休んで!」
今日はずっと顔色がよくないようだったのは、気のせいでもなんでもなかったのだ。気がついていたのに、プチ旅行気分ではしゃいでいた自分がたまらなくくやしかった。
彼女の訴えになにを思ったのか、シュウはおとなしく部屋についてきた。鍵を開けて部屋に通し、ベッドのあるエリアまで引っ張ってきた美桜に、シュウはため息で腰掛けた。
「………横になって休んでください」
「けっこうです」
人前で横になってくつろぐ気はなさそうだった。具合が悪い時にウロチョロされるのもイヤだろうしと、美桜は手近の椅子に浅く座った。
ホテルに泊まったあの朝から、シュウの疲れはずっと取れていないようだった。───いや、違う。もしかしたら、最初から。
彼らは怪我をしにくい、という。でもたぶん、美桜は伯父の言うように力が弱いから先のように簡単に怪我をするし、熱いコーヒーで火傷しそうになったりする。
でもシュウが精気を分けてくれるとまたたく間に痛みは引いたし、先週怪我した跡も二日ほどできれいに消えた。あれはすべて、シュウの精気のおかげだろうと美桜は思っている。
でも、シュウの怪我ははじめに見た時からずっと癒えないままだ。だから傷口が開いたりもしたのだろう。
それはすべて、美桜の精気が与えられていないから。
主従関係とはそういうものなのだと、あらためてその重みを感じていた。
美桜がちゃんと自覚しないと、人一人の生死が危うい………。
落ちる沈黙にめずらしくシュウのほうから口を開いた。
「………少し休めば、問題ありません」
うつむいていた美桜は目を上げた。そこにやっぱり強い色を刷いた眼差しを見、唇をかみしめた。この人はやっぱり、そうやって人を拒絶するのかと。
でも、美桜だってもう異性と親しくなる気はなかったし、あれからずっと敬遠していたのはたしかだ。シュウは男の人で、彼にする行為はどうしても羞恥が勝って、まだ大丈夫ですと言われる言葉に甘えていたのも事実だ。
しかしもう、そんなことにこだわっている場合じゃない。
「如月さんは、精気をどういうふうに感じるんですか」
「………感覚的なことをお教えすることはできません」
正論だろうが、もう少し歩み寄りはないのか。もともと社交的でも積極的でもない美桜はどうすれば近付けるのかわからずに膝上の手に目を落とした。
と、シュウのため息が静かに出た。
「………自分は、聖魔の力に目覚めたのがいつ頃なのか覚えていません。気付いたらそれはありましたし、力の制御を覚えてからはそれは息をするようにしぜんなものです。その感覚をお教えすることはできない」
そうだよね、と美桜も眸を落とした。息をする方法を教えろと言われても美桜も困る。ただ、とシュウは続けた。
「あなたはすでにそれを知っているのではないかと思います」
「え………」
顔を上げた美桜に、シュウはもう一度息をついた。
「自分の武器は、氷と縁が深い。あなたがお………自分につけた契約印も氷の結晶の形をしている。あなたがそれと意識したわけでも、理解していてやったことでもないのはわかっています。だが、これはあなたの聖魔としての力だ。同じように、精気もそれと認識していないだけなのではないですか」
美桜は困惑に眸をゆらした。
シュウの武器はたしかに氷色をしている。その彼の胸に表れた刻印が氷の結晶の形をしていたのは、ごくしぜんなことに思えたが、あれをしたのが美桜の力で、美桜は彼の本質を知らぬ間に見抜いていたと、そういうことだろうか。
聖魔としての力を知らず発揮しながら、それと認識していないだけ。精気も同じだと、そうシュウは言う。
たしかに美桜は、数分前にあんなことがあっても、まだ現実感が持てない自分を知っている。伯父の話を全面的に信じきれていない。聖魔、という存在をどこかで疑っている。
───怖がっている。
考え込む美桜の前で、シュウは静かに告げた。
「少し休めば治ります。まだ問題ありません」
なぜだか泣きたくなった。シュウは美桜を拒絶していない。ちゃんとこうやって話してくれた。ウジウジ悩んで怖がっている美桜の気持ちを慮り、自分のことは後回し。
