週末の過ごし方 1
晴天続きの週末だった。
目まぐるしい一週間に昼まで惰眠をむさぼりたかった美桜だが、約束の時間を思い出してしかたなく起き出した。
洗濯をしている間に猫のトイレ掃除とお風呂掃除をし、合間にコーヒーと菓子パンをつまみながら洗濯を干す。
二月の中旬。まだ寒い日が続くが、部屋の空気を入れ替えていると、冷たい中にも澄んだ気持ちよさがあって身が引き締まる。お洗濯外に干したかったなー、と心残りの気分でせめて鉢植えを小さな窓枠に出す。
支度を終えて鞄に詰め、ホッと一息ついた。
今日は伯父に言われて巽家にお泊まりだ。週末ぐらいシュウに休みをあげてくれ、と言われてしまっては、よくわからないまま流されている美桜もなんとなく逆らえない。
水曜日のあの夜、彼はどうやら一睡もせずに過ごしたようで、朝起きたら張り番のように窓際で立ち尽くしていた。
どことなく憔悴した様子から、おそるおそる「休んでいないんですか」とたずねたところ、「問題ありません」という答え。美桜は本気で彼にスイッチか電源があるんじゃないかと疑った。
だが、ホテルで摂った朝食にも、シュウは前夜ほどの食欲を見せなかったし───それでも成人男性のそれだったが、無表情の中にも疲労の色が見えて美桜は心配だった。
「如月さん………あの!」
ホテルマンから回してもらった車の中で美桜はあらためた。シュウの助手席にはクリーニングから上がってきた衣服が折り重なっていた。
車を出す手を止めてふりかえった迫力あるその眸に、美桜は懸命に言いつのった。
「わたしにできることがあったら、言ってください!」
美桜はこの時ほんとうに真剣だった。彼が休めるためには自分が会社を休んで、どこかの一室にじっとしていてもいいと思うほど。
が、彼の返した一言は、「ありません」とほんとうに冷ややかなそれだった。
同情したわたしが悪かったよ、とひねくれた気分で会社近くまで送ってもらい、今日から念のため送り迎えをします、と言われて美桜は固まった。
「………それって、必要ですか」となけなしの勇気でたずねて、彼の眸は訊き返す必要があるのかという目の色だった。
必要だからわざわざそうするんですよね、と美桜は心でグチり、先月更新したばかりの定期に泣く泣くさよならした。
そうして週末。
昨夜の帰宅途中、伯父から電話があり、先の話になったのだ。
今週はほんとうにゆっくりしたかったなぁ、と美桜は思わざるをえない。伯父に逢った先週の金曜から、怒濤のようにいろんなことがありすぎた。美桜にもちょっとぐらい休息を与えても罰はあたらないと思う。
着替えと準備を終えてベッドに腰掛け、横で丸まっていた茶太郎に愛しさがこみ上げて、んー、とすりつく。
茶太郎が嫌がってはね起き、体をふるってベッドを飛び降り逃げた。いけず、と思う美桜に冷ややかな声がかかる。
「美桜………あんた、それ私にもやったら往復ビンタくらわせるからね」
陽だまりの好位置で毛づくろいをしていたタマだった。茶太郎は自分のベストポジションを奪われ、すごすごと二番目で甘んじていたのである。がんばれ、茶太郎。
「し、しないけど………」
実は何度か猫好きゆえにタマの毛並みに手を伸ばしそうになった。よって美桜も久子女史の心境がわかった。
手を伸ばしてふれられる猫にさわっちゃいけないなんて!
