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「な、・・・な、な・・・なにす・・・っ!?」
言葉が出てこない。
頬を押さえたまま、目の前で目を丸くしている青年を思いっきり睨み付ける。なんでそっちがそんな顔してるの?驚いたのは私の方だと思うんですけど!
そう思いながら青年の顔を睨んでいたら、ふいにその顔がへにゃりと崩れた。
・・・違う。青年の表情が崩れたんじゃない、私の視界がぼやけたんだ。驚きすぎてちょっと目が潤んでしまったみたい。メンタルは強いほうだと思っていたんだけど、どうしちゃったんだろう。ああもう、不覚だ。
ルークスと名乗った目の前の青年は、頬に赤い紅葉を浮かび上がらせたまま、相変わらず固まっている。まるで、なぜそうされたかが分からない、というように。
なぜ、なんて。そんなの、決まってるじゃない。
「い、いきなり、何する、の!」
ようやく言葉が出てきた。言いながら、さっきの頬へのふにゃっとした感触が思い出されて、悔しいけれど、また泣きたくなった。
挨拶の時に相手にキスするなんて、目の前の王子からはされなかったけれど、もしかしたらこの世界では習慣化されたものなのかもしれない。そういえばお伽話とかでも、貴族の人や王子様がお姫様たちによくしているっけ。それを考えれば、そんな失礼なことじゃないかもしれない。
でも、でも!
手の甲に、だけならまだしも、頬に、だなんて。たかがキス一つ、しかも唇以外、それでこんなに騒ぐのはおかしいと思うかもしれないけれど、でも、感触がずっと残っていて・・・。好きでもない人、それどころか初対面の人の、むにゅっとした唇の感触が、思い出したくもないのにずっと感じられる。
挨拶だろうが、私は・・・すごく、すごく嫌だった。
幼い頃は、そんなお伽話のような世界に憧れていたこともあった。でも実際に体験してみて、思い描いていたものとは違うらしいとはっきり分かった。ただでさえ男の人と付き合ったことなんてなくて、キスなんてもちろんしたことない。それどころか、手を繋いだことだってほとんどない。少なくとも中学生になってからは、記憶にない。それなのに。知らない人にそんなことされて、ショックだった。
再びこみあげてきた涙をゴシゴシと腕で拭う。こんなことで、相手に泣き顔を見せるなんて、すごく悔しい。涙、早く引っ込ませなきゃ。
ゴシゴシ、ゴシゴシと何度もこすっていたら、手首を掴まれてその腕を止められた。
あれ、この感じ、どこかで・・・。つい最近同じようなことがあった気がする。
・・・そうだ、あの牢屋にいた時。あの時も気持ちが昂ってしまって涙が出てきたんだった。こすっていたら・・・エラルドが。
とても冷たかった手でひやりとしたのを覚えている。今、掴んでいるこの手は・・・冷たいどころか少し熱い。
手首を掴む腕を視線で辿れば、想像していたエラルドではなく、王子が私を見下ろしていた。
何で止めるの、と思いながら見つめた先のその表情は。
「・・・それ、どういう顔なの」
「・・・さあ」
怒っているでも、笑っているでもない、読み取りにくい微妙な顔をしている王子。泣き顔で見上げてしまったことがなんだか落ち着かなくて、私は顔を背けて俯いた。でも。
「とりあえず、ルークスに謝れ」
その言葉に、ガバッと再び王子の方に顔を向けた。泣き顔を見られるのは悔しいとか、そんな気持ちは一瞬のうちに吹き飛んだ。そして、さっき青年にしたように、今度は王子を思い切り睨み付ける。
「何で、私が、謝らなきゃいけないの。だって、最初に驚かされたのは私の方で・・・!」
「そうだとしても、ルークスは王子だ。分かるだろう」
「・・・・・・」
その眼の真剣さに、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
さっきからこの王子に頭突きやらなにやら色々してはいたものの、今私がこうやって無事でいるのは、それはこの王子がなぜか、それを許してくれていたから。
でも。
ルークス、と名乗った王子は違う。違うんだろう、きっと。目の前のこの王子とは。
このままでは本当に不敬罪で刑に問われることになる、と。命に関わることだ、と王子が目で伝えてくれている。
「・・・・・・」
荒れる心を、どうにか落ち着かせて。
