片恋
翡翠と引き裂かれ、朱明に攫われたはずのゆすらは…。
翡翠の弟、青蘿に保護されていた。
健気なゆすらに触れるうちに、青蘿は、彼女に想いを寄せ始めていた。
ゆすらは無事に、翡翠と再会することができるのか!?
霊感少女・神崎ゆすらと大食らいで、口の悪い。だけどなぜか憎めない、ウサギ妖怪・翡翠との珍道中。
「いやあぁ‐‐―――――‐‐!?」
びくりと背中がのけぞり、ゆすらは目を見開いた。
汗だくだった。
体中から、冷や汗が噴きだしている。
五体を引き裂かれる恐怖が、ゆすらの中に鮮明に蘇った。
「夢…よかった、夢で。あたしは、妖術にかかっていたのか」
一言、一言、自らに言い聞かせるように、ゆすらは重く呟いた。
「それにしても、なんていやな夢…」
額を押さえて呟いた瞬間、聞きなれた声を聞いて、ゆすらは声の主を凝視した。
「気がついたみたいだね、よかった」
にこりと笑った青年は、翡翠と瓜二つだったのだ。
「ここは?翡翠とそっくりな、あなたは一体」
起きあがろうとしたゆすらは、眩暈を感じて、再びベッドに身を沈ませた。
「ずっと、彼を呼んでいたね…翡翠を知っているの?」
「ええ…よく、知っているわ。ここは、どこ?」
翡翠と瓜二つのせいもあり、ゆすらは警戒を解いていた。
「ここは崋山の麓・広寒宮。俺は青蘿、翡翠の弟だよ。あなたは?」
崋山とは、五神山の一つで、神・神仙の土地だ。
その主・西王母の膝元。
黄兎は、西王母の臣なので、その領域を住まいとしているのだ。
「あたしはゆすら、神崎、ゆすら」
「ゆすら、きれいな響きだね。あまり無体をしない方がいい…ずっと眠ってたんだ」
「どのくらい?」
「十日ぐらいかな…朱明が、血だらけの君を銜えてきたんで、慌てて取りあげたのさ」
朱明、と聞いたゆすらは震えた。
「彼女には、俺たちも困ってるんだ…でも安心して?あいつは、ここに入ってこられないから」
「どうして?」
人懐っこく笑った青蘿に、ゆすらの中に凝っていた塊が、静かに、ゆっくりと溶け始めた。
「結界だよ、あいつだけに聞く術が施してあるんだ」
「‐‐―――…ありがと、助けてくれて」
ゆすらの頬を、つう…と涙が伝った。
「なっ、泣かないでっ…どこか、苦しいの!?」
急に泣き出したゆすらに、青蘿は狼狽する。
ちがう。
辛いんじゃないんだ。
安心、したんだ…彼の優しさに。
暖かい。
ゆるゆると頭を振ると、ゆすらは軽くむせた。
「大丈夫?まだ無体はいけない。さ、横になって…水を持ってこようね。すぐ戻ってくるから」
にこ、と微笑んでから踵を反した彼に、翡翠の面影が重なる。
彼が行ってしまってから、ゆすらの頬を、また涙が伝った。
翡翠…。
翡翠は、一体自分を見て、どう思っただろうか。
幻滅されていたら、どうしよう。
もし、そうなってしまったなら、自分は、そう簡単には立ち直れないだろう。
何があっても、傍にいると言ってくれた彼を信じたい。
もう、一人にはなりたくなかった。
(術中に嵌るなんて、なんと無様な…しかし、どうしてこうなったか、だ)
ゆすらは深い溜息をつくと、ゆっくりと瞼を閉じたのだった。
ゆすらは、少しずつ元の気力を取り戻していた。
まだ、一人にされると怯えたが、今はそれも薄まりつつある。
ゆすらが、青蘿の広寒宮にきて、あっという間に三月が過ぎていた。
広寒宮、とは月の異称。
見わたす城内の壁や調度品、全てが白磁や、漆喰でできていた。
さすが月というだけあって、全てが白や銀で統一されている。
「うぅ…ん」
ゆすらは、すぐ傍に気配を感じて、目を覚ました。
目を開いた瞬間、青い瞳に思いきりぶつかり、慌てて飛び起きてしまった。
「きゃ!」
傍にいたのは、青い目の、銀の兎だった。
しかも、標準よりかなり巨大な。
「様子を見にきたんだけど…脅かしちゃった、かな?」
銀兎が青蘿の声で話し始めたので、ゆすらは、ぱちくりと、一つ瞠目をした。
「青蘿、なの?」
「うん、起き抜けにあっち(人間)の姿でいたら驚くと思って、この姿で来てみたんだけど、逆だったみたいだね」
ペロリと舌を出しておどける彼に、ゆすらはくすくすと笑った。
「優しいのね、ありがと」
そっと頭を撫でたゆすらの手に、青蘿は嬉しそうに目を細めた。