「あー、えっと、如月さん遅いね」
ごまかすようにスマホを見て、番号知らないんだった、とあらためた。
「つか………なんであの人番号ぐらい教えないの」
それほど美桜は拒否られているということなのか。そう思うとさらにヘコむ。
タマのあきれた声がかかった。はあ?と。
「なに、あんた。そんなことも教えてもらってないわけ?」
え、と見返した先でタマのため息が響いた。
「あんた………シュウがこの近辺に来た時、毎回教えてあげてんのは私でしょ。───シュウはね、携帯は持てないの。携帯電話の電磁波が彼の体内にある武器と反発して壊れちゃうから。だからカードやナビもETCも、しょっちゅう取り替えてるわ。現代、聖魔になってなによりお金がかかってるのは、彼ら戦闘兵ね」
ほえ、と間抜けた気分であっけにとられ、でも、と美桜は反論した。
「一匠おじさんとか、巽のおじいさまは携帯電話持ってるよ?」
これからお世話になる家のご当主を美桜はそう呼んだ。
先日、昼休みに突然電話がかかってきてビックリして話した最中に、なぜだかそう呼ぶように決まっていたのだ。
自分のプライベート番号だから、気にせずかけてきなさい、と。
「だから」
とタマの声も顔つきもあきれまじり。
「なんでシュウがあんたの僕になり得たのか。一匠たち聖魔じゃだめだったのか。───そこのところ、ちゃんと考えてみなさいよ」
タマの口調はそっけなくとも、厳しいところを指していたのはわかった。
美桜は混沌の入り口を見たような気分になりながらも、疑問を返していた。
「………如月さんの内にある武器って、なに?」
「武器は武器よ」
「………それこそわかんないよ、タマ」
タマはあからさまにため息をつく。
「聖魔の中でもタイプが分かれてんのよ。シュウには私たち妖と契約する力がないの。その代わり、戦闘力に優れてる。聖魔としての力を武器として具象化することができるのよ。シュウの場合はさらに百雷を体内に取り入れてる。あれが電子機器を壊す最大の原因ね」
ひとり納得しながらわかっていなさそうな美桜にあきれ混じりの視線を投げた。
「あんたもはじめに、妖魔と間違われてそれ向けられたでしょ」
ああ、と美桜は思い出した。はじめに見た時の氷色の銃。
タマの話は理解できないところが多かったが、どうやらシュウには自在に取り出せる武器があるらしい。
たしかに外国じゃないのだから、銃など所持していたら捕まってしまう。しかし、あれが具象化されてできたとは思えないほど、精巧で恐ろしい威力を秘めたものだったのは、美桜にもわかる。それを造れるシュウが怖い、というべきか。
「それは、妖魔や闇の気と戦うために、必要なのよね………?」
あたりまえでしょ、という顔でタマが見返す。戦う、という単語自体が非日常な美桜には、どうしてもピンとこない。
釈然としない面持ちでいたところに、タマが「来た」と窓の外を向いて、美桜もその車の音に気がついた。
朝も迎えに来てもらっているし、美桜はだんだんとシュウの大きな車のエンジン音を覚えだしている自分に気付いた。
それは、以前の記憶にもふれる。美桜にとってはあまり歓迎できないものでもあった。
茶太郎に行ってくるね、とひとなでして水とエサを確かめ、部屋を出た。
車を降りて美桜が来るのを待っているシュウは、相変わらず景色に焼き付くような存在感だ。
ジャガードデザインのカットソーに色落ち加工のデニムが彼の足の長さを強調する。アクセサリーはひとつもつけていないのに、眸の鋭さと存在感だけで彼を彩るには十分だった。
「───遅くなりました」
言葉は詫びているのに、ちっとも謝られた気がしないその迫力。
ドアを開けてくれる彼に大丈夫です、と答え、さっさと乗り込むタマを見やって荷物をトランクに乗せていいか問う。借りていた伯母の着物を返そうとクリーニングから引き取っていた。
シュウはかるく眸を伏せると荷物を受け取り、トランクに回る。仕舞われるのを見守って影から顔を上げたシュウを見、美桜はあれ、と思った。
日中の日差しの中でも、顔色があまりよくないように見える。
「如月さん………あの」
