狂人は過去の中に
「二階も広いんだねー。薄暗くてちょっと怖いかも」
涼子と一緒に階段を上ると、さっき俺たちが歩いてきた一階の通路を、逆に伸ばしたように廊下が広がっていた。二階の廊下も一階と同様やや薄暗かった。
二階へ来るには一階の廊下を一度真っ直ぐ来る必要あるようだ。
「変なホテルの造りだなぁ」
「えぇ、そうかしら? 私は雰囲気あっていいと思うなぁ」
先ほど車内で松岡が言ったように、涼子は早くもホテルを気に入っているようだった。
「お化けが出たり、事件が起こったりしそうな感じ!」
涼子が瞳をきらきらさせながら興奮していた。今日の彼女はどうも年上だとは思えないくらいはしゃいでいた。
俺も彼女の笑顔につられて笑ってしまう。
「…ずっとこのときを待ってたの」
彼女が漏らした言葉を俺は聞き取ることは出来なかった。
廊下の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
先ほどソファーに座っていたイケメン君だった。女性から質問攻めを受けていたせいなのか、彼は心底疲れきった顔をしていた。
「こんばんは。あれ? 君はさっきロビーにいたよね?」
「えっ、ええ。そうですけど、それがどうかしましたか?」
彼は何やら苛立っているようだった。話しかけたのは失敗だったかもしれない。
「いや、どうやって2階にきたのかなーっと思いまして」
「どうしても何も、ロビーのところにあったエレベーターで上ってきただけですけど…」
それを聞いて、俺と涼子は互いに顔を見合わせて苦笑した。
そりゃそうだ、俺が考えていた通りのホテルの造りだと、2階に泊まる客は不便でたまらないもんな。
「…もう行っていいですか? 僕疲れてるんで…」
「あぁ、急に引き止めたりしてすみません」
「それでは」
「あ、あの! もしよかったらお名前を教えてもらえないかしら」
「…沢城だ」
「沢城さんね。私は志村、それでこっちが白石です。よろしくね」
「よろしく」
沢城は、俺たちに会釈すると204号室の部屋に入っていった。案外、礼儀正しい人なのかもしれない。
「沢城さんかぁ。悪い人じゃなさそうね」
涼子は少しほっとしたような笑みを浮かべてこちらを見た。
俺たちは結局廊下の端から端まで歩いてしまった。
どうやら俺たちの部屋である201号室は、二階でもロビー側に位置していたようだ。ひどい遠回りをしてしまったものだ。
201号室の前まで来ると、オーナーから渡された鍵をポケットから取り出し、部屋の扉を開いた。
部屋の扉を開けると、左右に広い空間が設けられ、中央にはダブルベッドが置かれていた。
室内は白を基調としたシンプルな感じで、ダークブラウンを用いたインテリア、黒色のソファーが部屋全体にシックな印象を与えていた。
外観から洋風で煌びやかな部屋を予想していたが、これは何とも落ち着いた部屋である。
まぁ、考えごとをしたかった今の俺にとってはちょうどいい部屋かもしれない。
俺は部屋に入ると、ダブルベッドに腰掛けた。
「あれ? そういえば、私たちの荷物がないけど…」
「ん? それならオーナーが部屋まで運んで下さるそうだよ。もう少しすれば来るんじゃないかな?」
俺がそう言い終わるや否や、部屋のドアがノックされた。
涼子がドアを開けると、オーナーがにっと歯をみせて立っていた。
「荷物お持ちしましたよー。こちら旦那さんの車のキーです。お返しします。それでは夕食の時間になりましたら、電話でお呼びしますね」
そう言ってオーナーはまたこちらを見てにっと笑い、部屋の扉を閉めた。
「えーっと、荷物がきて早々なんだけど、先にお風呂入っちゃっていい? 汗がべたべたで気持ち悪くて」
涼子が舌を出しながらこっちを向いて言った。俺は軽く返事をして、涼子を先にお風呂に入れた。
今は考える時間が欲しかったのだ。
――川島美波のことだ。
