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傷跡-4

作者: SET

2011年 3月


 小学生の時から、いつも一緒にいる友人の夏海(なつみ)には、自分の腕や手首を切りつけてしまう癖があった。

 去年の七月、夏海の家で、言い争いになった。その最中、突発的にカッターを取り出し、自分の腕を傷つけた夏海を目の当たりにした私は、部屋から逃げ出した。カッターを腕にあて、泣きながら皮膚を裂く。そこから滲み、溢れ出す血を見た時は、正直言って、吐き気がするほど気持ち悪かった。血が、じゃない。口喧嘩程度で発作を起こす夏海が、気持ち悪かった。

 翌日、学校で会うと、夏海は何事もなかったかのように挨拶してきて、その時の事は夢だったのかと思いもした。だが、学校では決して半袖を着ない夏海が、夏休みに私の家へ訪れたとき、あれは現実だと思い知らされた。私のせいでついたその傷は、今もまだ、彼女の腕にある。

 夏海はこの所、遠い場所で起こった惨禍に、非常に強い恐怖を感じていた。怖い、と思ったらすぐ、カッターを手に取る。

「ここは大丈夫だよ」

 今も、消しておけばいいのに、震えながら、テレビの画面を見つめている。私が家に来るまでに、腕に新たな傷をつけたらしい夏海の、鉄くさい臭いに、えずきそうになった。堪え、抱き寄せる。

「なんで、分かるの。なんで大丈夫だって、分かるの。何万人も、巻き込まれたのに」

「ここは大丈夫だから」

「なんで、なんで……なんで、こんなこと。怖い。怖いよ、夏希……」

「大丈夫」

 夏海の発作に対する気持ち悪さは、拭い去ることはできない。でも、怯える夏海を、毎日抱き寄せ、なだめているうち、少しずつ、夏海のその恐怖が、愛しくも感じられてきた。夏海は、現地の恐怖を自分の事のように感じている。絶望から来るその気持ちには、いま周囲に溢れるどんな激励の言葉よりも、リアリティがあった。

 震えの収まった夏海が、私から離れ、制服のブラウスの、袖をまくった。そして、机の上のカッターを見た。

 私は、夏海の右腕を強く掴んだ。夏海は驚き、懇願するような眼を私へ向けた。私は手を離した。続けざまに夏海の左腕へと手を伸ばし、どの傷よりも深く跡を残している傷跡を、撫でた。撫でている間、夏海は、じっとしていた。

「きっと、跡、残るね」

 時間が経てば、少しは、目立たなくなるだろう。それまでに、新たな傷跡が増えるかどうかは、夏海次第。

 微力かもしれないけれど、私も少しくらいは、夏海の支えになりたい。そう、思えるようになった。


(2011/3/30)






2012年 6月


 偽善という言葉の対象が狭くなった……気がする。自分の存在について考える照れが薄れた……気がする。そんな気がする、程度だ。熱に浮かされた空気はもう、ない。

 傷口を覆っていたふやけた絆創膏は、治る気配のない裂傷を残したまま、剥がれてしまった。


「見て見て夏希、昨日の夕方、地震雲が全国各地で見られた、って」

 私が教室の自分の席に着くなり、友人の夏海は、携帯電話をこちらへ突き出した。画面にはとあるウェブサイト。

 また自分で不安の種を見つけてきやがって、と内心で毒づきつつ目を遣った。似たような雲に見覚えがある。

「私も似たようなの、撮ったかも」

「本当?」

 私は机の上に置いていた携帯電話を手に取り、ひとつの画像を呼び出した。

「これ」

 夏海は、私の見せている画像と、先程の画像を見比べ、

「似てる! やっぱり今日、大きい地震が」

 ため息をつく。

「私が撮った写真の日付、二年以上も前なんだけど」

「う……でもでも、災害が起こる日を当ててきたとかいう人がさ、すごい地震が起こる夢を見たとか書いてるし!」

「何回騙されれば気が済むの、夏海は。それで」

 余計な不安を抱え込むんだから世話ないよね、と言いかけ、口を噤んだ。途端に、激しい自己嫌悪が渦巻いた。

 夏海は一時期よりは、回復した。もう新しい傷口は増えていないはず。でも、いつかまたあの発作が起こるかもしれない、そんな不安を抱えてもいる。いつ来るか分からない発作への不安と、いつ来るか分からない災害への不安とを、重ね合わせているんだろう。

