パンと女の子
少し大きな北の街に、お婆さんと女の子が住んでいました。
お婆さんは街で人気のパン屋さん。毎日早起きして美味しいパンを作ります。
お婆さんのパンが大好きな女の子も、毎日早起きして、一緒にお婆さんのお手伝いをしています。
大きな石窯から出てくる美味しそうな食パン、バゲット、メロンパンにアンパン。
つぎつぎに石窯から出てくる焼きたてのパンに、女の子は目を輝かせます。
女の子がパンの入った籠を棚に並べると、お店の中が、ふわっとパンのいい香りに包まれます。
パンを並べた女の子は、お店に広がる香りをスゥーッと胸に吸い込むと、お婆さんにニッコリと笑顔を見せています。
「はぁ〜 いい匂いだよねー」
「そうだねぇ……おやっ? そろそろ学校に行かないと、遅刻しちゃうよ?」
お婆さんに言われて、女の子は時計を見ると、テーブルに置いたカバンを慌てて持って、お店の外へ飛び出します。
「お婆ちゃん、行ってきまーす!」
「ちょっとお待ち!」
そう言ってお婆さんは女の子にアンパンを放り投げます。
「ありがとう。お婆ちゃん」
アンパンを掴み、ドアの向こうから手を振ると、女の子は学校へ走って行きました。
お婆さんの温かくて甘いアンパンを走りながら頬張り、女の子は、いつかお婆さんに喜んで貰える美味しいパンを作りたいと思いながら、毎日を過ごしていました。
そんなある日の朝、いつものようにお婆さんとパンを作ろうと、女の子が部屋を出ると、お婆さんが石窯の前で倒れていました。女の子はビックリしてお婆さんに駆け寄ります。
「……大丈夫よ。心配しないで……」
女の子を安心させようと、お婆さんは笑顔を見せますが、右腕を抑えたまま起き上がる事が出来ません。そんなお婆さんを見詰める女の子の瞳から涙がポロポロこぼれ落ちていきます。
「……私は大丈夫だから……ちょっと、お医者さん呼んで来てくれないかい?」
涙を流す女の子にお婆さんは優しく声を掛け、女の子を安心させていると、お店のドアが開き、お店のお手伝いをしているおばさんが入って来ます。
女の子がおばさんにお婆さんの様子を伝えると、おばさんは直ぐに、学校の隣にある病院にお婆さんを連れて行きました。
女の子は病院の廊下で長イスに座り、スカートの裾を握り締め、お婆さんの治療をじっと待っていると、看護士さんに呼ばれて、診察室に入ります。
部屋の中では、ベッドで眠るお婆さんと、お医者さんが女の子を待っていました。お医者さんのお話では、お婆さんの腕と身体の骨が折れて、しばらく入院しなければならないと言われました。
病室に移されたお婆さんが目を覚ますまで、ベッドの側で女の子は色々な事を考えました。
『お婆ちゃん大丈夫かな……』
『早く元気になるよね……』
『直ぐに良くなるよ……』
『一緒にパン焼こうね……』
『元通り動けるかな……』
『腕が動かなかったら……』
『歩けなくなったら……』
『……どうしよう……どうしよう………どうしよう………どうしよう………………お婆ちゃん……わからないよ………』
俯いた女の子の髪の隙間から、涙が落ちていきます。
小さく震える女の子の頭を、温かい手がそっと包み、いつもの優しい声が耳に響きます。
「……心配しないで、私は大丈夫よ。だから、泣かなくていいのよ」
目を覚ましたお婆さんが女の子の頭を撫でながら微笑みます。涙を手で拭いながら頷く女の子も、お婆さんが目を覚まして、少しだけ笑顔をみせます。
そして、お婆さんにしばらく入院しなければならない事を女の子が伝えると、お婆さんは少し考えて、女の子に、こう言いました。
「……テストをしましょう。私は、こんな身体だから、しばらくパンも焼けないし、お店も開けられないわ。でも、貴女はパンを焼ける。ちょうど良い機会だから、貴女が一人でもパンを焼けるかテストをしましょう。私の暇つぶしにもなるしね。明日から毎日。一日一つ、パンを持って来なさい。私が退院するまでに、私に美味しいと言わせたら合格よ」
お婆さんは女の子に微笑み、左手を差し出します。女の子はその手を優しく握り締め、大きく頷きました。
