狩人との誓い Ⅰ
俺がそんな昔の話を思い出していると、涼子がお風呂からあがったようだ。
風呂上がりの彼女の髪はいつもより艶やかに見え、顔も紅潮していた。バスタオルで隠されていない彼女の露出された綺麗な肌に、俺は釘付けだった。今すぐにでも抱きしめたい…。さっきまでの悩みなんてどこかへ行ってしまったのか。男という生き物は単純である。
「ふぅー、めっちゃさっぱりしたー。健二も私をガン見してないで、お風呂入っちゃいなよー」
そして、女という生き物は察しがいい。
「いや、見てない。見てないから。それじゃあ…」
俺がベッドから体を起こそうとすると、室内の電話が鳴った。
「あー、夕食の時間かな?」
涼子が電話に出て、こちらを振り向いて、口パクで夕食と伝えてくれた。
どうやら俺のお風呂は夕食の後になりそうだ。
お風呂にも入りたかったが、お腹が空いているのもまた事実であった。
「タイミング悪いねー。健二は、ご飯食べてからゆっくり入りなよー」
受話器を置くと、涼子は体にバスタオルを巻いたまま、にやりと笑って、こちらへクルクル回転しながら向かってきた。
俺は回転しながら向かってくる彼女を両手で受け止めた。両手に彼女の重さと温かさが感じられた。
「俺、まだお風呂入ってないから汚いよ…」
彼女もいきなり抱き付く形になってしまったので、顔を赤らめていた。
そんな照れている彼女が、すごく愛らしく思えた。俺は彼女の唇にさっと唇を重ねる。
「んっっ」
彼女は受け入れてくれた。
聞こえるのは窓の外の木々のざわめき。まるで時間が止まってしまったかのようだ。
長い沈黙が部屋の中を包み込む。
これが、俺たちの、初めてのキスになった。
「…コーヒーの味がします。苦い嫌だから、別の味にして下さーい」
照れ隠しに目線を逸らして彼女が言った。食事に行くはずだったのに、なぜか甘い空間を作ってしまったようだ。
「それじゃあ、まず夕食を食べに行こう。そしたら、歯磨きするよ」
歯磨き粉の味も面白くなーいと言う彼女の頬っぺたをつんつんしながら、俺は彼女に着替えを促した。
――やっぱり俺は志村涼子が好きだ。
この旅行を通して、どんどん彼女を好きになっていく自分がいる。
ふとした仕草、彼女の笑顔、全体の雰囲気、彼女の性格。一つ年上ということもあるかもしれないが、俺にはもったいないような女性だった。美波に似ていることなんて関係ない。
彼女を大切にしていこう。俺は決心した。
今度は最後まで二人で歩いていけるように。
廊下へ出て窓を見ると、外は大雨だった。
さっきも強い風が吹いていたし、天気予報通りであった。空調が入っていたのにもかかわらず、夏の暑さと湿度の高さから額から汗がじんわりと出始める。
「うわー、部屋の外に出るとあっついねー。せっかくお風呂入ったのに、萎えちゃうなー」
涼子が唇を尖らせ、愚痴を言い始めた。
付き合いはじめよりも、ラフな態度で接してくる今日の彼女を見て、俺はつい口角をあげてしまう。
「なにー、なんで笑ってるの? お風呂なんて何回入ってもいいんだからね!」
何にも言ってないんだけどな。やはり、女性は察しがいいようだ。
このホテルのレストランは、1階ロビーの横にあった。
レストランと言っても、有名シェフがいるわけではなく、オーナーが一人で宿泊客の食事を作っているようだ。誰かを雇った方が効率が良さそうなのに。
そんなに大きくない店内には、すでに宿泊客全員が集っていた。どうやら皆、オーナーから連絡をもらっていたようだ。沢城さん、松岡さん、本田さん、そして美波の4人。
よく見ると見知らぬ男も一人立っていた。彼も俺の視線に気づいたようで、こちらに近づいてきた。
「いやー、オーナー以外、不愛想な人しかいなくて困っていたんですよー。優しそうなお兄さんたちがいて助かりましたー。あっ、はじめまして。俺の名前は佐々木って言います。一緒に食事させてもらっていいですか?」
彼は周りに聞こえないような小さな声で、俺に提案してきた。俺は咄嗟に涼子の方に顔を向けた。
俺としては、涼子と仲良く二人っきりで食事したいんだけど……。
「うーん、いいですよ。私もみんなで食べた方が美味しいと思いますし」
彼女の承諾は俺にとって、もはや想定内だった。
俺も彼女がどんな人かだんだん掴めてきた気がする。
「涼子がいいのであれば、俺は全然構いませんよ。一緒に食べましょう」
…ただ、想定内でも納得できないことなんて世の中にはたくさんあるのだ。
俺は負の感情を心に押し留めて、食事を楽しむことにした。
レストランの中には4つのテーブルが置かれていた。ホテルのレストランとしては席数、テーブル数が極端に少ないように思えるが、オーナーが1人で切り盛りしていることや、ここのホテルのホームページで予約する際に、宿泊できる人数を調節するような文面があったことを考えると、普段から宿泊客自体が少ないのだろう。