 分かっているのに。あの時、夏海の支えになりたいと、自分の中での決意は固まったはずなのに。

 一年近くが経って、夏海には一生付き合っていかなければならない傷跡があるということへの意識が、薄れつつある。軽蔑混じりの言葉を吐いてしまいそうになる。

 私は、不自然に空いた間を、不自然な咳払いで誤魔化した。

「それで、デマをいちいち真に受けた夏海が参るのを見るなんて……私は、嫌。起こる可能性はゼロじゃないけど、考え過ぎたら、夏海が先に潰れちゃう」

 最後まで言い切ると、私が黙っている間もずっとこちらを見つめ続けていた夏海は、

「そっか……うん。そうだよね」

 苦笑いになった。

「ありがとう。いつも、気にかけてくれて」

 夏海が自分の席に戻ってから、私は小さく、口元を緩めた。

 チャイムが鳴った。

 誰もが傷跡を曝したまま、また新しい一日が、始まる。


(2012/3/11)






2013年 8月


 目の前にある傷跡。そんなもの、初めからなかったかのように、見て見ぬふりをする。

 ただそれだけで、傷つく人間がいることも知らずに。


 ドアを開けて夏海を迎え入れたわたしに、彼女はぐったりともたれかかってきた。酒くさい。

 夏海に肩を貸しながら居間まで歩く。

「今度は何」

 わたしは夏海に伝わるよう、苛立ちを込めて言った。夏海は

「サークルの先輩が」

 とだけ言った。今日は確か、サークルの飲み会があるといっていた。

「ねえ、飲み会で何かあったの?」

 居間に運び込むと、夏海はそのまま床の上に寝転がった。その隣に座り、体を揺する。眠ってしまったのだろうか。わたしはますます苛立ち、夏海の頭を平手でたたいた。

 大学に入っても、夏海の不安定な精神状態は慢性的に続いている。先の見えない、終わりの見えない苦しさというのは、本人だけでなく、周りを取り巻く人間すら苛立たせる。

 重かった。もう、わたし一人では支えきれそうにない。耐えきれそうにない。誰かにもこの重さを分かち合ってほしかった。押し付けたかった。だから、サークルに入ることを勧めた。夏海の精神状態を余計に悪化させる行動だとわかっていながら。傷跡なんてもうないよ、と無理に笑わせた。

 ないわけがない。ある。確かに残っている。

「怒った?」

 情けない声で夏海が訊いてくる。

「いいから。何されたの」

 自分の声が硬くなるのがわかった。夏海は、ガードが甘い。そこに付け込まれたら。

「わたし、こんな真夏に、毎日、長袖着てるでしょ」

「うん」

 あぐらの状態から右膝を立て、相槌を打った。

「それを、酔った先輩がしつこく聞いてきた。はぐらかしてたら、急に、腕をつかまれて。みんなも、こっちを見て」

「それで」

「タトゥー彫ってんだろ、って。笑いながら、袖をまくられて」

 声がだんだんと、湿りを帯びたものになっていく。

「見られた。傷跡。みんな、あんなに楽しそうにしてたのに、一瞬で、静まり返っちゃった」

 そしてそのあと、何事もなかったかのように、見て見ぬふりをしたんだろう。

「もう、やだよ。夏希が行けっていうから行ってたけど、本当は、わたし……夏希ともっと一緒にいたい」

 這うようにして近づいてきた夏海が、わたしの左足に、顔をうずめる。温もりと、一部の冷たさ。肌にじかに、夏海を感じる。

「うん」

 嗚咽する夏海の髪を、指で梳く。

「わたしも」

 重くたって、辛くたって。

 もう、後戻りはできない。


(2013/3/11)