「必ず美味しいって言わせてみせるよ」
「フフフ……楽しみにしているわ。さあ、今日はもう、帰りなさい」
お婆さんにベッドで見送られ、女の子は病室を出ると、病院から一人で家に帰りました。夕陽を浴びて、病院から続く下り坂を女の子は前を向いてゆっくりと歩いて行きました。
いつもはお客さんで溢れる店内も、今はひっそりと静まり返っています。女の子は売り場から作業場に入り、明日の準備をはじめます。今までお店のお手伝いをしながら、勉強してきた事をお婆さんに見せてあげたい。そう思いながら女の子は、道具の準備や石窯の掃除を終わらせ、眠りに就きました。
いつも隣りにいるお婆さんがいないのは寂しくて、少し泣いてしまったけれど、笑顔で女の子のパンを食べるお婆さんを思いながら、ゆっくりと眠りに落ちていきました。
裏庭に立ち、まだ太陽も昇らない暗い空を眺めながら、冷たい空気で眠気を飛ばすと、女の子は作業場に入ってさっそくパンを作り始めました。
小麦粉をよく篩に掛け、キメを細かくすると、砂糖、酵母、溶かしたバター、牛乳を加え軽く混ぜ、塩を加えて練り始めます。
しっかりと材料が混ざるようにパン生地をグイグイと練っていくと女の子の額にうっすらと汗が滲んできます。そして、練り上げたパン生地を丸く纏め、少し寝かせます。
その間に女の子は石窯に火を入れ、パンを焼く温度になるまで石窯を温めます。石窯の温度が上がってくると、作業場の中も、だんだん暖かくなってきました。
石窯の準備が出来るまで、女の子は何のパンにするか考えます。このまま焼いて食パンか丸パンにしようか? それとも菓子パンにしようか? 女の子は悩んだ末に自分の好きなアンパンに決めました。
冷蔵庫から小豆餡を取り出すと、篦で餡をすくい、丸めていきます。餡玉を六個作ると、今度は寝かせたパン生地の弾力を指を差して確かめ、パン生地を切り分け、餡玉を包んでいきます。
餡玉の入ったパン生地を熱くなった石窯に入れ、いよいよアンパンを焼き上げます。しばらくすると、石窯からパンの焼ける良い香りが漂い始めました。
女の子は真剣な表情で石窯を覗き込み、パンの焼き具合を確認しています。その目がパンの焼き上がりを捉えると、石窯からアンパンを取り出します。
テーブルの上に黄金色に輝くアンパンを見て、女の子はホッと息を吐き出しました。
「……お婆ちゃん、美味しいって言ってくれるかな?」
作業場の片付けを終わらせ、女の子は焼いたアンパンを持って、いつもより早く家を出ました。路面電車に乗って学校の隣りの病院に着くと、お婆さんの病室に向かいます。
病室では、ニコニコと微笑むお婆さんが、少し緊張した女の子を迎え、さっそくアンパンを食べ始めました。女の子はアンパンを食べるお婆さんを、静かにジッと見つめます。
「ご馳走様。また明日待っているわよ」
お婆さんは『美味しい』と言ってくれませんでした。
「明日は美味しいって言わせるよ!」
お婆さんにそう言って、ちょっとしょんぼりしながら病室を出て行く女の子に、お婆さんは微笑みながら手を振りました。
女の子は学校へ行きながら考えます。お婆さんは美味しいと言わなかった……作り方はいつもと同じ。材料も、分量も、焼き方も。本当に美味しくなかったのかな? 学校に着いても女の子は考え続けます。
次の日も女の子はお婆さんにパンを持っていきましたが、お婆さんは美味しいと言ってくれませんでした。
次の日も、次の日も。女の子はパンを焼いてお婆さんに持っていきましたが、お婆さんは美味しいと言ってくれませんでした。
どうすれば美味しいと言ってもらえるかな? 私のパン、美味しくないのかな? 毎晩、女の子はそんな事を考えながら眠るようになりました。
今日も路面電車に揺られながら、お婆さんにパンを届ける女の子は、お婆さんが美味しいと言ってくれるかどうかで頭の中がいっぱいです。
そんな女の子が、ふと、窓の外を見ると、路面電車の隣りを男の子が一生懸命走っていました。ただ、真っ直ぐに前を見て走るその姿を、女の子は路面電車が停車場に着くまで、目を離せませんでした。