人が好いのか、自分のことに頓着ないだけなのか。目を上げてシュウを見返し、………後者だろうと思った。
美桜は意を決して立ち上がった。グチャグチャ思い悩むよりもやってみよう、と。
黙ったまま見つめ返してくるシュウの眸を見て、山の日が暮れ始めているのを知る。近付いて間近にすると、やはりひるんだ。
でも、彼は美桜は知っているはずだと言った。その言葉なら、信じられる。
「……………」
そっと手を伸ばして、シュウの首筋にふれた。冷え症の美桜はいつも手足の先が冷たくて、シュウの首の温かさにきっと冷たかったろうに、彼は逃げなかった。
トクトク脈打つ鼓動を感じて、美桜は愛猫を抱いて眠る息遣いを思い出していた。
───愛しいその鼓動。
思って、突然、霧が晴れるように理解できた。
美桜は初夏の季節が一番好きだった。自分の名前の由来でもある桜の季節も嫌いではないけれど、それよりも緑が息衝く、木漏れ日が輝く、一番茶のできあがる時期。
桜が満開なのも好きだけれど、葉桜になっていく光景も好きだった。緑の合間の日差しがきれいで、美桜の好きな季節がやってくるワクワク感。
小さな頃遊んだ川のせせらぎ。はね上げた水しぶきから見た新緑。緑のにおい。
そうか、とわかった。美桜はここに来た時、空気がおいしい、と思った。ちゃんと自分で摂取していたのだ。
あれを伝えればいい、と理解して美桜はシュウの首筋に口付けた。
自分の内にあるそれを、すべてそそぎ込む気持ちだった。一週間、もらいっぱなしだったお詫びをかねて。
───もう、あんな顔色になりませんように、と。
それこそ、自分の内が空っぽになる勢いで精気を与え続け、それがどんな弊害をもたらすかを知らなかった。
限界を感じて離れようとした時には遅く、頭がひどく重たく、目まいと耳鳴りもした。貧血、とふらついた身体が力強い腕に支えられる。そこに、熱い奔流が身体中をかけめぐった。
「………っ」
シュウの精気だとわかった。いま美桜が与えたのに返しちゃダメ、と思って、無意識に彼の肩口を押さえるようにしていた。
けれどやっぱりそんな抵抗はなんの意味もなさなくて、かけめぐる熱に浮かされて追い上げられて、息が切れていた。
ハア、ハア、と荒い息遣いを聞いて、トクトクと流れるだれかの鼓動の音も耳にしていた。あれ………?とちょっとぼうっとしながら美桜は首をふりあおぐ。
夕闇がただよいはじめた室内で、凛と澄んだ眼差しが美桜を見下ろしていた。
「………加減をわきまえてください」
息もふりかかるようなすぐそこにシュウの端正な顔があって、彼の胸元で息を切らし、膝の上に抱えられている事実とを把握して、美桜は正真正銘飛び上がった。
が、いまだに力の入らない身体はよろけてひっくり返りそうになり、シュウが急いで美桜の腕をつかんで引きもどし、勢い余って二人一緒に倒れ込んだ。
わきゃ、と変な悲鳴をあげて美桜はぶつけた鼻の痛みに涙ぐむ。
とても固いものにぶつかった。身を起こして自分の真下にいたシュウの目と合い───凍りついた。
そこにペタペタとフローリングを肉球が歩く音がする。
「ミーオ。おじじが迎え寄越すって」
言いかけたタマの言葉がその光景を見て取って止まる。一拍置いて尻尾をふって背を向けた。
「お邪魔さま」と。
「ち、ちが、タマァ………!」
追いかけた声は我ながらなさけなかった。すると、美桜の下でクッ、ともれた声があった。
目をもどすと、シュウがこぶしで口元を押さえ、横を向いて低く笑っていた。
(笑った………)
伯父の一匠が笑った以上に世にもめずらしいものを目にした気分で美桜は目をみはり、その光景に見入った。
すぐに笑いをおさめたシュウがいつもの眼差しを美桜に向け、はッとあわてて彼の上からどいた。
同じように身を起こしたシュウがタマに言葉を向ける。
「迎えは不要です。精気をいただいたので、問題ありません」
「できたの?美桜」
おどろいたように聞かれて、美桜も一緒に聞き返していた。
「できたんですか?わたし」
