第42話 『あいつ』の現在
鉄格子が並ぶ薄暗い回廊に、靴音が響いていた。
天井から吊るされた燭台の炎が揺れ、歩くたびに壁の影が形を変える。
重厚な扉の前には、数人の衛兵が控えていた。
近づいてくる人物を認めると、一斉に敬礼して道を開ける。
「ご報告します、アリス様」
扉を潜った先の部屋は、意外なほど簡素だった。
装飾品はほとんどない。
大きな書斎机と、壁一面を埋め尽くす書架。
机上には分厚い報告書が積まれ、その脇で幾つもの水晶が淡い紫色の光を放っていた。
椅子に座っていた少女が、顔を上げる。
アリス・ルノワール──アッシュブロンドの髪が肩から滑り落ち、エメラルドグリーンの瞳が来訪者を捉えた。
「ご苦労様でした、ミリウスさん。無事に戻られて何よりです」
「恐れ入ります」
ミリウスは一礼し、机の前へ進んだ。
携えていた書類を置く。
アリスはそれを受け取り、最初の頁へ目を落とした。
「まず、エアハートの件について。エルドリックは死亡。王都での混乱は収束に向かっています。帝国と繋がりのあった者たちについても、拘束と追跡が始まりました」
「クロフォード王国の対応は?」
「復興支援と情報収集を優先しています。ただし、帝国への警戒は明らかに強まりました。以前のような友好的な接触は、今後難しくなるかと」
アリスは頁をめくる。
国交の悪化にも、エルドリックの死にも、表情を変えなかった。
「紋章の記録は?」
「回収できた分は、こちらに。肉体の変異と魔力の増幅については、想定に近い結果が得られています。ただ、最終的には肉体と紋章の双方が不安定となり、生命維持が困難になったようです」
「……なるほど」
アリスの指が、ある一行で止まる。
「やはり、力を取り込ませるだけでは不十分ですね」
「定着の問題でしょうか」
「ええ。器に収まらない力を注げば、壊れるのは当然です。ましてや、異なる性質のものを無理に繋いでいるのですから」
淡々とした声音だった。
一人の人間がどのような最期を迎えたかではなく、どこで不具合が起きたかを確かめている。
「とはいえ、ご本人も望んでいらしたことです。最後まで協力していただけたことには、感謝しなければなりませんね」
ミリウスは何も答えなかった。
アリスは書類を脇へ置くと、別の報告書へ手を伸ばした。
その表紙に記された名を見た瞬間、彼女の口元が僅かに緩む。
「それで……こちらは?」
「ミナト・クロフォードについてです」
ミリウスは姿勢を正した。
「魔力量は、依然として計測不能。私はこの目で、彼が現国王アルドルフ・クロフォードを打ち破る光景を確認いたしました」
「ふふ……」
小さな笑い声。
先ほどまでとは、明らかに反応が違った。
「そうですか。あのアルドルフ様を」
「はい。途中まではアルドルフが優位でしたが、彼は負傷した身体を自ら修復し、戦闘を継続されました。その後、特殊な魔力塊を形成。相手を強制的に引き寄せ、至近距離から決着をつけています」
アリスの指が止まった。
「……修復?」
「流出した血液を身体へ戻し、傷口を塞いでいました。一般的な治癒とは、少々異なるように見受けられます」
数秒、沈黙があった。
やがてアリスは、堪えきれないとばかりに口元を押さえた。
「……本当に、勉強熱心な方ですね」
何かを思い出したような笑い方だった。
ミリウスがその表情を窺うと、アリスはすぐに続きを促す。
「魔力塊の方は?」
「魔力を一点へ収束させ、周囲の物体や相手の身体を吸引するものと思われます。ただ、詳細な原理は不明です。ご本人も、まだ実験段階だと仰っていました」
「実験段階……?」
「制御は難しいようでした。少なくとも、あの時は吸引以外の用途は確認できていません」
報告書を読むアリスの目が細くなる。
興味を持っている。
それは間違いない。
だが、その関心は技術そのものへ向けられたものなのか。
それとも、それを作り出した少年へ向けられたものなのか。
ミリウスには、もう区別できなかった。
「その後のエアハートでの戦闘も含めると、彼の能力は短期間で変化しています。以前に確認した戦力が、次もそのまま通用するとは考えない方がよろしいかと」
「……なるほど」
アリスは、楽しそうに頷いた。
それを見て、ミリウスは言葉を選び直す。
「アリス様」
「はい?」
「あれは……危険です」
ミリウスは声を落とした。
「単純な魔力量だけの話ではありません。見たものを自分なりに取り込み、別の形で再現する。しかも、その試行を可能にするだけの魔力がある。今の時点でも、私では対処できません」
机上の燭火が揺れた。
アリスは何も言わず、ミリウスを見つめている。
「今後、さらに未知の技術を得た場合、我々の想定そのものが意味を失う可能性があります」
言い終えてから、ミリウスは自分の指が僅かに強張っていることに気づいた。
荒野で膨れ上がった、巨大な魔力の塊。
その引力から逃れられず、引き寄せられていくアルドルフの巨躯。
もしもあれが、自分へ向けられていたら。
どう避ける?