なぜ彼女はここにいたのか。俺と会うためなのか。それとも他に理由があるのか…。考えれば考えるほど、なぜ彼女がこのホテルにいるのか分からなかった。
また頭がぼーっとしてきた。俺が頭を悩ませていると、部屋の扉がノックされた。
誰だろうか…。もしかしたら美波かもしれない。
手に汗を感じながら扉を開けると、そこには女性が立っていた。幸か不幸か、その女性は美波ではなかった。
「こんばんは。えーっと、こちらに沢城さんは来てませんか?」
「来ていませんよ。お部屋にいらっしゃるんじゃないですか」
その女性は本田美奈と名乗った。やはり話し方からも気が強そうな印象を受け、俺は質問されるたびに慎重に言葉を選んで対応した。
彼女は雑誌記者をしているそうで、今回も取材のためにこのホテルを訪れていたそうだ。
なぜ沢城を探しているのか理由を聞くことはできなかったが、人の部屋にまで所在を聞きに来るなんて、よっぽどの事情があるのかもしれない。
いずれにせよ今はあまり人と関わりたくなかった。彼女が帰ると、俺は再びベッドの上に腰掛け、ぐーっと一伸びした。
「ねぇ、今誰か来てなかった?」
バスルームから涼子の声が聞こえた。
「あぁ、来てたよ。さっきロビーにいた本田さんっていう女性。なんでも沢城さんを探してるぽかったよ」
「あっ、そうなんだ! 私はてっきり…」
どうやら涼子もまだ美波のことを気にしているようだった。彼女は今日初めて会ったとは思えないほど美波を意識していた。
俺がまた美波と依りを戻すとでも考えているのだろうか。
――そんなことは杞憂でしかないのに。
俺と美波の物語には続きがあった。
確かに、俺と美波は大学時代に付き合っていた。誰からも羨ましがられるような本当に仲の良いカップルだった。
俺自身、結婚するなら彼女以外考えられないと思っていたほどだ。
しかし、時が経つにつれてそんな二人の間にも亀裂が生じてきた。永遠の愛なんてものは、所詮当人たちの作り出したまやかしに過ぎない。
彼女の変化。いや、彼女が元から持っていた個性が主張し始めてきただけなのかもしれない。
「健二は年下の割に頼りになるけど、やっぱり私がついていないとダメね」
始まりは些細なことだったかもしれない。
健二、今どこにいるの? 男女の付き合いであれば、ありきたりなメールかもしれない。彼女からのこういったメールが日に日に増えていった。
「今、違う女の子を見てなかった。私だけを見ていればいいでしょ!」
「今日、クラスの女の子と話していなかった? それも楽しそうに」
大きなことから些細なことへ。街の人混み、大学構内、彼女の部屋と毎日少しずつではあるが、彼女の俺に対する束縛は強くなっていった。
「携帯に女の子からメール来てたよ。間違って消しちゃったけど、ごめんね」
彼女は当時、何かに怯えていたのだろうか。結局、女性の連絡先は彼女に全て消されてしまった。
普通の男性なら、ここで彼女の行動に異常性を感じるだろう。
もちろん、恋に盲目だった俺は彼女の変化に気づかなかった。正確には気づかないふりをしていた。
幼いころから寂しい思いをしてきたせいか、俺も彼女の独占欲や嫉妬心をある程度は理解できたからだ。自分のものは決して他人に渡したくなかったし、誰かがそれに触れようとすればひどくイライラした。
俺は彼女を怒ることなく肯定し続けた。彼女の愛が日に日に強く重くなっていくにつれ、彼女に合わせながら生活する自分が形成されていくのが分かった。
そんな俺を見て、彼女はいつも恍惚とした表情をしていた。「…健二は私が絶対に守ってあげるわ」
俺たちの終わりはあっけなかった。彼女のどんどんエスカレートしていく束縛に俺の心が壊れてしまったのだ。大学へも行かず、彼女の部屋から2か月も出ていなかった俺は、ある日、彼女が大学へ行っている間に逃げ出した。美波の部屋は居心地は最高だったため、あのとき俺がなぜ逃げようとしたのか、今考えてみても分からない。
俺は大学を辞めて、田舎に引っ越しをした。それから川島美波とは会っていない。