あれだ、という感覚はあるが、たしかにシュウや伯父の言うとおり言葉にするのは難しい。それをちゃんと分け与えられたのか、自信がなかった。
シュウの眸は静かだったが、ほんの少し、色合いが違うように見えた。
「緑の息吹をもらいました。間違いありません」
ホッとするのと面映ゆい気持ちとあった。じゃ、と美桜はシュウをのぞきこむ。
「体調は?もう大丈夫ですか?」
シュウが少したじろいださまを見せた。問題ありません、と返されてホントに?と念を押し、
「───はい」と返されて、今度こそ全身で安堵した。
「よかった………」
もうあんなふうに倒れることはないのだとわかると、しぜんに笑顔になった。そこに美桜のバックから携帯のマナーモードが音を立て、あわててそちらにかけよった。
取り出してみると、タイミングよく巽老人からだった。電話に出て事情を話し、シュウに一度代わってもらう。シュウも短い応答を交わし、これから向かいます、と通話を終えた。
美桜に返すと、ロビーにいます、と背を向け、はや薄暗くなった室内でも夜目がきく獣のように部屋を後にした。
電気をつけた美桜はホッと一息つく。一仕事やり終えたような、───あんな簡単なことがなぜわからなかったのか、理解できた今だから思う悔しさとがあった。
ウォーターサーバーで冷水を飲み干す美桜を、タマのどこかあきれた目線が追っていた。
「………あんたってホント」
ん?と訊き返した美桜をやっぱりあきれた目つきでながめ、ため息で背を向けた。先におじじのところ行ってるわ、と。
タマの気まぐれにも美桜はもう慣れ、湯気の立つ温泉を心残りに着替えをはじめた。できることならもう一度、今度はゆっくり来たいなあ、と願望をこめて。
ロビーで待っていたシュウと合流し、旅館の人にごあいさつをして外に出る。
来た時とは一転、とっぷり暮れた山の雰囲気はザワザワと知らない気配を秘めて、美桜の心をさわがせた。
ちょっと怖くて、急いでシュウの車に乗り、巽家へ向かった。
三十分ほどで先週も見た豪壮な和風の門構えの前に到着し、常夜灯と開かれたままの門から続く緑の小道、間隔を置いて設置された人をなごませる灯りの色にホッとした。
シュウの車の音を聞きつけたのか、近くに待機していたのか、笹野さんがもう一人の女性と出迎えてくれ、美桜はごあいさつした。シュウにトランクから着物を降ろしてもらい、車を停めにいく彼と別れて邸内を進む。
先日と同じ部屋に案内されて美桜は着物を返してお礼を言い、コートを脱いで巽老人にあいさつに向かった。
前言どおりぬくぬくした場所で丸まっていたタマを目にし、ムムッと思う。ほんとうに彼らはいったい、どうやって短時間であの距離を移動しているのだろう。
巽老人にもあいさつと手土産を渡し、会話を交わしているうちに夕食時になってお膳を囲むことになった。
巽老人との会話は意外に楽しかった。一匠伯父の意外な逸話が聞けたからだ。伯父はやはり忙しいらしく姿は見せなかったが、その分忌憚ないところを聞けたので美桜としてはもうけた気分だった。
ただ夕食時に、「如月さんは?」と聞いた美桜に笹野さんは別室で休んでおります、と答えただけなのが気になった。具合が悪くなったんじゃないですよね?とたしかめて、巽老人のとりなす言葉に、たしかに彼にも休息が必要だろうと思いあらためた。
一週間、美桜の護衛───をしてくれていたらしい彼に。美桜が巽家にいることで彼が安心して休めるなら、と。
それがいつの間にやら、毎週巽家にお邪魔する約束事にすり変わられて美桜はなんだか狐につままれた気分だった。
部屋にもどって一人になると、テレビもない、愛猫もいない空間はいやに物音が響いて美桜をびくつかせた。
ここでタマを呼んだら絶対笑われるし、となれるまでは怖がりな一面が顔をのぞかせる。
えーい、と広いお風呂も悠々と満喫した美桜は健康的に早々と就寝することに決めた。
アルコールに頼らずとも寝付きがよくなっていたり、身体の内が知らず変わっていることに、当人だけが気がつかなかった。