どう防ぐ?
考えても、確かな答えは出なかった。
「ふふ……そう怯えることはありません」
アリスは報告書を閉じた。
「確かに、今のわたしでは、正面から彼に勝つことは難しいでしょう。それは分かっています」
「でしたら──」
「でも、それとわたしの望みは、別のお話です」
椅子から立ち上がり、窓際へ歩み寄る。
眼下には帝国の街並みが広がっていた。
城下町の喧騒も、この高さでは遠い。
「強い方ですよね。邪魔をする相手がいれば退けられる。大切なものが危険に晒されれば、守ることもできる」
窓硝子に、少女の微笑みが映った。
「……だからこそ、見ておかなければ」
アリスが振り返る。
「彼が何を守ろうとするのか。誰の声なら振り向くのか。どこまでなら、無視していられるのか」
ミリウスの背筋に、冷たいものが走る。
アリスが興味を持っているのは、倒すための隙だけではない。
あの少年が誰を大切にしているのか。
その事実そのものを、確かめたがっている。
「彼の周りの人間関係を、引き続き探ってください。特に──女性関係について」
「それは、必要に応じて排除しろと?」
「いいえ」
即座の返答だった。
「今はまだ、勝手に手を出さないでください。誰か一人いなくなれば済む話ではありませんし、下手に警戒されれば、あなたまで傍にいられなくなってしまいます」
「……承知しました」
「彼が何を話して、どんな顔をしているのか。それを知りたいんです」
アリスは机へ戻り、報告書の表紙を指で撫でた。
「知らないところで、勝手に遠くへ行かれては困りますから」
穏やかな声だった。
それなのに、ミリウスは目を逸らせなかった。
「ですが、アリス様。もし彼が、既に誰かと特別な関係に──」
「ミリウスさん」
声が重なった。
大きな声ではない。
ただ名前を呼ばれただけで、続きが喉へ引っかかった。
「……はい」
「その時は、事実だけを報告してください」
アリスは笑っていた。
「どうするかは、わたしが決めます」
ミリウスは静かに頭を下げる。
「……全ては、アリス様の御心のままに」
これ以上は踏み込むべきではない。
そう判断した自分の中に、安堵があった。
あの少年がどれほど強くても、今、目の前の少女へ異を唱えることとは、別の恐ろしさがある。
アリスは満足したように頷いた。
「では、もう一つ。こちらもお願いします」
机上の水晶玉へ手をかざす。
淡い紫色の光が内部で渦を巻き、やがて一つの映像を結んだ。
建物の陰。
黒いフードを深く被った、小柄な少女。
僅かに覗く白い髪と、真紅の瞳。
ミリウスの表情が変わる。
「……これは」
「純血の『吸血鬼』です。現在、存在を確認できている最後の一人」
アリスは水晶の表面をなぞった。
「……彼女がミナト様と接触すると、お考えですか?」
「可能性はあります。少なくとも、彼女の側が彼の存在を無視できるとは思いません」
アリスは楽しそうに目を細める。
「ミナト様は、身分や種族だけで人を判断する方ではないのでしょう?」
「……はい。ですが、だからといって協力するとは限りません」
「もちろんです。ですから、確かめていただきたいんです」
断定はしない。
その代わり、起こり得る接触を一つも見逃したくないという響きがあった。
「もし彼女が近づいてきたら、その目的を調べてください。それから、可能であれば血液か、身体の組織を少し」
「採取、ですか」
「ええ。生きた純血の試料は、ほとんど手に入りませんから」
アリスはエルドリックの報告書へ視線を移した。
「異なる魔力を受け入れても、長い年月、形を保ち続ける身体。その仕組みが分かれば、紋章の定着にも使えるかもしれません」
「純血そのものを確保する必要は?」
「今のところは、ありません。ごく少量でも反応が残っていれば、調べられることはあるでしょう」
小さな硝子管が、机へ置かれた。
内部には何も入っていない。
口を封じる金具に、微細な紋様が刻まれていた。
「採取できたものは、混ぜずに別々に保管してください。純血以外にも珍しい反応が見つかったら、そちらも報告を」
「承知しました」
ミリウスは硝子管を受け取る。
ただ、疑問は残っていた。
「アリス様。先ほども申し上げましたが、彼と正面から衝突することは──」
「分かっています」
遮る声は、まだ柔らかかった。
アリスは机上の水晶を一つ持ち上げる。
その内部から伸びた細い光が、空中に小さな紋章を描いた。
「何の備えもなく、会いに行くつもりはありませんよ」
指先を離す。
紋章が消えた。
だが、水晶の中の光は失われていない。
