はじまり~伯父との再会 1
ガチャリ───と金属的な音がした。
なにが彼女の顔を上げさせたのか、わからなかった。
闇色の空間も一転、都会の夜空と夜明かりと、それを切り取るように立ちはだかった青年。
おそろしいほどの長身。鍛え上げられた体躯。夜明かりに浮かぶ鋭角な顔立ち。獲物を捕らえた、百獣の王の眸。
その手に握られた銃口が、たがわず美桜を捕らえた音だとわかった。
引き金が引かれるのを、ただ見ているしかなかった。
~・~・~・~・~
はじまりは数日前のことだった。
表に出て、美桜はふわっと白い息を吐いた。
会社のお使いの帰り。別支店に配属されていた同期の友人に出逢って、ちょっと立ち話をしたのがいけなかった。
別れて表に出てみると、行きは止んでいた雪がちらついていた。
歩いて十分ほどの支店へ使いに出されただけなので、美桜はコートをはおっただけで傘は持っていない。
一昨日から降り出した雪は一晩たって都会の景色を一変させた。交通網も麻痺したが、今朝は快晴だったため傘の心配はしていなかった。
まいったな、とひとりごちて会社のロッカーに置き傘があったか記憶をめぐらす。足を踏み出した。
雪が降ってワクワクする気分になったのは、遠い昔のことである。
今は朝の通勤が大変になるだけで、電車のダイヤは乱れるし、道はぬかるんでビチャビチャになるし、それならまだしも、日が当たらず人通りも少ない道などは天然アイススケート状態で危なくって仕方ない。
美桜の交通手段のひとつである自転車が使えず、自宅までの道のりが歩きになるのもため息がでてしまうが、帰りの買い物もどうしよう、とため息が増えるだけの思いしか雪に対しては浮かばない。
(色々在庫が切れだしてるんだよね………)
生活必需品の要否を考えていて、川沿いの坂道にさしかかった。道半ばまで進んでからアッと、迂闊に気付いた。
少し前までは最寄りの駅から会社までの近道だったので美桜の通勤ルートだったのだが、とある事件が起きてからは怖くて避けていた。会社帰りのOLが通り魔に刺されたという物騒な事件があったためである。
美桜の務める会社は都心で交通や人通りも絶えることがないと思われがちだが、意外に盲点はある。
表通りに面した大きなビル群をはずれて裏手に回り込むと、路上パーキングや昔ながらの中小ビルが立ち並び、その間の路地など昼間でも薄暗い。
さすがにそういう道は通らないが、この近辺はショッピングや飲食店がオフィスと同居しているため、夜でも賑々しい。そんなところで起きた事件だったので、被害者と似たような境遇の美桜には他人ごとではなかった。一時期は両親から毎晩電話がかかってきたほどである。
気付いてちょっとひるんだが、もどる会社は行く手の角を曲がった先であり、事件は一月近く前で、雪が本降りになってきた事実とに、えいと思い切った。
事件の影響で避ける人が多いためだろう、雪が踏みしめられた跡がほとんどない。美桜のブーツも予想以上に沈み込んで歩くのに難儀する。
吹きつけた風と雪に目をつぶって顔をそむけて、片足がガクン、と沈み込んだ。
「きゃ………」
吹き溜まりに足がはまったのかと思った。踏みしめる底がなくて、ズブズブと全身がはまりそうな恐怖が一瞬襲う。
あわててついた両手と残った片足に力をこめて、身体を持ち上げた。と、勢いあまったのか、沈んだ足が雪の固まりを蹴って美桜の頭からなだれ落ちた。
「…………」
反対側に尻持ちをついて、犬のようにプルプル、と首をふった。
頭から雪が落ちるのがなんとも情けない。辺りに人通りはまったくなく、一面ホワイトアウト。ちょっとぼうぜんとして、美桜はあらためた。
会社のお使いで遭難しかかるのが、もっと情けない───。
んしょ、と声に出して立ち上がり、お尻の雪をはらって歩き出した。前を見ていなかった。
いつそこに人が立ちはだかったのか、美桜はまったく気付かなかった。頭から壁のような障害物にぶつかり、それと同時に彼女の視野は吹雪で埋めつくされた。
吹きすさぶ風と雪つぶて。
氷のにおい。
大きな獣が吠えているような風の音。それに巻かれて雪が渦を巻いてさらっていく。
