その2
深夜2時。
草木も眠る丑三つ時、私はベッドから跳ね起きた。
原因はしんと静まりかえった比良坂寮の一室(私の部屋)でけたたましく鳴り響くコール音。
「うるせー……」
いらいらと頭をふりながら、ベッドから降りると壁際のスピーカーから声が響く。
「おはようございます、形無しさま。遅くに申し訳ないのですが、仕事です。先ほど駅前2丁目公園付近で通報がありまして、既に何人か喰われたようです。調査や対応に時間をかけている余裕はありません。どうか、お力を貸していただけませんでしょうか」
ちっとも悪いとは思ってなさ様な、穏やかで明るい声が室内に響く。
……これがあるから、寮には泊まりたくないんだ。
緊張で一気に体温が上がった体にひんやりと冷たい床板が、心地よい。
ぺたぺたと素足で歩きながら床に転がったペットボトルを拾い、生ぬるい水で喉を潤して深呼吸を一つ。
「さて、気乗りしないけど仕方ない」
夜明け前の湿った生暖かい風を浴び、気分を盛り上げるために鼻歌を歌いながら比良坂寮を後にした。
**
すがすがしい朝の空気。眩しい太陽に瞳を細める。
早朝の運動のせいか、今日はやけに眠かった。
鬼? もちろん私だ。
本物の鬼相手に鬼ごっこで鬼をやるってなかなかできない貴重な経験なので、オススメ。
と、以前、式巫家の誰かに対処を押し付けたら、血だるまになって帰ってきた。
あの時は流石に反省し、以降仕事を押し付けるのをやめた。
まぁ鬼の顔が見たくなかったり、だるかったりと気乗りしない時はボイコットするけど。
「うあ~、眠い」
大きな欠伸を一つして、のんびり校門へ向かう。
朝に頼まれごとでたたき起こされた日はどれだけ遅刻しても問題のない日だ。
本来なら自主休校も可能だけど、月子が要森に入る日に休むわけにもいかない。
まだ1限目の授業中なのか、校庭に人影はなく、ちらちら湧いている子鬼をモグラたたき感覚で踏み潰しながら私は教室へと向かった。
私が教室の入り口にたどり着いたところで、ちょうど授業が終ったらしく、聞きなれたチャイムの音が校内に響き渡る。
教室を出てきた先生と入れ変わりに教室に入るとなぜか室内がざわめいていた。
おしゃべりで盛り上がるというより、異質な事態を不審がるというような雰囲気に眉を寄せつつ、私はまっすぐ月子の席へ向かう。
「あ」
一人の生徒が私を振り返ると他の生徒もつられるようにこちらを振り向き、ざわめきがぴたりと止む。
「おはよう、月子」
うんうん、今日も元気に生きてるね!
