温もり
始末人としての自分、それは変えられない事実。
けれど、こんな自分でも、こんな事は許されるんだろうか?
あたしは、妖怪である彼を、愛してしまった。
「ったく、ゆすらの奴。どこ行き…」
ブツブツとぼやきながら廊下を歩いていた翡翠は、玄関先に、頭から足の先まで、ずぶ濡れのゆすらを見つけて息をのんだ。
「ただいま…」
泣きそうな彼女の笑顔に、翡翠の胸がひどく軋んだ。
「お前、どこ行ってたんだよ!散々捜したんだぞっ」
「うん、ごめん」
詰め寄った翡翠は、どこか遠くを見ているような彼女に、きつく、その柳眉を寄せた。
おかしい。
尋常じゃない、どうしたっていうんだ。
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっと、ね…なんでもないわよ」
いくら尋ねても、虚ろに返してくる彼女に、ついに翡翠の我慢の緒が切れた。
「ちょっとって何だよ!散々捜したこっちの身にも…」
瞬間彼は、漂ってきた異臭に、顔を顰める。
彼女の、服に付いている黒い汚れは。
濃い、鉄の匂いがした。
「お前から…血の、匂いがする」
びくり、とゆすらの体がこわばる。
翡翠は、それを見逃さなかった。
「うん、妖怪を…殺したわ」
「ゆすら…」
翡翠が一瞬、手を引っ込めると彼女は、ひどく傷ついた顔をした。
バレてしまった。
知られてしまった。
いつかバレるだろうとは、どこかで分かっていた。
けれど最近は、楽しかったから、先延ばしにして忘れていたんだ。
分かってたのに。
なのに…。
嫌われたくない。
彼には、知られたくないと思った。
「だから、言ったじゃない…あたしの、傍にいたら、必ず、後悔するって」
俯いたゆすらの頬を、幾筋も、涙が伝う。
「ゆすら、俺は…」
「触らないでっ!」
きっと自分は、彼を傷つけてしまうだろう。
嫌われるくらいなら、一人の方がいい。
その方が、痛みが少なくて済む。そう学んだ。
そっと、肩に触れた手を叩き払い、昂然と、ゆすらは翡翠を睨んだ。
「あたしは…アンタまで、不幸にしたくない!父さんも母さんも…みんな、あたしのせいで!!」
ゆすらは泣き叫ぶ。
忘れもしない。
あの日の惨劇を…。
「だから、どうしてあたしに構うの!ほっといて…よ」
温もりを感じて、ゆすらは、やっと今の状況を理解した。
彼に、抱き締められていた。
「お前の泣き顔は、見たくねぇなあ…俺、お前に会えたの、ちっとも後悔してねぇよ?」
「離して」
「いやだ」
じたばたと身じろぐゆすらを、翡翠は、さらに強く抱き締めた。
「離し…て」
いくら突き放しても、食い下がる翡翠に、ゆすらの瞳にまた、涙が溢れた。
「離すか!…俺は、どうなったっていい。お前を、放っとけねぇんだよ」
「翡翠ぃ…」
「一人で抱え込むな、辛かったら全部、吐き出しちまえばいい。俺が支えるから」
「え…?」
ゆすらは一つ、瞠目する。
あたしが怖くない、と言うのか、この男は。
妖怪なら、恐れるのが当たり前なのに。
「ホントに、あたしが怖くないのね?」
「ああ、だから…もう、泣くんじゃねえよ」
「っくしゅん!」
返事をしようとしたゆすらだったが、代わりにくしゃみが出てしまった。
「お前ッ、びしょ濡れじゃねえか!早く着替えてこいよっ」
「うん、そうするわ」
翡翠は、そっとゆすらを離してやる。
ヨロヨロと、自室に向かう後ろ姿を見送って、溜息をついた。
「さて、なんか食うかなー」
時間、事態に関係なく、翡翠は相変わらずマイペースだった。
居間で煎餅を片手に、茶を啜っていた翡翠は、肩に重みを感じて振り向いた。
ゆすらの頭が、乗せられていた。
「なした?」
「あったかいね、翡翠」
擦りよってくる彼女が愛しくて、翡翠は、ふっと笑みをこぼした。
「お前が冷えすぎなんだってぇの」
「こうしてると、なんか…安心するね」
そう言って、ゆすらは瞼をおろす。
だって。
今まで、誰にも寄りかかったことなんて、なかったんだもの。
温もりが、こんなに心地よいなんて、忘れてたのよ。
「こうした方が、もっと温かいんじゃねえか?」