言いかけて美桜はためらった。十中八九、問題ないと言われるのだろうが、彼が時間に遅れたのは具合が悪かったのかな、と。
するとタマの、なにしてんの、さっさとしてよ、という遠慮ない言葉にためらいを残したまま車に乗り込んだ。
運転席に乗り込んだシュウが、美桜がシートベルトをするのを待って車を発進させる。シュウの運転はとても丁寧だ。迫力ある見かけに反して好戦的でもないし、車のごつさを見てあおるように後ろにつかれてもよけて流す。渋滞にはまってもイライラした様子は見せない。
そんなひとつひとつがあの人との違いを思い出させて、───思い出してまだ胸を痛める自分がイヤで、美桜の顔をくもらせた。
「───お昼は召し上がられましたか」
「え、あ………ううん」
時計を見ると十一時半すぎ。指定されたのが十一時で微妙な時間帯だったため、菓子パンでごまかしてしまった美桜だった。
「先になにか召し上がられますか」
「え、あー………」
泊まりに行くだけでなぜこんな時間なのかといえば、一匠伯父が巽家の経営している温泉宿があるから寄ってくるといい、と言ったためだ。
運転任せのシュウには申し訳ないが、プチ旅行気分の美桜だった。
「あの………実はちょっと、行ってみたいお店があって。だから、向こうに着いてからでいいです。あ、如月さんがなにも食べてないなら先に」
美桜が言うよりはやく車が路肩に一時停車し、ご住所は、とシュウがナビの操作をはじめる。あわててスマホを取り出してチェックしていた店の住所を告げ、シュウは文句も言わず従った。
ホントに都合よく使ってしまって悪いなあ、と思う美桜にタマがたずねてくる。
「そこってなんのお店なの?」
「お蕎麦屋さんなんだけどね、少し前にテレビの特集でやってて、鴨そばが絶品なんだって。地方からもわざわざ人が来るらしいの。食べてみたいなあーってずっと思ってて」
興奮してしゃべる美桜にタマはあきれ笑いを投げた。
「茶太郎の食い意地は間違いなく飼い主に似たのね」
「タマ………!」
「気をつけなさいよ、美桜。三十すぎると贅肉が落ちにくいっていうし」
「え………っ」
思わず気になるお腹に手をそえてタマが意地悪くせせら笑う。
「ただでさえ男がいない女はブクブク太りやすいんだから。あんたちゃんと去年のスカートとかはけてる?」
「は、はけてる………よ」
「へえ。クローゼットの中にこやしになってるワンピースがあったけど?」
「あれは、着ていく場所を選ぶの!」
というか、いつの間にそんなところまでチェクしていたのだ。
「あら。男からの貢ぎ物?」
いーの!と強引に話を打ち切って通りをながめた美桜は、明日がバレンタインデーなのにいまさら気がついた。
イベント事とは縁遠くなっていたし、会社でも上司にあげる習慣はないところだったのでまったくのスルーだった。
「タマ………おじさんにチョコレートとか、あげたほうがいいかな」
タマの表情は見慣れたあきれ顔だった。いまさら?と。
「巽のおじいさまにお茶菓子は買ってあるけど………明日がバレンタインって忘れてた」
「一匠は甘いもの嫌いよ。それに、忙しいから今日は巽家には来ないんじゃない」
「え、そうなの?」
「身体が空いたら来るかも知れないけど。それより、日頃お世話になってるシュウにあげたほうがいいんじゃないの」
え、と美桜は固まった。
チョコレートと如月シュウ。なんて似合わない組み合わせかしらと。
いやでも、カカオが九十%ぐらいの超ビターチョコレートだったらピッタリかも。
タマと美桜の会話に我関せずの無表情だったシュウだが、自分の名前が出されて軽い息がつかれた。
「けっこうです」
「シュウは一匠の好みを真似てるもんね」
タマが少しからかい気味に言う。そういえば、と美桜はいまさらそっち方面に気遣いが向いた。
バレンタインデーに美桜の運転手などやっていていいのだろうかと。もしかしたら、今日遅れたのは彼女との別れを惜しんでいたからだったりして…………想像しにくい気遣いがふくらむ。