「照れるな…。あ、具合はどう?痛いところはない?」
「大丈夫よ、おかげさまで。青蘿のくれた仙水は、よく効くわね」
青蘿は嬉しそうに、一度ぴょんと跳ねると、人の姿になる。
「ねぇゆすら、庭に出てみない?」
華奢な、ガラスの小瓶に入った仙水を飲んでいたゆすらに、青蘿はそっと誘いかけた。
「庭、があるの?」
「行ってみるかい?」
彼は、あくまでも強制はしないつもりのようだった。
「ええ…見てみたいわ、連れて行ってくれる?」
そう答えたゆすらに、ぱああ…と明るくした青蘿。
兄同様、まだ幼さを残す横顔に、ゆすらは見とれた。
「こっちだよ、ついておいで」
白い廊下を抜けて、同じような作りの建物の中を、やっと通り抜けると急に、視界が開けた。
「ここが、俺の庭。いくらきれいに整えても…一人で見るのは、どうにも味気なくてね」
本当に嬉しそうに笑う青蘿に、ゆすらは口元をほころばせる。
よく刈りこまれ、手入れされた庭。
泉が沸いて、魚が遊び。
さまざまな花が、咲き乱れては芳香を放ち。
果樹は、たわわに成った果実に、枝をしならせている。
「きれい…まるで、楽園ね」
ゆすらは、うっとりと目を細めた。
青蘿は、そんな彼女に、淡い想いを寄せ始めていた。
兄の恋人とは、分かっている。
これは、してはいけない事だ。
そんなこと、とっくに分かっているのに…。
俺、彼女が好きだよ。
傷つけたくない。
だけど、きっと俺は…彼女を傷つけるだろう。
どうしたらいい?
どうすれば、彼女は泣かなくなるんだろう?
「ずっと、ここにいない?」
風が、ひとしきり木々を揺らしていく。
青蘿と、ゆすらの髪が、しなやかに風に遊んだ。
「嬉しいけど、それは無理なのよ…あたし、人間だもの」
ふと、悲しそうに表情を崩したゆすらに、ちくりと、青蘿の心が揺れた。
時が‐‐――――――‐‐違いすぎるのだ。
人間にはあって、翡翠にはないもの。
それは、時間の限界。
変えられない、事実。
やはり、身の程知らずだったんだろうか?
でも、それでも、あたしは翡翠を愛している。
一緒にいられるときが違っても、いられるだけ、傍にいたい。
お願い、神さま…。
彼を、愛せる勇気をください。
「泣かないで、ゆすらは…兄さんのことで苦しんでるのに、ゆすらを苦しませる兄さんなのに…それでも、ゆすらはあいつが好きなのか?」
顔をあげると、青蘿に、きつく抱きすくめられていた。
「アイツね、あたしが怖くないって、言ってくれたの。始末人のあたしなのにね…。態度がでかくて、口も悪くて大食らい…でもね、そんなアイツが、あたしはどうしようもなく好きなのよ」
「始末人、って?」
「害をなしたモノを、人知れず始末するのよ。たくさん、たくさん殺してしまった」
この身に浴びた血は…消えずに、心の奥底にこびりついて離れない。
ゆすらは、無意識に拳を握りしめる。
「ゆすらは、その仕事がいやなんだね?」
「だけど、もう…どうにもならないわ。あたしは、汚れすぎてる」
「ねえ、どうしても兄さんじゃなきゃ、だめ?」
きつく、唇をかみしめて俯いたゆすらを、青蘿は切なげに見つめた。
「え?」
潤んだ青い瞳に見つめられ、ゆすらは赤くなってしまった。
浅はかなのは、俺も同じだ。
一時だけでも、彼女の傍にいたいと思ってしまった。
兄さんは、絶対ここに、ゆすらを迎えに来るだろう。
その時が来るまで、せめて愛させて欲しい。
「たとえ一時だけでも、俺はゆすらが好きだ。行かないでくれよ」
「青蘿…」
吹きぬけた柔らかな風に、青蘿の銀髪が、流れて揺れた。
ゆすらは、花の合間をひっきりなしに走り回る、子兎たちを見つけて微笑んだ。
「見て…あの子たち、隠れん坊でもしているのかしら?」
「…みたいだな。あいつらも、俺の弟なんだよ?」
「ずいぶん、年が離れてるんじゃない?」
きょとん、と首を傾げたゆすらに、青蘿はそっと口づけてから笑った。
「まぁね、俺たちは兄弟が多いからな…あいつらは一番下の奴らだよ」
「かわいいわね…あの茶色の子、翡翠にそっくり!」
ゆすらが指をさしたのは、つやつやとした茶色の毛並みを、一生懸命に毛繕いしている子兎だった。
「あいつは緋呂っていうんだよ…それより、こんな時ぐらい…兄さんの話なんかしないでおくれ」
