その4
ぺたぺたと、柔らかいクリーム色のリノリウムの床を歩き、昇降口で靴を履きかえる。
月子は黒いジャージ姿でも、気品を損なうことなく、優雅に楚々とした仕草で私についてきた。
それに対して、凡庸男子と言えば何に役立つのかわからない無骨な金属バットを振り回し、しきりに月子に話しかけている。
「月子さん達は要森についてどのくらい知っているんすか? 」
猛禽類の襲撃におびえる野鼠のようにちらちらと、私の顔色を伺いつつ月子に話しかける凡庸男子。
いつ殴られるか気が気でないらしいが、こちらの一挙一動に内心おびえている様子が見て取れるのは面白く、何となく可愛らしく思える。
月子も同じように感じたか、ふふりと品良く微笑んで答えにならない答えを返す。
「要森はこの世ならざるものを集めた森よ」
「ええと、そうじゃなくて。つまりですね、森の地図とか、現れる異形の種類とか、対策とかなんすけど……」
「そういうのが聞きたければ、元臣に聞け」
微笑んだまま答える気のない月子にわたわたと説明し続ける凡庸男子が哀れになり、アドバイスしてやる。
私? もちろん、知らん。
小中学生のころに覚えようと努力したことがあるような気もするが、知ったところで巫術や使鬼が使えない私にはあまり意味がなかった。
どちらにせよ殴るしかできないのなら、無駄なことは省くに限る。
「あのー、元臣って誰すか? 」
「式巫元臣」
簡潔に答えると、凡庸男子はびくりと震えた。
「はあっ?! 確かにあの人なら色々知っているでしょうが、いやいやいや、僕みたいな一般人が式巫家の実力者に声をかけられるわけがないでしょう!! 」
殆ど悲鳴のような声にイラついて頭を叩く。
「うるさい。黙れ」
「あでっ! いやでも僕も必死なんすよ!命がかかってるんですよ?! 」
「知ろうと知るまいと死ぬときゃ死ぬ」
「大丈夫よ。只人君。私が守ってあげるから」
温度差が激しすぎる私たちの言動に、不安を隠せないらしい凡庸男子。
寄ってくる黒い影を振り払いながら、どうしたものかと考える。
考えているうちに要森についたので、こればっかりは経験するほかないと思考を切り替えた。
季節は夏、天候は晴れ、時刻は昼間ということもあり、雲一つない青空が広がっていたグラウンドとは打って変わって要森周辺は暗い。
日は確かに射しているはずなのに、要森独特の空気に遮られるように近づけば近づくほど翳りを帯びていく。
「……なんか、寒くないすか」
「うーん、元臣のやつがなんやかんや説明してくれたけど、よく分からなかったんだよね。纏めると要森だから、暗いし寒気がするし、腐臭がするらしい」
「そ、そうなんすか。あのー。式巫元臣となっさんって友達なんですか? 」
「違う。友達は私に術を向けたり、麻酔銃を撃ったり、爆薬を仕掛けようとしないと思う」
不機嫌な私の返答に口をパクパクさせて、何も言わない方がいいと判断したのか凡庸男子はそれきり黙った。
良い判断だと思う。
そうこうしているうちに1-Aのスタート位置についた。
今回の実習は1年生限定の実習だ。
1-Aから1-Eまでの生徒が参加可能で、クラス別にスタート位置がわかれている。
今回は生きてスタート位置とは別の出入り口にたどり着くこと。
あるいは、異形を殺して証拠に一部を持ち帰る事。
先の条件は一般生徒向けの条件で、後の条件は比良坂あるいは三木森寮の生徒向けの条件だ。
「私としてはたるいから、さっさと適当な異形を殴って毟って帰りたいんだけどね」
私はそれでよくとも、月子は納得しないだろう。
やれやれ、と周りを見渡すとすでに月子の周りには人が群がっていた。
けん制するように私が隣に陣取るとドーナツ状のクレーターができる。
やべ、お腹すいてきた。
「ドーナツ食べたい」
「いやいや、どうしてこの状況でドーナツなんすか! 無事に帰ったらいくらでも奢ってあげますから、月子さんとか僕の命のこととかちっとは真面目に考えてください」
「え? マジ? ドーナツ奢ってくれるの? マダム・ドーナツの店は学園から遠いし、私、金持ってないよ」
マダム・ドーナツは全国的に有名なドーナツのチェーン店だ。
新商品の開発に余念がなく、季節限定のドーナツや地域限定のドーナツなどドーナツマニアの心をくすぐるのが大変上手い。
この間食べたもちもちふわふわの餡子入りドーナツなどまさに絶品。
上にかかった黄粉の香ばしさを思い出すとなんだか涎が出てきた。
「マダ・ドは僕の父の会社の系列なんすよ。生きて帰ったら好きなだけ、なんだったら、なっさんが埋もれるくらいプレゼントします」
「マジか」
「マジです」
凡庸男子が死んだら、未来のマダ・ドの経営も危ういということだろうか。
その辺はよく分からないけど、ドーナツ業界にとって凡庸男子が重要な人物であることは認識できた。
「よし、それじゃあ美味しいご飯を食べるために張り切って運動すっかなー」
授業開始のチャイムを聞きながら、私は景気づけに自分の指をぼきりと鳴らしてにんまり笑った。