どこまでもはてしなく広がる雪原と、白と氷におおわれた世界。
人をこばむ酷寒の風景───。
それに魅了されたのは一瞬だった。はっと我に返って、人にぶつかったのだとあらためた。
「すみません」
急いでよけて、今のなに、と目をしばたいた。ちらっと目前の人を見やる。
ほんとうに壁のように大きな男だった。影になって顔形がよくわからないほど。
美桜が頭からぶつかってもその人がたじろがなかったのは、鍛えているからだろうとわかる、コートの上からも見てとれる胸板の厚さだった。日本人離れしているように見えたが、ちらりと見た短髪は黒で、横顔も日本人っぽかった。
マッチョ系………?思いながら彼女に一瞥もくれなかった雰囲気に冷たさを感じて、足早にその場を後にした。
吹雪の幻影はこの雪のせいだろうと、決着をつけて。
青年があの場に立ち尽くしていた理由には思いおよばなかった。
~・~・~・~・~
雪の名残が日陰にしか見られなくなった週末。
定時に仕事を終えた美桜はロッカーでスマホのチェックをして声をあげた。
「そんなぁー」
ガーンという擬音語がまさに頭の中で響いている。
チェックしたのはスマホのアプリで、友人との会話がメールのように続けてできるものだ。そこに、休憩中に書き込んだとみられる友人からのメッセージがあった。
「どうしたの?高城さん」
近くの同僚が声をかけてきて、美桜はふりかえった。
「あー………ちょっと、友人からドタキャンが入って」
困った笑顔をつくったが、ほんとうに内心困りはてていた。声をかけた年上の同僚はあらあら、と同情気味に笑う。
「週末だもんね。飲みに行く約束?ドタキャンは困るわねえ」
「あー、ええ………」
どうしよう、どうしよう、と別の手立てを考えてみるが、まったく名案が思いつかなかった。
美桜の職場は年配の女性が多く、ほとんどの人が家庭があるので会社主催の歓送迎会でもなければ飲み歩く人はいない。第一、この会社に勤めだしてまだ三月あまりの美桜には気軽に誘える友人がいなかった。
お昼を共にするメンバーはいるが、それはあくまでも社内だけである。困りきった美桜に同僚の口ぶりはあくまで明るい。
「まあ、今日は真っ直ぐ帰りなさい、ってことじゃないの?」
じゃあね、お先に、という同僚たちの足取りは軽い。週末は会社勤めの人間にとって、一番心が浮き立つ日だ。
はーっとため息をついて、しかたなく美桜も帰り支度をはじめた。
友人にドタキャンされたのは痛いが、もともと彼女の私事に巻き込んだ自覚があるので、腹を立てるわけにもいかない。それに、友人の都合が恋人に関わるものだったので、女の友情が彼氏に負けるのは世のならいである。
まいったなぁ、と会社を出る美桜の足取りは重い。
数日前に下された母からの指令が思い起こされた。
『───はあ?伯父さんが帰国する?』
関東圏内でも少し離れた場所に住んでいる両親は、都内にもどった娘に頻々に電話をしてくる。
還暦を迎えようとする母親の幸恵はのんびりと主婦業をしていた。その母からのいきなりの依頼だったのである。
『そう。蓉子姉さんの旦那さん、一匠さんよ。あんた覚えてる?』
呑気な口調の母に美桜はちょっとあきれた。
『二十年ぐらい逢ってないんだよ?覚えてるわけないじゃない』
『あら。あんたすごい可愛がってもらってたのよ。一匠さん、強面だったんだけど、あんたにだけは甘くて』
言いながら、あら味醂が切れてる、などと夕食の支度中なのがわかる。会社帰りのこともあり、母の味が鼻と舌先によみがえって美桜の空腹を刺激した。
『甘い辛いはおいといて………。なんで私が伯父さんのおもてなしをしなきゃならないわけ?』
『美桜しか適任がいないからに決まってるじゃない。お母さんがそっちに行ってもいいけど、じゃあ、美桜が代わりにこっちに来て奈美の子どものお守してくれる?』
お父さんのご飯も作って、奈美の家の炊事洗濯もするのよ、とここぞとばかりに普段の自分の大変さをアピールする。
美桜はため息をついた。
奈美は妹だが、実家に近いところに家をかまえ、同い年の旦那との間に一男一女をもうけたばかり。
