甘い狂人はディナーの後で
松岡とはレストランの外で別れたため、俺は一人でレストランに戻ることになった。
先ほど彼の話を聞いてから、頭がこんなにも鮮明になっているにも関わらず、どうにも俺の足取りは重かった。食欲なんてとうの昔に失せてしまった。
俺にはこの後、涼子が余計な心配をしないように何食わぬ顔で過ごす義務があった。絶対に有り得ないことだが、涼子が脅迫状の犯人だった場合、俺が見張っていれば彼女の犯行を防ぐことができるわけだし、同時に俺のアリバイ証明にもなる。今夜、事件が起こるとは思いたくはないが念には念を入れたほうが良いだろう。
俺がレストランに戻ると、先ほどまで食事をしていた宿泊客の姿はほとんどなかった。どうやら松岡との会話で30分以上も時間が経っていたらしい。パッと見たところ、オーナーもいないようだった。沢城はこちらに気づくと食事を止め、軽く会釈をした。やはり彼は悪い人ではなさそうだ。俺も軽く会釈を返す。
俺は涼子が座っている奥側のテーブルに向かい、周り込むように自分が座っていた椅子に腰掛けた。もちろん、顔は下げつつ、申し訳無さを装って。
「あー、ようやく来た! もうっ、どこ行ってたの? 女性を待たせるなんてひどい男だよ、全く」
俺の予想通り、涼子が手に持ったスプーンをビッとこちらへ向けて、口をとがらせていた。
「待たせちゃって本当にごめんな」
「まぁ、今日は気分がいいから別にいいんだけどねー。ねぇねぇ、それより松岡さんと何を話してきたのー?」
彼女は冷めたスープをスプーンですくいながら、無邪気に尋ねてくる。
俺は彼女の質問に嘘で返すことにした。
「松岡さんが俺の車に忘れ物しちゃって、二人で取りに行ってたんだよ」
彼女に俺の動揺が伝わらないように、考えていた言葉を落ち着いて答える。
「そうなんだー。けど、こっちは皆帰っちゃって寂しかったんだよー! オーナーもなかなかお手洗いから戻ってこないし」
「えっ? オーナーが戻ってこない?」
「そうよ。さっき私にちょっとお手洗いにーって言って出て行ったんだけど、かれこれ15分位経つかもね。オーナーがいたら、健二の冷めた料理を温めてもらおうと思ってたんだけど…、ごめんね」
彼女が舌をペロッと出して謝る。
「俺のことを考えてくれていたんだね。こっちこそ食事の途中で長い時間抜け出してしまって、本当にごめんな」
「健二は松岡さんのために大雨の中、車に行ってくれたんでしょ。仕方ないよー。むしろ、私は健二のそういう優しいところが…」
彼女はこっちまで恥ずかしくなりそうなセリフを途中まで言って、顔を赤くしていた。
今日の涼子はやっぱり以前までとは違っていた。少しずつ俺と打ち解けてきているからかもしれない。先ほどまでの暗い気持ちが吹き飛んでしまう感覚。
ただ、今の俺にはオーナーが戻ってこないという不安はあるが…。
「時間も経っちゃったし、私もちょっとした予定があるからそろそろ行こっか」
そういうと涼子はスプーンを置き、膝の上に置いたナプキンで口を拭った。
結局あんまり料理食べられなかったな…。俺はオーナーの作った美味しい料理を中途半端にしか食べられなかったことを後悔した。
俺がそんなことを考えていると、目の前で急に涼子が声を上げた。
「あっ、沢城さん! 後ろの席にいたんだったら声かけてくれれば良かったのに…」
「…すみません」
沢城は少し考えたような顔をした後で、申し訳無さそうに涼子に深く頭を下げた。頭を下げられた当の本人は両手を横に振り、わたわたしていた。
「えっとえーっと、私も気づきませんでしたし、変なこと言っちゃってごめんなさい」
「…ではまた機会があるときにでも。俺はもうちょっとここに残って、オーナーを待っていますよ」
沢城はワインを片手に持ち、軽く微笑みながら優しい声で俺たちに言った。
彼の申し出に俺と涼子は軽く会釈をして、レストランを後にした。
レストランを出て、ふと、ロビーの方を見るとソファーに美波の後ろ姿が見えた。
――彼女にも教えたほうがいいのだろうか?
