その1
昼間だというのに辺りは闇に包まれていた。
視界には空を覆い尽くすように鬱蒼と茂る木々、湿った腐葉土に包まれた地面以外は映らないというのに、甲高い子供の笑い声やじゅるじゅると何かをすするような不快な音がこだまする。
不安げに辺りを伺っていた学生服の男女数名が、雰囲気に耐えかねたように地面に頭を抱えて座り込んだ。
歯の根はかちがちとかみ合わず、背筋を這う得体のしれない恐怖と見えない何かに囲まれている感覚が彼らの足から力を奪う。
出口が、ひどく遠い。
少しでも身を守ろうと草木の茂みにもぐりこんだ生徒の体から、ずずっと鈍く何かが潰れるような音が響く。
毛深く、鋭い爪が、学生服を着た、背中から生えていた。
続いて渇いた木が割れるような音に、ぐちゃぐちゃと何かを咀嚼する音、はっはっと細かく空気を震わせる呼吸音に緊張が破裂した。
金切り声と気がふれたような怒声、ずるずると地面をはいずるような何かの音で先刻までの不気味な静けさは破られる。
「に、贄は?! 贄はどこだ!! 」
「そうよ!贄を探すのよ!! 」
贄、贄、にえ……生徒たちは狂ったようにひとつの単語を連呼する。
それだけが、彼らの救いであるがごとく。
赤く、充血した目をぎょろりと見開き、だらしない笑みを浮かべた口端から涎よたらしながら一人の生徒が化け物の前に少女を突き出した。
「にえだ、これで、おれはにげなれる」
少女も少年もその場にいた生徒は歪み、ひきつった笑顔を浮かべ、一人の少女を化け物に突き出す。
突き飛ばされた衝撃で、後ろに流した少女の髪がさらりと前に流れる。
しみひとつない白くなまめかしい肌と、濡れ羽色の澄んだ瞳、艶やかな唇をもつ日本人形を思わせる少女―――逢坂月子。
彼女は異形と正気とは思えない生徒たちを目の前にしても、常と変らず、穏やかで暖かな笑みを浮かべる。
「はい。私の役目ですから、みなさんは早く逃げてください」
場違いなほど穏やかで、相手を気遣う色の見える月子の声に、生徒たちは瞳をそらす。
「早く、逃げてください」
繰り返された言葉に、生徒たちは地面を転がるようにして逃げる。
残された月子に、ぬめぬめとした肉色の触手がどろりとした汚水をまき散らしながらゆるりと伸びた。
極上の獲物をどう料理しようか愉悦を感じ、迷っているかのようだった。
―――ドンッ!!
私は続きを見る前に目の前の鏡を叩き割っていた。
「胸糞悪りぃ!」
「まぁまぁ形無し、これが月贄の役目だ。贄は異形を引き寄せ、他者を守るのが役目でしょう」
にこやかに言い切った白香の腕をつかんで投げ飛ばす。
「だから?今回は運よく月子に取りついた異形のみを消滅できたからいいものの、贄が犠牲にならないように守るのが比良坂と三ノ森の役目でしょう」
終わってしまったことだと知っていても苛々する。
停学している場合じゃなかった!