テーブルは俺たちが座っているテーブル、沢城と本田が座っているテーブル、松岡さんが座っているテーブル、そして美波が座っているテーブルの4つだった。本田と向きあう沢城の顔は、あまり笑っていなかった。
そんな中で、どっしりと座っている松岡や人を寄せ付けないオーラを放っている美波とディナーを同席するというのは、確かにためらってしまうかもしれない。佐々木の気持ちも何となくわかる。ただ、カップル選んでしまうのも、正直どうかと思うのだが。
テーブルには、オーナーの作った料理とシルバーの高そうなスプーン、フォーク、ナイフがそれぞれ並べられていた。中央にはガラスでできた花瓶に造花が生けられてあった。できるだけお洒落な空間を演出したいと思うオーナーの工夫なのだろうか。そんなことを考えながら、俺は席に着いた。
座る瞬間に涼子に気づかれないように、俺は美波の座るテーブルにさっと目を向けた。彼女は特にこちらを意識しているわけでもなく、ゆっくりと食事をしているようだった。――その光景に、俺はなぜか胸がちくりと痛んだ。
涼子と佐々木は楽しそうに会話していたが、俺の頭に彼女たちの会話はほとんど残らず、たまに話が振られると笑ってごまかすばかりだった。
――彼女はあの頃と変わってしまったんだろうか。俺に興味を無くしてしまったんだろうか。
「ねぇねぇ、白石さんは志村さんのどこが好きなんですか?」
佐々木の言葉で、俺は急に現実に引き戻された。
今日は過去と現在を行き来して、やけに忙しい日だった。
「えー、恥ずかしいなぁ。えーっと、俺がいいなぁって思ってたのは、優しいところ…だったんだけど、昨日までは」
「えっ?」
涼子は俺の言葉に驚いているようだった。酔いが回っているせいか、今日の俺はいやに饒舌だ。
「私、優しくなくなっちゃったかな?」
「違う、そうじゃないんだ。昨日までの涼子ももちろん好きなんだけど、今日の涼子は、何というか言葉でいうのは難しいんだけど…さっぱりしているというか、素をみせてくれているというか」
「なにそれー、全然わかんないよー」
「今日の涼子の方が、今までよりもさらにいいなって思ったの!」
彼女は微笑みながら、恥ずかしがっている俺をからかってる。それを見て、佐々木はワインをぐいっと飲み干した。
「お二人とも、仲良くていいですねー。ほんっと、羨ましいですよ。 志村さんの方はどうなんですか?」
「えーっと、実は私も今回の旅行で、健二の良さがすごく伝わってきたみたいで。普段から頼りになるんだけどね。ふふっ、タイミングが一緒だねー」
あれっ、俺には不思議な魅力があったんじゃなかったなかったっけ…?
俺の求める答えと異なった彼女の言葉に、俺は首を傾げた。
「結局、志村さんも白石さんと同じじゃないですかー。聞いてるこっちとしては、つまんないなぁー」
佐々木は赤ワインのボトルを片手に取って、自分の空のグラスが赤に染まっていくのを見つめながら呟いていた。
「……つまらなくないよ。だって、私はずっと健二と…」
「ずっとって、まだ4回目のデートですよね? まだまだ初々しいお二人って感じですよ」
「初々しいですかー? なかなかいい相性だと思いますよ。ねっ、健二」
「あぁ、最初はどこぞのお嬢様と思ってたけどな。案外面白いところもあるんだよなー」
「えー。それってどういう意味よー。健二からお嬢様扱いされたことないんだけど、私」
「はいはい、僕はもうお腹いっぱいです。ごちそうさまでした」
そう言って、佐々木はグラスを空にした。飲み終わった男の体は前後左右に揺れていた。
おい、こいつ飲みすぎだろ…。
涼子もそう思ったらしく、こっちを向いて苦笑していた。
佐々木のおかげで、素敵な食事になったことも事実だ。お互いの気持ちを確認できるとは思ってもみなかった。
「白石さん、お食事中すみません。ちょっとよろしいでしょうかぁ?」
俺の惚けたような気分を吹き飛ばしたのは、間延びした松岡の声だった。
松岡は俺の肩を叩きながら、ほんのり赤らめた顔をにんまりさせていた。酔っぱらっているのだろうか。
どうやら彼は俺に話があるようだ。
「いいですよー。悪いけど、ちょっと行ってくるよ」
俺は松岡に誘導されながら、テーブルを離れてレストランの外まで出てきた。
「どうされたんですか? 車に忘れ物でもしたんですか?」
彼がなぜ俺を呼んだのか見当もつかなかったので、俺はとりあえずありえそうなことを口に出してみた。
「……今からいうことを今夜、必ず守って下さい。もちろん志村さんもです」
「えっ…」
急に見せた松岡の真剣な顔と彼の言い出したことを聞いて、俺は一気に酔いが醒めてしまった。
「夜の間、絶対に部屋の外に出ないで下さい」