06
こんな場所で私にチョップをかました目の前の男は、エラルドと名乗った。
笑い声を上げながら、落ち着いた?なあんて軽く言ってくるものだから、私のさっきの緊張を返せ!と少し腹が立って、頭上に置かれたままの手をぱしりと跳ね除けてやった。
そうしてしまってから、怒られたらどうしようと心配になったけれど、エラルドは怒る様子もなく、また声を出して笑った。
よく笑う人だ。まだ分からないけれど・・・そんなに怖い人じゃ、ないのかな。
月は雲に隠れてしまい、エラルドの顔がほとんど分からない。
分かるのは、男性にしては少し高めの声であること、細身であること、あと・・・話し方や雰囲気から、多分まだ若いんだろうっていうこと。私と同じくらいか、せいぜい20代前半というところだろう。
そう考えていたら突然、さっきまで気が付かなかった新しい窓が目に入ってきた。
エラルドがしゃがんだことで、彼の背に隠れていた窓が出てきたんだ。
窓からゆっくりと視線を下げていくと、エラルドの顔が目に入った。
だけど、やっぱり暗くて、こんなに近くなのにぼんやりとしか見えない。
でも、なぜか目だけははっきり見えた。大きくて丸い目。くりんとしていて、リスみたいだと思う。
顔との距離が思ったより近くて、少しだけどきりとした。
「君は?」
「え?」
「だから、君の名前」
「あ、わ、私は・・・」
及川千歳、と答えようとして、だけど結局何も言わずに口を閉じた。
何となく名前を口にできずにいると、エラルドの影が揺れた。その場に腰を下ろしたらしい。
少しだけ距離が離れて、ちょっとほっとした・・・のもつかの間、なかなか答えないことを怪訝に思ったようで、答える立場の私よりも先に口を開いた。
「ねえ、もしかして偽名使おうなんて思ってる?」
「ぎ、偽名?」
偽名だなんて。耳慣れない言葉に、今度は違う意味でドキリとする。
「そう、偽名」
「ぎ、偽名って、嘘の名前を言うってこと?そんなことしてどうするのよ」
「いやあ、だってただ名前言うのに悩んでるから」
「・・・・・・」
「言えないの?それとも言いたくないの?どうして?」
「だ、だって、それは・・・」
「それは?」
エラルドは、私の言葉を待っている。
言いたくないのは・・・名前を言って、変だと思われるのが嫌だから。
私の名前は、この世界では聞き慣れない名前らしいから、おかしいと思われないだろうか。ちゃんと正しく名前を言っても、その・・・結局、偽名、だと思われないかな?
それに、さっき、名前をすぐに分かってもらえなかったのがちょっとだけ悲しかったんだ。
・・・でも、そんなの理由にならない。
名前を尋ねられたのに言わないなんて、相手にも自分の名前にも失礼だ。
「千歳」
「え?」
「ち、千歳っていうの」
「千歳?へえ、あまり聞かない名前だね」
あまりにサラリと口にした私の名前。思わずきょとんとする。
あれ、おかしいな、普通に言えてる。さっきの男はなかなか言えなかったのに。
あの男が滑舌が悪かったのか、それともエラルドが滑舌が良いのか。
でも、あまり聞かない、という言葉に、やっぱりこの世界の名前とは少し違うんだと再度思う。
きっと、この世界の女の人の名前って、マリーとかマリアとか、そんな感じなんだろう。
「ねえ」
「な、何」
「千歳ってさあ、何でここに来たの」
「え?」
「何かやらかしたんでしょ?しかも結構危ないこと」
「え?え、あ、危ないこと?や、やらかす?」
「だってこの牢屋、王家や王族に関わる犯罪を犯した人が入る牢屋だよ?」
「犯罪を犯したって・・・ええ!?」
「ええ?って・・・知らないはずはないと思うんだけどなあ。だって、何もしないでここに来る事なんてできやしないんだ」
「え、だ、どうして」
「ねえねえ、何したの?」
まるで楽しいことでも話しているかのように、声のトーンを上げて楽しそうにじりじりと詰め寄ってくるエラルド。
会話の内容と態度が全然マッチしてないんですけど。
近寄るエラルドから逃げたくて、私は石壁に背中を押しつけた。
ちょっと待ってよ、私、本当に何もしてないんだって。
「私、何もしてない」
「ええ?何もしてないって・・・じゃあどうしてここに来たの。何もしてないわけがない」
「な、何もしてないんだってば!」
思わず叫んで、その勢いで立ち上がる。エラルドは・・・座ったままだ。
「・・・私は、何もしてないんだって、本当だよ」
「何もしてないはずがないんだってば。だって、ここは牢屋だ」
「信じてよ!私、何もしてないの!何もしてないんだってば!」
頭が、熱くなってくる。
「わ、わた、私、私は・・・!」
やっぱり、エラルドもさっきの男と同じ?どうして?どうして信じてくれない?私は何もしていないのに。
悔しい。悔しい悔しい悔しい!