目標に向かって真っ直ぐに進もうとする男の子の目を見て、女の子は羨ましくなりました。私も色々考えずに、ただ、真っ直ぐに進みたい。そう女の子は思いました。
その日もお婆さんから美味しいと言われる事はありませんでしたが、女の子は家に帰ると直ぐにパンを作り始めました。パンを焼いては味を確かめ、またパン生地を練り始めます。パンを焼いては味見をして、またパン生地を練り始める。夜になっても女の子はパンを作り続けました。
そして、窓から朝日が差し込む頃、小麦粉が無くなったので、女の子はパン作りを止めました。テーブルの上にはパンが山のように積み上がっていました。
「……どうしよう……作り過ぎちゃった………アハハハハ」
パンの山を見ながら、女の子は笑い声を上げました。パンの山から一つパンを掴み、女の子は作業場を出ると、裏庭に降りる階段に座り、庭を眺めながら、パンを食べ始めました。
パンを食べながら朝日に照らされた緑の芝生を眺めていると、芝生の向こうの道路を、あの時の男の子が走っていました。あの時と同じように、真っ直ぐに前を見て……
女の子は急いで立ち上がると、男の子を呼び止めます。そして、作業場からパンを一つ持って来ると、男の子にパンの味見をお願いします。
突然呼び止められて、不思議そうに女の子を見る男の子は、渡されたパンを食べながら一言、『ちょっと固い』と言ってくれました。
余りいい感想ではありませんでしたが、女の子は感想を言ってもらえて、嬉しくて目の端に涙が浮かびます。
一人で不安だった女の子は、誰かに何か言って欲しかったのかもしれません。
男の子に明日の味見もお願いした女の子は、男の子に御礼を言うと、作業場に戻り、パンを箱に詰め始めました。学校でクラスの友達にも感想を聞いてみる為です。
それから数日が過ぎ、女の子は裏庭で男の子からパンの感想を聞いて、メモ帳に書いています。あれからクラスの友達や先生に聞いたパンの感想から、少しずつパンの作り方を変えてみたのです。
私の作ったパンを食べて元気になって欲しい。笑顔になって欲しい。女の子はそう思いながらパンを作り続けました。
そうして、お婆さんが入院して、二週間目の朝、パンを食べ終わったお婆さんが女の子に話し掛けます。
「……私がちょうど、貴女くらいの時、お爺さんと出会ったの。お爺さんはパンが大好きな人で、毎日お店にパンを買いに来たわ。格好いい人でね。……私のパンはお爺さんの好みに合わせたパンなの。お爺さんに気に入ってもらいたくて、パンの好みとか聞いてね。私のパンを食べて笑った顔が見たくて毎日頑張ったわ。でも、お爺さんは鈍い人で、パンは誉めるけど、私の事はちっとも誉めてくれなかったの。大好きなお爺さんに気持ちを伝えたかった私は、ある日、一口囓ったパンをあげたの。そうしたら、お爺さん、フフフッ……顔を真っ赤にしてたわ」
お婆さんは少し照れながら、話し続けました。
「……食べ物で気持ちを伝えるのは意外と難しいものよ。貴女のパンは前から美味しかったけど、それは、私のパンの味だったの。でも、最近の貴女のパンは、私のパンより美味しくなったわ。これからは私のパンではなく、貴女のパンを作っていきなさい。……これでテストは終了ね……今日から貴女が、お店の店長よ。頑張りなさい」
微笑むお婆さんに、女の子は何を言われたか、分かりませんでした。
「……私が、店長……?」
「ええ、美味しかったわ。おめでとう。新店長さん」
お婆さんは女の子を優しく抱きしめると、女の子の目から大粒の涙がこぼれ落ちていきました。
蒼く澄んだ空を眺めながら、女の子がアンパンを持って裏庭の階段に座っていました。芝生を揺らすそよ風に、褐色の髪が肩の上を軽く流れています。もう直ぐあの男の子が走って来る時間です。
女の子はアンパンを見つめると、小さく一口囓り、噛み痕を見て、今度はちょっと大きく囓りました。
『このパン渡したらどんな顔するかな……』
店長になって初めて作ったパンの感想を、あの男の子に聞いてみたい女の子は、裏庭へ男の子が来るのを待っていました。
真っ直ぐに前を見て走る。
あの優しい瞳を思い出しながら……
end