2014年 7月


 今日こそ見つかるのではないか、今度こそ見つかるのではないか。

 今さら見つかるはずがない。口では否定しながら、いつまでも、いつまででも、期待し続けてしまう。

 きっとこれから先、生きている限り。


 玄関先に座り込み、アパートの黄ばんだ白壁に頭を預けてから、どのくらい経っただろうか。

 寝坊したうえ、準備まで遅い夏海に対して苛立ちが沸き起こりかけるが、日常的に夏海と接して培ってきた自制心でそれを抑える。彼女の準備が遅いのはいつものことで、音楽プレイヤーを使っての暇潰しもいつものこと。

 怒鳴るのはやめにした。

「夏海」

 イヤホンを外し、部屋の奥に向かって声をかける。

「待って」

 夏海の声がしたあたりから、物をひっくり返す音がひっきりなしに聞こえてくる。イヤホンをしていたから気づかなかった。

「上がるよ」

 と言いながら音楽プレイヤーを鞄にしまい、靴を脱ぐ。

「あ、待ってってば、夏希」

 気にせずに居間へ行くと、とんでもないことになっていた。

 本体から取り外されたタンスの引き出しが三段、空となって床の上に直接積み上げられ、そこに収納されていただろう洋服が部屋中にばらまかれている。小型のテレビに長袖のTシャツがだらしなく引っかかり、文庫本を吐き出した本棚が服の山の上でうつぶせに倒れている。

 部屋の隅に立っている夏海に、

「何してんの?」

 反射的に強い口調で言ってしまうと、彼女は泣きそうな顔でこちらを見た。

「見つからなくて」

「主語」

「ア、アームカバーが」

 わたしは応えず、倒れていた本棚をまず引き起こした。アームカバーなんかのために、とは口に出さない。アームカバーひとつでこうなるのが夏海だ。

「夏海は引き出しを元に戻して、そこに洋服を畳んで入れて。そのときに見つかるかもしれないから。早くしないと店が混んじゃうよ」

 小さく頷き、こちらの指示通りに動き始めた夏海を横目に、文庫本をひとつひとつ棚に戻していく。日に一度はおかしなことをする夏海と一緒にいると、ため息をつかずに過ごすことがなかなか難しい。

 二百冊くらいあっただろうか。最後の五冊を手に取ったとき、洗濯機の蓋が閉まる音がした。一瞥すると、ちょうど夏海が居間に入ってくるところだった。洗濯ものでも見に行っていたのだろう。

 本棚に向き直って

「あった?」

 と聞くと

「なかった」

 と返ってきた。

「ひと組も?」

 最後の文庫本を棚に差し、もう一度夏海のほうを振り向いて目を合わせる。

 夏の強い日差しから肌を守るため、腕全体を覆うアームカバーを身に着けている人もときどき見かけるから、夏海の傷跡を隠すためにはちょうどいい道具だ。ひと組しかないとは思えない。

「……ないの。あれしか」

「向こうで買えば。どうせ洋服も見るんだし」

「駄目」

 か細い声。

「あれが見つからないと、行けない」

 我慢していたが、ついにため息をついてしまった。

「いい加減にして」

 本棚の近くに置いていた鞄を左肩に提げて立ち上がり、右手で夏海の腕を引っ張って玄関まで行こうとすると、玄関のたたきの手前で、夏海が強く足を踏ん張った。意外に強い力。動かない。

「もう少し、探してから」

 夏海のほうをひとにらみして、腕から手を外した。

「そ。じゃあいつまでもそこにいれば」

 玄関先まで行き、スニーカーをつっかけて、重く厚いドアを押し開けて外に出た。

 そのままの勢いでアパートの廊下を早足に歩いていると、後ろで、ドアが大きな音を立てて閉まった。

 びくり、とした。張りつめていた体から、一瞬、力が抜けた。すかさず、おひさまがじりじりと肌を焼く。手で光を遮りながら見遣ると、来たときはまだ低い位置にあったそれが、天辺まで昇ろうとしていた。今頃はこんな日差しとは無縁の場所で、楽しくお昼ご飯を食べていたはずなのに。