気持ちが昂ぶって、涙が出てくる。泣きたいわけじゃないのに。
ごしごしと目をこすっていたら、冷たいものが私の手首に触れた。その冷たさに思わずこする手を止める。
そして、手は目からゆっくりと引き離された。
「こすると赤くなるよ」
「・・・・・・暗いんだから、赤くなったって分からないでしょ」
「はは、そりゃそうだ。でもダメ」
冷たい、と思ったものは、いつのまにか立っていたらしいエラルドの手だった。
それが静かに離れていって、掴まれていた手は自由になったけれど、私はもう一度目をこすろうとは思わなかった。
さっきの手、鉄格子ほどではないけれど、本当に冷たくて、手首を掴まれた時にはひやりと体まで寒くなった。
あんなに手が冷たくなるなんて・・・エラルドはどのくらい長い間、この暗くて寒い牢屋にいたんだろう。
「エラルドだって」
「ん?」
「エラルドだって、私のことばかり言ってるけど、何かしたんでしょ。・・・何したの」
少なくとも、私より前から牢屋に入っていた。私は・・・多分勘違いされてここに来たけれど、エラルドはきっと違う。何かをしてしまったから、ここに来た。
だって、自分で言ってるもの。何もしないのにここには来ない、って。
だから反対に聞き返されたらエラルドはどんな反応するかと思って尋ねてみれば。
想像と違って、エラルドは一瞬きょとんとしてから、次いでくすくすと笑い出した。それはもう楽しそうに。何がおかしいのかは全く分からないけど。
「俺ね、城下町でスリしてたの。スリで、生活してたんだ」
「スリ?」
「そ、スリ。色々な人の財布をね、スっちゃってたんだよね。で、たまたま財布をとった人が、君を連れて来たあの人、あの王子だったんだ」
「そ、そうなんだ・・・」
スリって・・・。さらっと言ってるけど、それって犯罪だよ。うわ、やっぱり悪い人なんだ。
でも、誰かを加害したとかじゃないらしいから、まだ少し安心かなと思う。
まあ、一緒にいる分にはね。私、今お金持ってないし。
・・・・・・ん?
「・・・王子?」
さっきの黒い服を着た男の人のこと?あの人、王子なの?
「あの黒い人、王子なの?」
「そうだよ。あれ、まさか知らなかったの?」
「し、知らないよ」
・・・王子って、もっと愛想が良いんものじゃないの?
王子って聞けば、もっとにこやかに手を振っているイメージが強いけれど、実際はそうじゃないのかな。
そうか、だから、『無礼者』、か。私が、王子に向かって生意気な口を利いたから、家来の人たちが怒ったんだろう。
ようやく、さっきの事に少しだけ合点がいった。
「で、君は?」
「え?」
「俺だけ話させるなんて、そんなの卑怯だよ。聞かれたから俺は答えた。次は君の番」
「う」
「君は何したの?」
「・・・・・・」
まあ、確かにそうなんだろうけど。
でも、本当に私はやっていないんだ。それは、どうしたら伝わるんだろう。どうやったら信じてくれる?
「私、本当に何もやっていないの。あの・・・」
正直に話す?どこから話す?
・・・ここじゃない、多分違う世界に住んでいたんだけど、ブランコを飛び降りたらこの世界だった・・・なんて、誰が信じるんだろう。
話したところで、頭がおかしいとか、嘘をついているとか、そんな風に思われるのがオチじゃないのか。
さっきの黒い王子だって、私の言葉に全く耳を貸そうともしなかった。
エラルドだって、変な奴だと思って、信じてくれない可能性の方が大きいと思う。
「どうしてここに来たの?」
「・・・・・・」
「何もしてないでここに来るわけないって言ったよね。じゃあ、どういう流れでここに来たの?何か悪いことをしたわけじゃないなら、別に話したって良いでしょ?それとも、やっぱり何かいけないことやったとか?」
「ち、違うってば」
「じゃあ、どうして言わないの?」
「・・・・・・は、話したら、頭おかしいって、お、思われるかもしれないから」
話したい。
でも、私の真実を否定されることが、怖い。
「・・・思われたっていいんじゃない?」
「え?い、いいんじゃないって・・・そ、そんな」
よ、良くないと思うんだけど。
変な人って思われるのは、ちょっと・・・ううん、かなり嫌だ。
「だって、千歳にとって、おかしいことしゃべるわけじゃないんでしょ?」
「そ、そうだよ」
「嘘を話すわけじゃ」
「な、ない!そんなつもり、全然ないよ」
「そうなんでしょ?だったらいいんじゃない?何も頭おかしくないでしょ。たとえ思われたって、その時は信じてもらえるまで話せばいいし」
「・・・・・・だって」
「千歳にとってそれが嘘でないのなら、堂々と話せばいい。びくびくすることなんかない。相手がどう思うかは相手次第だけど、話さなきゃ何も始まらないよ」
「・・・・・・」
「千歳は、どうしてここに来たの?」
言っても・・・結果として、変な人と思われる可能性だって十分にある。
でも。
「・・・・・・信じてもらえるかどうか分からないけど。・・・ううん、信じてほしいから、話す、けど」
「うん」
「私、多分、この世界の人じゃない」
エラルドの言うとおりだ。
言ったって、さっきの王子のように否定されるかもしれない。だけど、もしかしたら信じてくれるかもしれない。
言ってみよう。
否定されたって、信じてもらえるまで何度だって話せばいい。
どちらにしたって、言わなきゃ、何も始まらないんだ。