ほぼ一週間送迎をしてもらい、食事をおごってもらったり、あまつさえホテルに一緒にお泊まりしてしまった(断じてやましいことはなかったが)美桜としては、彼女の存在を思えばほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それでおそるおそるたずねた。
「如月さんって………彼女、は?」
ちょうど赤信号で止まったところだった。それはそれは不可解そうな、あからさまに怪訝な眼差しで美桜は一瞥された。
………すみません、ととっさに謝ってしまった。タマが隣でふきだしている。
「あんたのお守してるのに、シュウに女作るヒマなんてあるわけないじゃない。ホント、あんたっておとぼけ娘ねえ」
いまばかりはそう言われてもしかたない気がした。たしかに彼女がいたら美桜の護衛なんて任務にはつけないかもしれない。
「だいたい、聖魔には人間のパートナーなんてデメリットだらけよ」
そうだった、とさらに失念していた事実をあらためた。
なんだかタマがしゃべる毎日が当たり前になりつつあって、彼らが───自分もふくめて、そこから逸脱した存在だという認識が薄れていた。
たしかに伯父の話を全面的に受け容れると、乗り越えるハードルは色々と高そうだ。
美桜もちょっと息をつき、それからしばし、タマと雑談に興じた。
合間に車は一度高速道路のサービスエリアで休憩し、美桜はシュウにもコーヒーを買って二時間ほどで目的地に着いた。
お店はお昼時を過ぎていくらか流れがあり、少しだけ待ったが念願の鴨そばにありつくことができた。味は評判通り、いままで食べた中で最高で美桜はホクホク上機嫌だった。
が、シュウはやはり美桜と同じお蕎麦を食べただけでそれ以上は頼まなかった。夜だけがあの食欲なのかしら、と思いつつも、やっぱり顔色がすぐれない気がする。
それで温泉はパスして巽家に向かわないか提案してみると逆に、「具合でも?」と訊かれてしまった。
この人は自分のことにはかまわない人なのかしらと思い始めた。それはたしかに、伯父に命じられている手前もあるだろうが。
そんなこんなで結局は温泉宿に到着した。著名なエリアからははずれて、看板もない山道を走って大丈夫かしらと案じかけた時、道が開けた。
巽家の豪壮な門構えとは異なって、開放的な広さが見て取れた。高台の方に広い駐車場と平屋の建物。
入口には守衛室があって近付く車を見て人が出てくる。シュウが窓を開けて「巽家のものです」というと守衛の男性があらたまったように直立した。
どうぞ、とかしこまったしぐさで見送られて、ますます巽家ってナニモノと思う。
停まった車から降りたタマは、「この辺久々だから散歩してくるわ」と尻尾をふって自由気まま。
美桜はシュウと二人にされるのにもなれてきて、車のキーだけの軽装のシュウについていった。
山の上のほうだからだろうか、日が射していても空気の冷たさが都内のそれとはまったく違う。
澄んだ呼吸のしやすさ。おいしい、としぜんに思った。
耳が水の音を拾い、勢いのあるそれに渓流があるのかな、と思う。シュウに続いて自動ドアをくぐると、案内に立った男性がはッとあらたまった顔になった。
「───これは、如月さま。お久しぶりでございます」
丁寧なあいさつと、ようこそいらっしゃいました、と折り目正しい歓待が向けられて美桜はビックリする。
シュウは慣れているように会話を交わし、男性がうなずいて合図すると女性の従業員が呼ばれて美桜はその人に連れていかれた。
館内の説明を受けながら着いたのは、広い洋室の部屋だった。
先に泊まったホテルの一室よりも広く、解放感あふれる部屋。何畳あるのか想像もつかないリビングに、真正面のガラス張りの向こうに湯気の立つお風呂。
板張りが続くそこは洗い場とシャワーブースで、カウチのくつろぎペースまである。段差のある中央に座すのが、石造りの野趣にあふれた湯殿だった。
一人で使うのがもったいないくらいの露天風呂。
それを目にして美桜の心は浮き立った。
「ホントに、ここのお部屋使っていいんですか………!?」
日帰り温泉風呂、という枠をはるかに超えている。従業員らしい女性は接客スマイルで、はい、と応じた。
「どうぞご利用なさって下さい。あいにく、上階は本日ご予約のお客様がおいでですので、ご案内できませんが───」