私に投げられて茶室の障子を突き破り、三ノ森の寮の中庭まで吹っ飛んで行った白香がよたよたとふらつきながら戻ってくる。
「ちっとは手加減してくれよ形無し。形無しから、月子が異形に取り込まれた原因を見せてほしいと言われた時から大体こうなることは見えていたが、それでも限度というものがある。我々三ノ森寮に住む三木森一族は、君たち比良坂寮の実力者のサポート役ではあるが、何をしても許されるってわけじゃないだろう」
眩い金髪をさらりと揺らし、小さな唇を尖らせて苦言を呈する白香。
ちなみに『形無し』とは私のこと。
比良坂寮の生徒は使役する異形や何らかの異能を持っているが、私は単純に殴るだけだから一族に関係ある人間からは『形無し』と呼ばれている。
白香は投げ飛ばされたときにできたであろう切り傷や擦り傷を指先で擦りながら、恨みがましそうにこちらを見ている。
タンクトップと短パン、伸びた白い手足は土や枯葉で汚れていてちょっとした惨状になっていた。
「知ったことか。私はやりたいようにやる。あ、そうだ。また月子が厄介ごとに巻き込まれそうになったのが見えたら連絡して」
「私の鏡を壊したくせに、偉そうに命令しないで欲しいな。鏡壊されたせいで過去も未来も見えにくくなってるんだけどね 」
目の方―――それが御三家の三木森 白香の一族内での通称だ。
ランダムにごく近い未来と対象が限定された過去が見える、超能力者的なものだと私は認識している。
「そっか。まぁ私がとる行動はシンプルだけどね。また月子に何かあれば、三木森白香と三木森 志樹を殴る」
「ちょっと!弟の志樹は関係ないでしょう!あー、もう、分かったから。ちゃんと連絡する!それでいいでしょう」
色鮮やかな緑の瞳を潤ませ、餅のように白い頬を真っ赤に染めながらぷりぷりと怒る白香に一つ頷き背を向ける。
私の脳裏に浮かぶのは先ほど白香が鏡に映した一週間前の光景だ。
要森―――逢坂学園の中心部にある異形が集まる場所。
異形が生まれ、あるいは集まりやすい土地というのは全国に多々あるが、この地は別格だった。
日本全国に散らばる異形をあえてこの地に集めるように術式を組み、集まった異形を祓い、不測の事態にも対応し指示を出せる人材を育成する。
というのが、目的らしい。
日本には古来から異形の生き物が存在し、またそれに対抗する手段や能力を持つものも存在した。
異形に対抗しうる力を持つ者は持たざる者よりも生き残る率は高く、また指導者の地位に立つものも少なくなかった。
現に今の日本を支える有名な財閥や政治、宗教団体は御三家とよばれる、式巫、三ノ森、そして私の実家と縁続きの家が多い。
元々逢坂学園は御三家あるいは御三家と縁続きの家柄の生徒の交流を図る場であったらしいが、より優秀な対抗者を求め、近年広く門戸を開放された。
授業料、生活費は無料。助成金として一人当たり在籍年数×100万円がもらえる代わりに、学園の指示及び校則には絶対服従。
不慮の事故で命を落とすことがあっても、学園側は一切その責任を負うことはない。
故に生徒は、他に行き場がなく事情があるもの、特殊な能力ゆえに学園に入らざるを得ないものが多い。
生徒の中には御三家と縁続きである日本有数の財閥あるいは政治家、宗教関係者の子息もおり、彼らとの繋がりを求めて入学させられた生徒も少なくはない。
入学後、異形の生き物に対抗する手段を学び、3ヶ月以内に要森に入り、異形の生き物と相対できなければ退学。
以降、週に一度は要森に入る。死亡しても退学。
一般人は異形に会っても平静を保てること、必要があれば囮になれること、無事に逃げ生き残ることが求められる。
まだ、入学式から3週間しかたっていないが、一般人を招き入れた結果があれだと思うと腹立たしくて仕方がない。
入学早々、要森で暴れまくって、人も異形もまとめて殴り散らかし、停学をくらった私も悪かったとは思うけども。
「こんなところで何をしている」
憂さ晴らしをしようと要森の前でべきべきと拳を鳴らしていると、背後から見知った人物の声がかけられる。
