油まみれの廊下は、ダンスフロアも同然です
続きは明日の予定です。
一方その頃。
私が「婚約者候補筆頭」に指名されたと知ったエドワード殿下は――
自室の床を転げ回っていた。
「勝手に決められた婚約なんて認めない!!」
クッションを投げる。
枕を蹴り飛ばす。
最後にはベッドの上で暴れ回る始末。
「あの説教女!! 自分から辞退すると泣いて縋るまで、徹底的にいじめてやる!!」
勢いよく振り返る。
部屋の隅で静かに立っていた少年――側近のカイルを指す。
「おいカイル! 今すぐ廊下に撒くための油を用意しろ!」
カイルは静かにため息をつく。
「殿下。そのような幼稚な真似はおやめください」
「うるさい!」
「リリアーナ様に嫌われるだけですよ」
「嫌われるためにやるんだ!!」
殿下は指を突きつけた。
「さっさと油を持ってこい!」
「お断りします」
カイルはきっぱりと言う。
「ヘイワード侯爵家の名誉にかけて、そんな不名誉な手伝いはできません」
「ふん!! いいよ!」
殿下は顔を真っ赤にした。
「お前がやらないなら僕が自分でやる!!」
数日後。
私は「交流」という名目で王宮へ呼ばれた。
書庫へ続く廊下を歩いていると、柱の陰に見覚えのある金色の髪がちらりと見える。
その足元には――油。
そして殿下の手や服は、見事なほどベタベタ。
(……殿下、自分で撒いたのね。なんて一生懸命な嫌がらせ)
どうやら私を転ばせるつもりらしいが、本人の方が先に油まみれになっているあたり、少しだけ微笑ましく思えてしまう。
私はドレスの裾をほんの少しつまむ。
淑女教育で叩き込まれた身のこなしを思い出しながら、練習した身体強化魔法を使い、足元を軽く滑らせるようにステップを踏み、油の部分を避けながら廊下を進む。
「あら、殿下」
私はにっこりと微笑む。
「お掃除をお手伝いされていたのですか? とても綺麗になっていますわね」
「な、なんだその動きは!?」
柱の陰から飛び出してきた殿下の目が大きく見開かれる。
「貴族の令嬢がそんな……っ!」
どうやら想定外だったようで、言葉が続かない。
その横で、慌ててこちらへ駆け寄ろうとしたカイル様が――
「わ、わああぁぁ!」
見事な滑りっぷり。
勢いよく廊下を滑ってきて、私の足元でぴたりと止まる。
「……カイル、お前は何をやっている!」
「殿下……す、すみません……」
顔を真っ赤にしたカイル様が慌てて頭を下げる。
「リリアーナ様、お見苦しいところを……」
私はその場に膝をつき、ハンカチを取り出してこっそりと浄化魔法を掛け、カイル様の服についた油をそっと拭き取る。
「お怪我はありませんか?」
「……!」
カイル様は驚いたように目を見開く。
「そんなに悲しいお顔をしないでください」
私は小さく笑う。
「これくらい、私はへっちゃらですわ」
そして殿下の方へ視線を向ける。
「……殿下も、ご自分で準備されるなんて。本当にお疲れ様です」
殿下は言葉を失っていた。
怒られると思っていた。
泣くと思っていた。
なのに。
彼女は――笑っている。
しかも、どこか楽しそうに。
しばらく沈黙が落ちたあと、殿下は顔を真っ赤にした。
「……っ、もういい!」
突然、強い声が廊下に響く。
「今日はこれで終わりだ! 解散!」
そして苛立ったように周囲を見回す。
「誰か! 侍女と従者を呼べ! この油を全部片付けさせろ!」
近くにいた侍従が慌てて頭を下げ、廊下の奥へ走っていく。
ほどなくして数人の侍女たちが布や桶を抱えて駆けつけ、床に広がった油を拭き取り始めた。
その様子を一瞥したあと、殿下はくるりと背を向ける。
「……カイル、行くぞ」
「はい、殿下」
私はその場で軽く礼をしながら、殿下の背中を見送った。
廊下を去りながら、エドワードは納得がいかないという顔でぶつぶつと呟く。
「……なんなんだよ、あいつ」
怒鳴るほどでもない、小さな声。
もう廊下の向こうには姿も見えないというのに、エドワードはしばらくその方向から目を離せない。
そして小さく舌打ちすると、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「……次は、絶対泣かせる」
そう言いながらも――その声はどこか、さっきまでの怒鳴り声とは違っている。
まるで、自分でも理由が分からない何かに引っかかっているような、不思議な響きを帯びていた。
(普通、嫌がらせされたら怒るだろ……)
エドワードは眉をしかめた。
あの銀髪の少女は怒りも泣きもせず、楽しそうに油の廊下を歩き抜け、転んだカイルを気遣い、最後には自分にまで「お疲れ様です」と言って笑っていた。
思い通りにならない相手に出会ったのは、これが初めてだ。
胸の奥が、妙にざわつく。
エドワードはもう一度だけ、少女が去っていった廊下の方を振り返った。
けれどそこには、もう誰の姿もない。
「……ちっ」
小さく舌打ちすると、エドワードは再び歩き出した。
その隣で、カイルは静かに先ほどの光景を思い返していた。
油の廊下を軽やかに歩き抜けた少女。
転んだ自分に迷いなく手を差し伸べ、ハンカチで服の汚れを拭いてくれた優しい手。
(……不思議な方だ)
普通なら怒って当然の場面だったはずなのに、彼女はそれをまるで遊びのように受け流していた。
気づけばカイルは、もう一度彼女と話してみたいと思っている自分に気づく。
なぜそんなことを思ったのか――まだ自分でもよく分からない。
ただ胸の奥に、小さな引っかかりだけが残っていた。
2話に分けたにも関わらず結局長くなってしまいました…
読んでいただき、本当にありがとうございます!
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まだまだ慣れないので、誤字脱字などあれば「ここ違うよー!」とコメントで教えていただけると助かります!
よろしくお願いします!




