さよならから…
口の悪い、でも可愛いウサギ妖怪・翡翠に逢い続けるゆすら。
しかし、二人に別れの時が来た。
次の夜も、ゆすらは一人、ホテルを抜け出して森に来ていた。
「え――――‐‐‐と、あ…いたいた、ウサちゃん」
ゆすらは、木の根本に座る彼を見つけると、頭を撫でた。
「おう、ゆすら…ふあぁ、なんか、持ってきてくれたか?」
昨夜に比べて、かなり縮んだ彼を抱き上げて、ゆすらは尋ねた。
「なんか、サイズダウンしたね、どうしたの?ウサちゃん」
「うっ、ウサちゃん言うなっ、ちゃんと名がある!」
彼は、ゆすらの腕から脱出すると、足を鳴らした。
「名前?そう言えば…知らなかったわね」
「ったく、オレの名は翡翠だ、ヒ・ス・イ、もうウサちゃん言うンじゃねぇっ」
翡翠は、後ろ足で頭を掻きながら、めんどくさそうに言った。
「今のサイズのままなら、可愛いのにねぇ」
「はー…それだが、今日は月が出てないだろう、こういう夜は、妖力が半減しちまうんだよ」
「ふうん、月華を吸ってるんだね」
月華とは、月の光のことだ。
月はすべてに、なにかしら強い影響を与えると言われている。
「ああ。なあ、ゆすら…お前は、旅行者なんだろ?」
「ええ」
「いつまで、ここに来れるんだ?どこから来たんだ?」
小兎の、緑青の瞳が、不安げに揺れた。
「たぶん、今日が最後、明日の朝の便で、日本に帰るわ」
「それまで、ここにいるんだよな?」
翡翠は、寂しそうに、ぺしゃりと両耳を下げた。
「うん」
「いいモン見せてやるっ、ついてこいよ」
「え、あのちょっと、翡翠っ?」
翡翠は、走り出す、ゆすらも後を追った。
森の中を、ひたすら走り、藪を掻き分け、川を渡って、景色が一望できる高台に登った。
辺りはまだ暗く、遠くに、街の夜景が星くずのように、明滅している。
ゆすらは、翡翠を抱きあげる、すると、翡翠はゆすらに顔を寄せてきた。
「翡翠?」
「寒いか?もうすぐ夜明けだ、待ってろ」
「う、うん」
そうするうちに、いつの間にかネオンが消え、空が白み始めた。
「見てろ、明けるぞ」
「うわ…すご、い」
朝焼けが、赤く、世界を染めていく…
生まれたての、柔らかな風が、二人を優しく撫でた。
「だろ?俺な、この瞬間が、一番好きなんだ」
「ありがと、翡翠…いい子ね」
ゆすらに撫でられた翡翠は、気持ちよさそうに、目を細めた。
「照れるぜ…」
「お別れだね、翡翠…短かかったけど、元気でね」
翡翠の茶色い毛皮を、ゆすらの涙がぬらす。
「おいおい、別れってのは、笑ってするもんだぜ?泣くんじゃねー」
翡翠は、ぺろり、とゆすらの頬を舐めた。
「そだね、そうだね…」
ゆすらは、涙を拭いて、翡翠を降ろしてやった。
「行け、もう振りむくなよ?」
「う、うん!」
去っていく、ゆすらの背中を、翡翠は、いつまでも見送っていたのだった。
そうして、ゆすらの中国旅行は、静かに幕を閉じた。
…ように見えた。