すらりと背が高く、宵闇色の艶やかな髪と、意志の強い切れ長の瞳が印象的である清雅な美貌を持つ青年―――式巫 元臣、逢坂月子の義理の兄だ。
「関係ないでしょう」
あっちに行け、とそっけなく手を振る私に構うことなく元臣は私の目の前に立ちふさがる。
「ないとは言えないな。婚約者が逢魔が刻に要森に向かうとあれば、誰だって気にかかる」
そして、信じたくないがこいつは私の婚約者でもある。
「一般の生徒を殴ったら、月子が気に病むし」
「ああ、あれか。諦めろ。あれらは校則に違反することなど何一つしていない」
淡々と、言葉を紡ぐ元臣をそのまま殴り飛ばす。
元臣は樹の幹にたたきつけられ、苦痛に顔をゆがめながら俯いた。
「月子は月贄だ。どこにいても異形に付きまとわれ、死ぬまで狙われる。贄の役目が異形を引き付ける餌となることであっても、この学園にいる方が安全だ」
月贄……御三家一族での月子の通称。贄とは特に異形に好まれやすい体質を持つものをさす。
まぁ異形に嫌われる私とは正反対の体質なので、詳しくはよく分からない。
「その結果があれだけど? 」
「目の方か……。あの方にとっても辛い映像であっただろうに、よく見てくれたな。まさか、殴ったのか? 」
「いや、そこまではしてない。殴るって脅して、最終的に投げた」
言い切る私に、元臣は頭を抱え、ため息をつく。
「お前な……」
「御三家の連中にまともに頼んでも聞いてくれないし」
「お前も御三家だろ」
「『形無し』=『能力なし』みたいな感じで馬鹿にされているけどね」
「まぁ、お前は御三家から離れて長いし、それで目の方の寮に突撃するとかば―――ぐっ」
ばかだろ、と続けるつもりだっただろう元臣を再び殴り飛ばす。
元臣と話している間にもそれなりに時間が経過していたらしく、いつの間にか要森の周辺は、紅に染まっていた。
ざわざわと木の葉が擦れる音に、生々しい息遣いやしゅるしゅると何かが擦れる音が混じって聞こえる。
不意に、むわりと生臭い腐った肉の匂いがした。
森の奥から私の腰よりしたくらいの大きさの子鬼が森の入り口辺りで膝をついている元臣めがけてわらわらと群がる。
子鬼が齧っていた辛うじて腕としての原形をとどめている紫色の腐肉がぼたりと地面に落ち、節くれだった毛むくじゃらの赤茶色の指が元臣に伸びた。
「元臣、」
「わかっている」
元臣は学ランから札を出すと何やらぶつぶつと呟き、周囲に生じた真紅の炎が子鬼たちを包み込んだ。
夕日の紅より、色鮮やかに煌々と輝く炎に触れたところから、子鬼たちの体がぼろぼろと崩れ始める。
奇妙な歌声のような元臣の言葉に合わせて炎は大きく、小さく揺らめき子鬼たちを焦がした。
肉が焦げる嫌な臭いに顔をしかめていると、炎に包まれガラスを引きずるような悲鳴を上げる子鬼が鋭い鉤爪を私に向けて襲いかかってきた。
「臭い」
襲いかかってきた子鬼を踏み潰せば、めりっと体がひしゃげ、体液が飛び散った。
再度踏めば、頭部が潰れる音とともに子鬼は地面に吸い込まれるように溶ける。
子鬼が消えても炎はとどまり私の足に絡みついたが、振り払うように足を回すとふ、と消えた。
「ちょっとは強くなったと思ったんだけどな」
子鬼を焼き尽くした後に、苦々しげな顔をする元臣に首をかしげる。
「昔よりずっと強くなったと思うよ」
「嫌味か、それ」
急に不機嫌になった元臣をつれ、私は比良坂の寮に戻った。
部屋に戻る直前に、元臣が私を振り返る。
「明日、頼む」
数日前の月子と同じ瞳の色、愁いを帯びて揺らめく黒瞳に私は力強く肯いた。
明日は週に一度の要森の実習が行われる日。
一年生である私たちは3か月の猶予があるが、他の生徒に乞われ月子は必ず参加するだろう。
私と月子は1-A、元臣のクラスは1-D、クラスが違えばスタート地点が違うため、最初の数分はどうしても月子についていることができない。
ようやく合流したと思ったら、月子が食われていた、ってことにもなりかねない。
まぁ、そんなこと私が許さないけど。
―――月子に群がるやつは、異形であれ人間であれ、とりあえず殴り飛ばす。