抱き締める青蘿の腕の中で、ゆすらは遠くを見つめる様な、複雑な目をしていた。
「青蘿、苦しいわ?」
「ゴメン、出来心だ…。あいつら呼んでくるから、待ってて」
青蘿の背中を見送ると、ゆすらは一筋、溜息をついた。
「気持ちは嬉しいけど、あたし…あなたに応えてあげられない。あなたを、傷つけちゃう」
ゆすらは、頭を抱えて屈みこんでしまう。
そんな時、しゃがんだゆすらの足元の茂みが、かさかさと動いた。
頭をのぞかせたのは、先にゆすらが、かわいいと言って、指さした子兎だった。
「おねえちゃん、おねえちゃん?」
「え?」
ゆすらが顔をあげると、茶色の子兎が、小さな前足を一生懸命に伸ばして、ゆすらを見つめていた。
「悲しいの?どこか痛いの?」
ゆすらが、涙を拭ってから首を振ると、子兎は、手に頬ずりをしてから人の姿になった。
「泣かないで、おねえちゃん…」
緋呂は、おろおろとゆすらの周りを右往左往する。
「ありゃ…見当たらないと思ったら、先に来てたのか」
その声にゆすらが振りむくと、腕いっぱいに子兎たちを抱いた、青蘿が立っていた。
「兄さん、お願い、おねえちゃんの傍にいてあげて?僕じゃダメなの、だから…」
緋呂はぐいぐいと、青蘿の手を引いて、ゆすらの手と握りあわせる。
「おねえちゃん、僕もね…時々、おねえちゃんみたいになるの。そしたらね、必ず『負けるな』って、誰かが傍にいてくれるんだ。だから、おねえちゃんも、絶対ひとりぼっちじゃないよ。もう泣かないで?」
「ありがとう、いい子ね…」
「えへへ…おねえちゃん、お母さんみたいだぁ」
にっこりと笑ったゆすらと、一緒に緋呂も笑った。
儚げに笑う彼女に、意を決したように、青蘿はゆすらを抱き上げた。
いわゆる、『お姫様だっこ』である。
「せっ、青蘿!?おろして…くれる?」
居心地の悪さに加えて、恥ずかしさが急激に増していく。
「ダメだよ、離してあげない」
真っ赤になりながら、じたばたともがくゆすらに、青蘿は貪るようなキスをした。
「兄さん、このお姉ちゃん、だぁれ?兄さんのお嫁さん?」
興味津々に尋ねてくる弟たちに、ゆすらは慌てる。
「あ、あたしは違うのよ…翡翠のっ」
そこまで言いかけたゆすらの言葉は、おどけた青蘿の声に、すっかりかき消されてしまった。
「兄さんも、まだ来そうにないし…俺が貰っちゃおうかなぁ?」
「ちょっ、ちょっと青蘿?」
ゆすらは、慌てて弁解を試みるが。
「兄さん、翡翠兄から略奪するの?」
「略奪愛だねっ、うわぁ泥沼〜…」
とかなんとか…。
子供のクセに、なぜか非常に世辞慣れている彼の弟たちに、ゆすらは強く額を押さえた。
口を、はさむ余地がないっ!
「きゃ…」
急に、銀兎に戻った青蘿に押し倒される形で、白銀色の月光花の群れに、倒れ込んでしまった。
銀の光を散らして、花びらが散る。
「ゆすら…」
ペロリと頬を舐められ、ゆすらは青蘿を見た。
自然と頬が赤く染まる。
それに負けじと、子兎たちもが彼女に群がった。
「兄さんだけずるい、僕たちも、お姉ちゃんにだっこして欲しいの〜」
「ゆすら、俺…保証できないよ、やっぱり。君が好き」
「ダメ。分かってるでしょ?あたしは、あの人しか、愛せない。だから…」
辛そうに絞りだしたゆすらは、ふい…と顔を逸らした。
「いやだ!俺は、本気だよ?迎えが来てしまうまで、それまででもいい。せめて、それまで君を愛させてくれ」
彼の、剣幕に驚いた子兎たちが、ゆすらにきつく身を寄せた。
「あたしも…あなたが、ううん、ここにいてくれる、あなた達みんなが好きよ。だけどね、違うのよ…『好き』と『愛してる』は」
loveは、likeとは違う。
似ているけど、まったく別の感情。
「そっか…そうだよね。俺、悔しいけど君を諦めるよ…な〜んて、言うと思ったら大間違い」
くるりと歪んで、青蘿は人の姿に戻る。
「え?」
満面の笑顔で破願した彼に、全体のテンポが一拍、いや二拍以上がずれた。
「俺は気が長いからね、気長に待つさ…。ったく、兄さんもずるいなぁ、こ〜んな美人の彼女がいて」
「やめてよ、おだてたってムダなんだから」
言うがしかし、げらげら笑いなので、まったくもって、説得力がないのだった…。