交差する現在と過去
彼女の名前は川島美波。俺が一年前に別れを告げた1つ年上の女性だった。
雪のように白い肌と艶やかな黒色をした長い髪は、付き合っていた当時と何ら変わっていなかった。
彼女の全体の印象を漢字一文字で表すならば、凛。端正な顔立ちと黒く透き通るような瞳に俺は心を奪われていた。街を一緒に歩くと、多くの男性の視線が集まって、俺の自慢の彼女だった。まるで他者を寄せ付けないような高嶺の花。だけど、本当はわがままで、泣き虫で、面倒くさいやつ…。
俺のメールの返信が遅いとふてくされるし、誕生日プレゼントを渡したときなんて、涙をぽろぽろこぼしながら喜んでくれた。俺が泣いていることを指摘すると、「な、泣いてちゃ悪いか。私の泣き顔見れるなんて…じ、実に運がいいな。うぅ…レアなんだぞ」と強がって、隠れて涙を手でぬぐってたっけ。結局、彼女は嬉しくても悲しくても、いつだってデフォルトで泣いちゃうからレアでもなんでもないんだけど。
あのころは、二人の変わらない毎日がずっと続くと思っていた。
駅の改札で待ち合わせて、二人でたわいのないおしゃべりをして。ふざけあって、泣いて、笑って。
この世界に二人だけでもいい。そう思える夢のようなひととき。
そんな毎日がずっと続くはずだった...。
「久しぶり...ね。元気にしてた?」
「あ、あぁ。」
相変わらずの澄んだ声に俺は胸の高鳴りが抑えきれずに、くぐもった声で答えるしかできなかった。
「ふふっ、久しぶりだからって緊張してるの?」
「あぁ」
「…そんなに変わってないみたいね」
「あぁ、お互いにな」
心ここにあらず。俺は彼女の言葉に対して機械のように単調な返事を繰り返していた。
頭がぼうっとしてきた。この夏の暑さのせいだろうか...。
「……私はずっとあなたと話したかったのよ。 ねぇ、健二。 あなた、どうして……」
「健二君? その女の人は誰なの?」
――美しい夢から一気に現実世界へ引き戻されるような感覚。
ハッと我に返った。俺が後ろを振り向くと、そこには涼子が蒼ざめた顔をして立っていた。
この状況は俺にとって非常にまずかった。
涼子にはいったん落ち着いて説明する必要があった。いや、ごまかした方がよいのか。
「こ、こちらの方は川島美波さんって言うんだ。大学時代の同級生なんだ」
「はじめまして。健二の元クラスメイトの川島美波です。よろしくね」
俺の気持ちを察してくれたのか、美波は俺に調子を合わせて答えてくれた。相変わらず、君は人の気持ちを見透かしたような振る舞いをするんだな…。
「大学時代、健二にものすっごくお世話になったの。久々に会えて本当に嬉しいわ。だよねっ、健二」
訂正、彼女は合わせてくれているわけではないかもしれない。
「そうなんですか。…私の名前は志村涼子。健二君とお付き合いさせていただいてます。健二君、すごーく頼りになりますよねー。いつも助けてもらってます」
そういうと涼子は俺の腕を抱えるようなポーズを取った。なぜ、挑発するような真似をするんだ…。
――ツッ!! 俺の左腕に急に激痛が走った。
美波に見えない位置で、涼子は俺の左腕を服の上から思いっきりつねっていた。
「あ、あら、そうなの。仲がいいんですね」
「ふふっ、相性もすごくいいんですよー。美波さんも私たちのこと応援してくれると嬉しいです。そんなことよりも健二君、早く今日泊まるお部屋が見たいなー。見に行かない?」
温和な涼子の口から出たとは思えないほんの少し棘を混じえた言葉。
その棘は美波へ向けられたものか。それとも俺に...。
もしかしたら、こっちが涼子の素の性格なのかもしれない。
美波も表情には出さないが、内心は動揺しているようだった。右手の人差し指を唇のところへ持ってきていた。考え事をするときの彼女の癖である。
涼子は潤んだ瞳でこっちを一瞥すると、一人でさっさと部屋の方へ向かおうとした。俺も考え事をしている美波へ軽く会釈をして、涼子の後ろをついていった。
…後ろは振り返らなかった。
「さっきの人、健二君の元カノ?」
突然そんなことを言われ、心臓の鼓動が早くなる。二人の足取りは、まるで足枷を引きずっているかのように重かった。廊下の移動距離が非常に長く感じられた。
「そうだよ。彼女とは1年前まで付き合ってたんだ」
俺は観念したかのようにフーっと息吐いた後、涼子に美波とのことを正直に話した。涼子には嘘をつきたくなかったからだ。軽い嘘が二人を引き裂くということを俺はよく理解していた。
たとえそれが優しい嘘だったとしても…。
彼女は依然として、俺の一、二歩前をゆっくりと歩いていた。こちらを振り向く気はないようだ。
「ふーん、そっか。美波さんのこと…今でも好きなの?」
「今好きなのは涼子だよ。美波は関係ない」
予め答えを用意していたように、俺は涼子の質問に間髪入れずに答えた。
彼女が急に立ち止る。表情はこちらからは窺えないが、消え入りそうな声で彼女の返事が聞こえた。
やってしまった。もはや旅行どころではないかもしれない。
この気まずい雰囲気を和らげるために、俺は気の利いた言い訳を必死になって探していた。
しかし、何も見つからない。また、俺は人を傷つけてしまうのだろうか…。
「ねぇ」
長い沈黙を破ったのは、こっちを振り向いて微笑んだ彼女の言葉だった。
「私も健二って呼んでもいい?」
彼女から発せられた予想外の言葉に、俺は言葉を詰まらせてしまった。
「……だめかな?」
「いや、だめじゃないよ」
なぜ、今そんなことを言うのだろう。やはり美波と出会ったことが原因だろうか。
次から次へと湧き出る疑問に、俺はまたも二の句を告げずに立ちつくした。
「ふふふっ、早く行こう、健二。私たちのお部屋は階段を上ったところにあるみたいよ」
そんな俺を見かねたのか、彼女は笑顔を見せ、再び歩き出した。――今度は俺の手をとって。