 少し迷ってから、踵を返した。

 重く厚いドアをもう一度開く。足元をよく見ずに靴を脱ぎ、居間へ行こうとしたら、何かに躓き、転びかけた。壁に手をついて、こらえる。左足を思い切りぶつけてしまったのは、夏海の右肩だった。

 わたしが腕を放した場所から一歩も動かず、うずくまっていたらしい。

 ……気持ち悪い。

「泣かないでよ、あのくらいで」

 吐き捨てると、夏海はゆっくりと顔を上げた。顔は歪んで、涙のせいで目もとのささやかな化粧が崩れ、眼そのものは充血しかかっている。嗚咽が止まらずに時折、しゃくりあげる。

 もう一度思う。気持ち悪い、と。

 目の前の、この、気持ちの悪いいきものを見下ろしながら、短気を起こしたことへの後悔と、泣けば解決すると思っているような振る舞いに対する、見つからないものに執着していることに対する苛立ちが、せめぎ合う。

 やがて夏海の方から、口を開いた。

「夏希は、覚えてない、みたいだけど」

 まだしゃくりあげている。自分でもそれに気付いたのか、それが一旦収まるまで間を空け、

「あのアームカバーは、夏希から、もらったの。去年、先輩に傷跡を見られたとき、次の日のお昼休みに、夏希がくれたんだよ。これなら不自然じゃないから、って。大事な講義を休んでまで、買いに行ってくれたんだよ」

 言われてすぐに、思い出せた。そうだ、あのとき……。

「大切なの。夏希が、プレゼント、してくれたものは、みんな、大切。ひとつも、なくしたく、ない」

 膝を抱えた夏海は顔を伏せ、丸くなった。

 気持ち悪い。気持ち悪いけれど、その裏側にあるものがわかるから、嫌いにはなれない。

 鞄をフローリングの上に置いて手を入れ、プラスチックの箱の中から、化粧落とし用のコットンを一枚、抜き取った。

 夏海のすぐそばまで寄り、しゃがみながら、

「夏海」

 名前を呼んで顔を上げさせる。そこへ、コットンを押し付けた。

 夏海は一瞬、驚いたように身を引いたが、すぐに、されるがままになった。彼女の目もとのあたりを中心に、コットンで静かに拭う。

 用済みになったそれを、ごみ箱に向けて放った。入ったのを見届けてから、

「化粧、直してさ。もうひと組、買いに行こうよ。また、プレゼントしてあげるから」

 と言った。

「なくしたほうは、帰ってきたら、もう一回、二人で探す。それでどう? 夏海は、今度もなくすかもしれないけど、ね」

 少しいじめたくなって、一言付け足した。

「なくさない。もう、絶対なくさないから」

 涙を流しながら無理やり微笑む様子が、かつて怒る母親に謝り、許しをもらった自分を見ているようだった。

 夏海は傷跡の残る腕で涙をぬぐいながら、立ち上がった。

 居間に行ったと思ったら、彼女は小さな手提げかばんを持ってすぐに引き返してきた。

「化粧はいいや。待たせちゃうし。行こ」

 夏海が先に、靴を履いた。靴紐を結ぶその背中を見ながら、これじゃあまるで母親だな、と苦笑いした。

 薄暗い玄関先が、少し、明るくなった。

 ぼんやりしているあいだに、夏海は靴紐を結び終え、あの重く厚いドアを押し開けていた。ドアを支えたまま、不思議そうにこちらを見る夏海の後ろから、太陽の光が薄く差し込んでいる。太陽の光の下で際立つ肌の白さ。あまりにも鮮明な白に、かえって輪郭がぼやけて見える。

 きれいだった。

 なぜかはわからないけれど、それがとても、かなしかった。

「さっきの話だけど」

 わたしは靴を履きながら、呟いた。

「無理だよ、絶対になくさないなんて」

「え」

「でも、いいよ。なくしたときはまた言って」

 見つからないものに後ろ髪を引かれるのなら、それ以上のものをあげるから。

 ぜんぶ。

 わたしが、あなたにあげられるものは、ぜんぶ。

(2014/3/10)

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