「そんなの、全然かまいません!」
きゃあ、と子どものようにはしゃいで荷物を放り出し、窓辺にかけよった。入口を開けて外に出ると、冷たい空気と暖かい湯気と、緑のにおいが一度に押しよせる。川の流れの音がした。
美桜は冬の朝、真水で顔を洗った気分になって一瞬目をつぶり、気持ちをほどくように景色を見やった。
───世界は、こんなにもきれいだ。
冬の木漏れ日も。鳥たちのさえずりも。風のささやき声も。
水の流れる音が自分の身体にしみわたる。板敷きを渡ってその先に出ようとして、後ろから止められた。
館内のご説明を、と言われてあわててもどる。作務衣か浴衣で移動するように。表の遊歩道は立入禁止の立札に行き当ったら、かならず引き戻すこと。大浴場は階段を上がって右手、通路沿いに進んでいくと行き当ります───。
「はい」
興奮した面持ちで聞きながら、心ははや露天風呂に飛んでいた。従業員の女性はそんな美桜の心境を見てとったようにおだやかに笑う。
部屋の鍵を渡されて、美桜はだだっ広い部屋に一人になった。
自力で利用したら、いったいいくらかかるのだろう。
なんだかありえないことが立て続けに起こってるなあ、とのんきに思い、せっかくの機会は存分に味わわねば、と気持ちを切り替えた。
衣服を脱いでハンドタオルを手に外への扉を開け、素肌に刺した空気に身をすくめた。桶を手に露天風呂へ急ぐ。
お湯をすくって熱さをたしかめ、一二度身体にかけて足から浸かっていった。
瞬間───身体にしみわたった息吹に、言葉にできず吐息をもらした。
「…………はあ」
ベタだが日本人でよかったと思うのって、こんな時かもしれない。
身体にしみる温かさ。血液のひとつひとつ、細胞のひとつひとつ。温められてほぐされて、活性化されて。
むしょうのぬくもりに癒される。
自分の内に凝ったイヤなものまで溶かしてくれる───そんな安心感。
川のせせらぎと木々の風の音に包まれながら癒しの空間を堪能した。
長湯しないよう気をつけ、美桜はせっかくだから大浴場のほうものぞいてみることにした。
髪の毛をピンで留め、作務衣を着て館内用の手提げにタオルを入れて部屋を出る。
回廊は外に面してガラス張りだ。木々の合間から渓流が見えて、どうやら近くまで降りて散策できるコースがあるらしいと見て取る。外に続く階段と外履きも見つけて、美桜はワクワクした。
大浴場は後回しに外履きを借用して渓流の方へ降りて行ってみる。
二月の外気はさすがに寒くて、温泉で温まった身体もあっという間に冷えていく。夏場とか、五月ぐらいの緑が青々しい時期ならもっと気持ちいいんだろうなと、作務衣の身体をふるわせた。
それでも好奇心が勝って板敷きが組まれた通路を進む。途中から土の地面に変わり、木々と下生えのあいだに水の流れが見えた。
もう少し近くまで行けないのかなー、と寒い身体を両腕で抱きしめて木々の間をのぞく。そこに、前方の曲がり角からカップルらしき男女が姿を見せた。
美桜と同じ旅館利用者らしいが、こちらは散策にふさわしい私服にコートを着込んだ格好だった。作務衣姿でふるえている美桜はにわかに恥ずかしくなり、もどろうと思いかけた。
すると、同じように美桜に気付いたカップルの男性がにこやかにあいさつしてきた。
「こんにちは」
「………こんにちは」
カップルは美桜と同年代ぐらいに見えた。男性はくったくなく自分たちがいま来た方角を指し示した。
「その先の道筋から沢のほうに出られましたよ」
夏に釣りやりたいね、と女性と話しながら美桜とすれ違う。
ちょっとためらったが、ここまで来たからには、と変な意欲を燃やして進んだ。言われた通り、曲がり角の小道の先、木々が手薄になった箇所から沢の流れが見えた。
美桜は一度辺りをふりかえったが、人が来ないのを見て踏み込んだ。
枝葉をよけ、なだらかな坂を降り、水場をすぐそこに見渡してみると、岩場の多いポイントだったが見晴らしはよかった。
いっぱいの水のにおいと冷たい空気を吸い込んで、ちょっと咳き込んだ。
喉がビックリしたのかな、と胸をたたいて水の冷たさを味わうために身を乗り出したその時だった。