アリスがもう一度指を動かすと、同じ紋章が何事もなかったかのように空中へ浮かぶ。
ミリウスは、その光を見つめた。
何をどこまで可能にする術なのか。
自分には、全てを教えられていない。
「……承知しました」
それ以上は尋ねなかった。
アリスは水晶を戻し、薄く笑う。
「怖い顔をされていますね」
「慎重であるべき相手だと、考えているだけです」
「ええ。そこは、あなたを信頼しています」
その言葉が、本心なのか。
それとも、異論を終わらせるためのものなのか。
ミリウスには判断できなかった。
「彼の力を軽んじるつもりはありません。でも──」
アリスの視線が、報告書の名へ落ちる。
「どれほど強くなっても、彼が誰を気にかけ、何を恐れているかは、別のお話でしょう?」
ミリウスは口を閉じた。
アリスは、微笑みを深める。
「わたしは、それを忘れさせるつもりがないだけです」
室内が静まり返った。
やがて、ミリウスは深く一礼する。
「では、引き続き任務を遂行いたします」
「ええ。よろしくお願いします」
扉へ向かいかけたところで、もう一度呼び止められた。
「ミリウスさん」
「……はい」
「彼女が、もしミナト様と親しくしていたら」
アリスは笑っている。
声も、穏やかなままだ。
「その様子も、詳しく教えてくださいね?」
ミリウスは僅かに息を止めた。
「……承知しました」
重厚な扉が閉ざされる。
靴音が遠ざかり、室内には再び静寂が戻った。
◇
「ふふ……」
アリスは報告書を開き直した。
ミナト・クロフォード。
指先が、その名をゆっくりとなぞる。
魔力障壁。
身体の修復。
圧縮した魔力による吸引。
そして、アルドルフをも打ち破った戦闘能力。
「すごいね、兄さん」
誰もいない部屋へ、甘い声が落ちた。
「そんなに強くなって……まだ、足りないんだ?」
返事はない。
それでもアリスは、答えを知っているかのように微笑んだ。
兄が何のために強さを求めたのか。
自分に対し、どのような感情を抱いているのか。
分からないわけではない。
あの時、向けられた拒絶も。
震えていた身体も。
自分を殺すと告げた声も、全て覚えている。
「……忘れられなかったんだよね?」
目を細める。
十五年もの間、新しい身体を得ても。
新しい家族に囲まれても。
別の名で生きていても。
兄の中から、自分は消えていなかった。
だから、あれほど怒った。
だから、あれほど震えた。
「ずっと、わたしのことを考えてくれていた」
アリスは報告書を胸元へ引き寄せた。
その横で、水晶玉が淡く輝いている。
黒いフードを被った少女の姿が、まだ内部に残されていた。
アリスは、そちらへ視線を向ける。
「……あなたは、何を欲しがっているんですか?」
真紅の瞳が、こちらを見返している。
もちろん、映像に過ぎない。
返事などあるはずがなかった。
「それとも──誰かに助けてもらいたいんですか?」
しばらく、少女の姿を眺めた。
やがて、アリスの口元から笑みが薄れる。
「……兄さんは、優しいから」
だから、困っている誰かがいれば手を伸ばす。
関係ないと口にしながら。
面倒だと言いながら。
結局は、放っておけない。
前の世界でも、そうだった。
「勘違いしないでくださいね」
囁く。
「助けてもらったからといって、そこがあなたの居場所になるわけではありませんから」
水晶の中で、少女の輪郭が揺れた。
アリスの指先から流れた紫色の光が、その映像を崩していく。
白い髪も。
紅い瞳も。
黒いフードも。
やがて全てが霧散し、水晶玉は何も映さなくなった。
「……あぁ。まだ、何もしていないんでしたね」
小さく笑う。
自分を宥めるように、水晶から手を離した。
「大丈夫です。ちゃんと待ちますよ」
机の端には、先ほど空中へ紋章を描いた小さな水晶が置かれている。
その光は、安定していた。
修復も。
接続も。
いざという時の切り離しも。
準備は、進んでいる。
「今度は、自殺なんてさせませんから」
アリスは報告書を閉じた。
自分を置いて、先に逝ってしまった兄。
ようやく、同じ世界へ戻ってきた。
今度こそ、見失わない。
どこへ行っても、見つける。
「待っててね、兄さん」
鈴のような笑い声が、静かな書斎へ零れた。
「次は、もっとちゃんと──わたしを見てもらいますから♪」
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。
4章は終わり、次回からは5章で新ヒロインも加わります。
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