「え――――‐‐‐」
いつの間に、変わっていたのか。
すべらかな、毛皮の感触と、温みを感じて、うつうつとしていたゆすらは、慌てて顔を上げる。
本体…妖怪である、黄兎の姿に戻った翡翠が、そこにいた。
「翡翠…」
兎化した翡翠は、慰めるように、ゆすらの手に頬ずりをする。
「お前、いつも悲しい瞳をしてる。その悲しみを、俺は消してやりたい」
「ずっと…覚悟してきたわ。誰も、好きにならないように」
怖れていたことが、起こった。
彼を、好きになってしまいたい。
けれどそうしたら、自分は戒めを忘れてしまう。
言ったゆすらの頬を、また、涙が伝った。
「なぜ?」
なにも応えず、ただ涙を流す彼女に、翡翠は人の形に戻って尋ねた。
「悲しみを、増やさないためよ…あたし達の一族は、常に死と隣りあわせ。一族といっても、あたしが、最後の一人なんだけどね」
涙を拭って、ぽつりぽつりと、ゆすらは重々しく語りだした。
翡翠はきつく、唇を噛みしめる。
他の者はどうしたと聞くのは、愚かなことだ。
もう、分かりきっている。
どんなに辛かっただろう。一人だけ残され、詩の影に怯える日々が。
「死なせない」
「え?」
涙の、たくさん溜まった鳶色の瞳が、翡翠をじっと見据えた。
彼女の頬を伝う雫を、翡翠は玻璃のようだと思った。
「死なせねぇ、死なせはしねぇ…俺が、守る」
(ここに誓おう。俺は、お前を一人にはしない!)
瞬間、激しい脈動が彼女を灼いた。
ゆすらの中で、記憶の糸が、一つの映像を結んだ。
(以前にも、同じ事を云った人がいた。守るから、と)
燃えさかる母屋。
まだ幼かった自分は、兄の腕の中で、その光景を見ていた。
『ゆすら、もう泣くな…父上と母上は、定めを全うしたんだ。いいかい、なにがあっても、泣いちゃいけない…状況は、俺たちを待っていてはくれないんだから』
『兄さま、兄さまも、定めを全うする?』
怖かった。
父と母を一度に失い、これ以上、泣くのが嫌だった。
『いつかは。だが今は、お前を守るよ。だから、もう泣くんじゃない』
『うぅ…』
年の離れた兄は、いつもあたしを守ってくれた。
あたしも、少しずつ戦術を教わりながら、兄と共に、妖怪達と戦った。
一族殲滅を、狙う妖怪も減っていき。
安穏に、10年が過ぎた。
いや。
安穏であるように、見せかけていたのだ。
妖怪達は、意外な手段で、兄を屠った。
あたしが18の夏――――‐‐‐兄が死んだ。
交通事故だった。
荷物を積んだ、駐車中のトラックがつっこみ、即死。
出棺前に触れた、頬の冷たさが、今も忘れられない。
触れた頬は冷たくて。
白く清められた兄は、別人のようにきれいで。
もう、誰も失いたくない、と思った。
もう、誰も。
悲しい涙を、流さず済むように。
その日、定めと戦うと決めた。
あたしは、その日から始末人になった。
「やだ、やだよっ…独りにしないでっ、あたしを独りにしないでよぉ」
ゆすらは、翡翠の胸に顔を埋めて、声の限りに泣いた。
今まで押し込めていた思いを、全て、吐き出すように。
「泣きたいときは、泣くといい。俺が傍にいるから」
ポンポン、と幼子をあやすように、ゆすらの背中を叩いてやりながら、翡翠は言った。
「温かいよ、翡翠」
「おいコラ、鼻かめ…鼻!ほらティッシュ」
胸板に頬擦りするゆすらに、翡翠は慌ててティッシュを渡す。
「ありがと」
「独りにゃ、しないと思うぜ?だって俺、お前から離れるつもりないし」
心配するな、と伸ばした彼の手を、ゆすらは、するりと除けた。
唇に、柔らかな感触が重なる。
翡翠の目が、大きく見開かれた。
(予想不可能…女ってフシギだ。でも、嬉しいからいいや)
「好きよ、翡翠…あんたが、好き」
ゆすらの手が伸びてきて首にまわり、顔が近づく。
口づけを促すように、ゆすらが目を閉じた。
翡翠は初め、そっと触れるだけのキスをする。
抱き締める腕に力を込めると、ゆすらから甘い吐息が漏れた。
いとおしむように、深く口づけ合い、勢いが余って、二人一緒に床に転げても、互いに離れることはなかった。