共働き夫婦の子どもたちにまだまだ手がかかるのは、お正月に帰省した際にいやというほど思い知らされたが。
電車で二時間足らずの距離とはいえ、実家は頻繁に帰るのはさけたい場所だった。───いまはまだ、美桜にとって。
母親は四人兄妹で祖父母はとうに亡くなり、それぞれ家族を持って地方に散っている。たしかに都内にいて融通がききそうな母方の縁者といったら美桜ぐらいしかいない。
わかってはいるが、億劫な気持はぬぐえなかった。
『どうせ、伯母さんのお墓参りのために帰国するんでしょ?いい大人なんだから、別に案内なんていらないじゃない』
『そうはいかないわよ。数年ぶりの日本なんだから勝手がわからないだろうし、連絡が来ちゃったんだから。それに………一時帰国じゃなくて、こっちで仕事があるって言ってたから。しばらく日本にいるみたいよ。どこにどんなご縁があるかわからないんだし、伯父さんとも親しくしておきなさいよ』
よけいなお世話だ、と心がささくれ立つ娘にはかまわず、母親は立て続けに言う。
『あんた、都内のおいしいお店とか詳しいでしょ。久しぶりに日本に帰ってくる伯父さんにおいしいお店紹介してあげなさいよ。美桜の携帯の番号は伝えてあるから。あ、たいへん。お鍋。じゃあね、よろしくね』
『ちょっとお母さん………』
反論する間も与えず切られた通話に、美桜は子どものようにふくれた。
携帯の番号を伝えてある、というのはつまり、鼻から彼女に押し付けるつもりだったのだろう。
だいたい、と美桜は憤然と思う。
思い出せるかぎりの伯父の印象は、母たち親族の中では最悪だった。蓉子伯母との結婚を祖父母や兄妹は猛反対したとかで、親戚一同が集まる場でも伯父が浮いた存在だったのを子ども心に覚えている。
それだから、美桜が十歳ぐらいの時に海外で仕事する伯父に付いていった蓉子伯母が事故に巻き込まれて亡くなった時には、非難囂々の嵐が吹き荒れた。
そんな、いわば鼻つまみ者の縁者のご縁を万が一にもつかまえてきたら、絶対いい顔をされないのは目に見えている。
わかっているだろうに、月日がたてば昔のいざこざは水に流されるのかと、美桜はうらめしく思い───そういえば、と思いなおす。
母の幸恵は親族の中で唯一、蓉子伯母が結婚後も行き来をしていた仲だ。それがために美桜も可愛がられ、今回も母に連絡が行ったのだろう。
理解はできたが、やはり美桜には伯父に関する想い出がさっぱりだ。可愛がられたという記憶もさだかではない。
想い出も共通の話題も少ない義理の伯父と二十年ぶりに逢って、いったいなにを話せというのか。社交性に長けたわけではないおのれの性格とをかんがみて、げんなりとした美桜だった。
その彼女が思いついたのが、社交性に富んだ友人を巻き込んでしまえ、というものだった。そうして友人の了承を取り付けて今日に臨んだのであるが………。
(落とし穴だわ)
母によく言われる詰めの甘さだろうか。
重たい足取りで、それでもしかたなく母から伝言された待ち合わせ場所へ向かった。
なんでも、数年ぶりに帰国する伯父上は、おいしいお寿司をご所望との話である。
勤め帰りの美桜に考慮して近場の駅を指定してくれたのはありがたいが、母が期待するほど美桜は飲食店に詳しいわけではない。ゆえに、頻繁に飲み食べ歩いている友人を頼みとしたのだが。
ため息を押し込めて、地下鉄の改札所に着いて時間をあらためる。約束より十分ほど早い。
いちおう周囲を見渡してそれらしき人がいないのを確認してから待つことにした。すると、とたんに不安が頭をもたげる。
(そもそも伯父さん、私の顔わかるわけ………?)
伯父は数年に一度、伯母の墓参りに帰国していたらしいが、美桜や母たち親戚はだれも逢っていない。
美桜も伯父の顔がおぼろげなのは、残っている写真自体がほとんどないからだ。唯一、これかな、と思われる写真も大勢が写った集合写真で顔はぼんやりと判別しがたい。
よくよく考えれば、得体の知れない伯父である。
(ま、わかんなければ連絡くるでしょ)
投げやり気分で柱にもたれて、その気配は唐突だった。