ルークス王子に向き直る。頬の赤みは少し取れてきたみたいだけれど、まだほんのり赤い。それを見て、痛そうだな、と思う。自分がしたことだけれども。
・・・さっきはちょっと、やりすぎだったかもしれない、そう思って。
「あの」
「・・・え?あ、ああ」
「あの・・・ご、ごめんなさい。頬、叩いてしまって・・・」
「あ、いや」
「あ、あんなことされたの、初めてで・・・驚いちゃって・・・つい」
そこで、しっかりと頭を下げた。
「痛かったですよね。ごめんなさい」
日本があった世界の、欧米や欧州あたりで育っていれば、もしかしたら違和感を感じなかったかもしれないけれど、そんな習慣があまりない日本で、その中でもそんなこととは無縁に育ってきた私には、戸惑いが大きくて、恥ずかしすぎる行為だった。
でも、相手にとっては、軽い挨拶のつもりだったのかもしれない。きっと悪気があったわけじゃないんだろう。だから、私も驚いたけれど、叩くほどではなかった、と思う。言い訳になるけれど、叩こうと思って叩いたわけじゃない。とてつもなく驚いたのと、早く離れたくて、唇を離したくて・・・恐怖と危機感を覚えた一瞬のうちの無意識の行動だった。
でも、痛くて嫌な思いをさせてしまったことは事実だから。そう思うと、素直にごめんなさいの言葉が出てきた。
「悪いな、ルークス」
「・・・・・・」
「こいつは王族や貴族じゃないから、ああいう挨拶に慣れてないんだ。他の国から来たばかりだと言っていてな。俺に免じて許してやってくれ」
「・・・兄さん」
「まあ、お前も、少し調子に乗っていただろう?」
「・・・・・・調子に、乗っていたわけでは」
「そうか?まあ、女が皆、お前の一方的な好意を受け取るとは限らない。例外もいる、と。勉強になったな。・・・ほら」
王子とルークス王子のやりとりを頭を下げたまま聞いていたところに、突然目の前に白い布が飛び込んできた。
何だろう、としばらく布を見つめていると、今度はその布が顔に押し当てられた。
「ぶっ!」
「変な声出すな。ほら、早く顔を拭いて、その変な顔を元に戻せ」
「・・・変な顔って!」
変な顔って、泣き顔の事だろうか。失礼な。でも、悔しいけれど、布をもらえたことは助かったので、そのまま受け取って目元を拭った。
優しいんだかそうでないんだか、よく分からない王子だ。
そう思いながら、ふと視線を感じて顔を上げれば。
ルークス王子が、こちらをじっと見つめていた。
ああ、そうだ。私、結局この人に許してもらえたんだろうか。不敬罪で、また牢屋送り、なんて・・・。いや、王子が『俺に免じて』と言ってくれていたから、多分それは免れたんだとは思うんだけど・・・。
ドキドキしながら見つめ返せば、意外にもにこりと笑い返された。・・・あれ?
「悪かったよ、千歳嬢」
「じょ、嬢?いや、私は・・・」
「外見から少し幼いお嬢さんだなあと思ったけれど、こんなにウブだとは思わなかった。でも、そこがまた可愛らしいね」
「・・・・・・は、」
嬢、だとか、可愛い、なんて。そんなことをさらりと言うなんて、このルークス王子、女たらしに違いない。そういえばさっきも歯の浮くようなセリフを言われたような気がする。流したけど。
こうやって考えている間にも、春の野に咲く花のようだね、なんて言っている。そんな言葉を演劇の台詞でもないのに言う人がいるなんてすごい世界だ。・・・言われ慣れてないせいか、鳥肌が立った。
うん、まあ、平手打ちされたことからは、復活したみたい。とりあえず、さっきのことで私を咎める様子もなくて、少し安心した、けど。
「ごめんね、驚かせて。挨拶だったんだ。今はまだ慣れないかもしれないけれど、君がもっと大きくなって、・・・まあ、もちろん今でも十分可愛いんだけれど、もっともっと大人の女性になったら」
「・・・・・・」
・・・またこのパターンですか。この兄にしてこの弟ありというべきか。
兄弟でどれだけ私を幼く見れば気が済むんだろう。それとも、そんなに私はこの世界では幼い容姿をしているのでしょうか。
日本人だから余計に童顔に見えるのだろうけど、この世界の18才に見えるにはどうすればいいんだろう。化粧するとか?・・・やり方知らないけど。しかもこの世界の化粧もどういうものか知らないけど。
もう訂正する気も起きなくて、無理やり笑顔を作って受け流した。
若干口の端が引き攣ってる気がするのは気のせいだと思おう。