気にせず月子に挨拶すると月子も目元を緩めた。
「おはよう、なっちゃん」
そして相変わらず月子には黒い靄とか、蛇のようにグネグネした何かが纏わりついている。
それらをつかんで握りつぶしていくと、月子の目の前に大きな黒い塊が蹲っているのが見えた。
強い陰の気を感じる……と、元臣ならいうのかもしれないが、あいにく私は何も感じない。
そいつは膨張と伸縮を繰り返すように蠢きながら、月子のほっそりとした足首にまとわりつく。
「お願いします。逢坂さん! 僕はまだ死ぬわけにはいかないんです! ……だから。だから、僕をあなたのそばに居させてください!! 」
なんだこれ。
言葉を発する不気味な塊にも、月子は聖母のように柔らかな微笑みを浮かべて一つ肯く。
異形に狙われる贄のそばに居れば、贄を囮にして生き延びれる。
授業で学んだ基礎、月子は極上の贄だということはクラス全員が知っていた。
ほほ笑む月子にクラス中の人間が喉を鳴らす。
私も、俺も、と全員の喉をついて言葉が出る前に、私は口を開いた。
「たわけが」
バンッ! と風船が破裂するような音とともに、月子にすがりついていた黒い塊が壁に叩きつけられる。
「あ……がっ! 」
私の蹴りで壁に叩きつけられ、ひくひくと痙攣するそれは、どうやら人間であるらしかった。
黒い靄は消え去り、学生服を着た凡庸な男子が現れる。
「月子に群がるクズは異形も人も私が潰す」
じろりと教室中の人間に視線を向ければ、皆視線をそらした。
「……贄は、俺たち一般人を守るためにいるんだろう?頼って何が悪いんだよ!『暴君』なんて言ったって喧嘩が強いだけの普通の人間じゃないか!あの化け物の恐ろしさを知らないくせに。いくら喧嘩が強くったって化け物相手じゃ無意味なんだよ」
凡庸男子がなにやらぐだぐだと呟いていたが、全く興味がなかったので私は無視することにした。
「なっちゃん、一般人を守るのが贄の役目だよ。だからその子を守るのも私の役目でしょう」
月子は凡庸男子の身勝手な言い分も全て受け止めるように、穏やかな声で私を諭す。
凡庸男子はそんな月子をうっとりとした気持ち悪い顔で見つめていた。
クラス中になんだか居心地輪悪い奇妙な空間が形成される。
が、わたしもここで折れるわけにはいかない。
「いやいや、月子。んなことやってたら命がいくつあっても足りないし。守る私の身にもなってよ」
「大丈夫だよ。なっちゃんのことは私が守るから」
暖簾に腕押しとはまさにこのこと。
月子にどうしたらわかってもらえるのかと無い頭を悩ませる私。
拳を振って月子を利用しようとする者たち(クラス全員を)病院送りにするというともあるが、それは最終手段だ。
非の打ちどころのない完璧な聖母の微笑を浮かべた月子は紅く艶やかな唇を、ゆったりと開く。
「なっちゃんを守るための肉壁は多い方がいいもの」
先ほどと全く変わらない穏やかな口調で月子は続けた。
「だからね、私はみんなを守ります」
空気が、凍った。
は?肉壁?いま月子、肉壁とか言った?
え?えっ?なんてみんな顔を見合わせて先ほどの言葉が幻聴だと確認しあう。
「月子」
「どうしたの、なっちゃん」
「私、肉壁とかいらない。むしろ邪魔」
努めて冷静に言い切ると、月子は可愛らしくこてん、と小首を傾げた。
「でも、私だけじゃなっちゃんを守れないし。ね、只人くんも一緒になっちゃんの肉壁になってくれるよね」
悪意なんてみじんも感じさせない純粋な笑顔で、覗き込む月子に凡庸男子は夢見心地でこくりと頷いた。
「おいおい、凡庸男子!お前、今自分がとんでもない約束をしようとしていることに気付いてる?! 」
私の渾身の突っ込みに、凡庸男子は一瞬ハッとした表情になるが、不意にきりりと表情を引き締めて私に向き直ると腰を90度に曲げて両手を突き出した。
「肉壁2号です!よろしくお願いします!! 」
「いらん! 」
私はその手をつかみ、ハンマー投げの要領で壁に放り投げた。
というか、お前さっきのどんなことをしても生き残りたいです僕!みたいなキャラどこに行った?!
「へへ、僕、野球部なんで扱きには慣れてるんっすよ」
よたよたと壁から立ち上がり、凡庸男子は私の目の前に立ってへらりと笑うとそのままばったりと倒れる。
「何コイツ」
呆れる私に月子がほほ笑む。
「なっちゃん、お友達で来てよかったね」
今のやり取りのどこをどう聞けばそうなるんだ!
なんやかんやで凡庸男子を傍に置くことを決めたらしい月子に私はそっとため息を吐いた。
あんなんそばに置いても、すぐにころっとご臨終すると思うんだけどね。