ふとそんなことを考えてしまう。もう俺とは関係ない女性だが、知り合いが万が一事件に巻き込まれでもしたら、後味が悪い…と思った。
「ちょっと先に部屋に戻っててくれないか?」
俺はそう言うと涼子の返事を待たずに、美波の方へゆっくりと歩き出した。
あの見慣れたなつかしい黒髪の後ろまで来ると、俺の足は急に石のように動かなくなってしまった。
――なんて声を掛けたらいいだろう。
そもそも今回のことを言う前に俺にはいうべきことがあるんじゃないか…。
「あら、彼女と一緒に行かなくてよかったの?」
俺が考えがまとまらず立ち止まっていると、彼女の方から声をかけてきた。
彼女はこちらを振り向かずに読んでいた本をパタンと閉じる。
俺は彼女に返事を返さずに、向かいのソファーに腰掛けた。
「……久しぶりだな。と言っても1年ぶりくらいか。元気にしてた?」
「元気に? 冗談でしょ? 私の前から急にいなくなったあなたが言う台詞じゃないわ」
彼女はフンッと顔を横に振り、怒っているようなポーズをとった。
「…そうだったな。急に出て行って悪かった。ごめんな」
「ふふっ、嘘よ。あれは私の方が悪かったわ。今でも…反省してる…。謝って許されることではないと思うけど、本当にごめんなさい」
急にしおらしく謝る彼女にドギマギしてしまう。俺が恐怖していた一年前の彼女とは異なった一面が垣間見えた。
「あなたがいなくなってからのこの一年間、私は変わろうって考えたわ。あのときはどう考えても、やりすぎだったものね」
目線を落としたまま、過去を思い出しているのだろうか。彼女の瞳が潤んでいくのが分かった。きっとこの一年は彼女にとって辛い一年だっただろう。愛する人が目の前から急に消えて、悲しく寂しい日々を送ってきたに違いない。そんな中で、付き合っていたときのことを反省してきた。俺にはまだ彼女の変化は見えてはいないが、こちらを向いている彼女の瞳が物語っていた。
ただ、そんな彼女の努力が報われることを現在の俺の状況が許さなかったのだ。
「涼子さん、いい彼女さんね。あなたには勿体無いんじゃない?」
彼女は髪をかき上げながら、こちらを向いて鼻を鳴らしていた。こういうときの彼女は俺をばかにしているのではなく、からかっていることを俺はよく知っていた。話していてわかったが、俺に見せる彼女の表情は以前よりも少なくなっていたかもしれない。それでも会話の最中時折のぞかせる彼女の柔らかな表情は、俺に当時の良き日々を思い出させるには十分であった。
「それより私に何か言いたいことがあるから、ここに来たんじゃないの?」
俺は完全に当初の目的を忘れていた。そんなに時間は経っていなかったが、時間を忘れてしまうくらい楽しい会話ができた。
「もしかして、鈍感な健二でも流石に彼女の正体に気づいちゃったかしら?」
「えっ? 彼女って?」
今日は俺の知らない情報が飛び交いすぎて驚いてばかりだった。急に目の前の美波の存在が遠く感じ、誰も居ないロビーに1人でいるような孤独感を感じていた。
「やっぱり気づいてるわけないよね。まぁ、気にしなくていいわ」
その内容が重要な事であるかどうかは別として、俺の脳はこれ以上新しい情報を取り入れることを拒んだ。
「なら、別にいいよ。美波が言いたくなったら言ってくれ。それよりも…」
俺はコホンと咳払いで調子を整えてた。先ほどと同じようにこちらの動揺が伝わらないように、松岡の話を簡潔にまとめて伝えた。
俺が話している間、彼女は言葉を一言も発することなく真剣な眼差しで聞いてくれた。そして、俺の話を聞き終わると彼女は、うーんっと唸ったあとで理解を示してくれた。
「この話を知っているのは、当事者であるオーナーに松岡さんと健二と私の4人だけ?」
「万が一犯人が今日の宿泊客の中にいた場合、犯人も知っていることになるな。松岡さんと夜間に部屋を出ない約束をしている人がいるってことは知らないだろうけど…」
「ふーん、そうなのね。それじゃあ、どうして健二は私にこの話をしたのかしら?」
「美波を危険に巻き込みたくないからだよ。当たり前じゃないか。それに俺は美波のこと信じてるしな」
「えっ! あ、あっ、ありがとう。あなたにそんなこと言われるなんて思ってもいなかったわ」
彼女は目線を外しながら、さっきまで白かった顔を真っ赤にさせていた。相変わらず可愛らしいやつだ。
その顔を見て、ふと涼子のことを思い出した。今も部屋で寂しく俺の帰りを待っているに違いない。
「それじゃ俺は行くからな。美波も本当に気をつけろよな」
俺が立ち上がると、彼女はあっと小さな声を漏らして寂しそうな顔をした。
「あなたも気をつけてね。ちなみに……気持ちを変えるつもりはないからね」
そう言った彼女の顔を、部屋に向かって歩き出していた俺からは見ることはできなかった。
美波と久々に楽しく話したためか、部屋まで戻る俺の心は少しばかり晴れ、足取りも大分軽くなっていた。部屋に戻って、ぶちまけられた俺の衣類とベッドで横になって拗ねていた涼子を見るまでは…。