公爵邸の賑やかな午後
続きは明日の予定です。
その夜、アルヴェルト公爵邸は深い静寂に包まれていた。
廊下には人の気配はなく、壁に灯された魔導灯の光だけが、規則正しく床にオレンジ色の輪を落としている。
その静寂の中――。
一人の騎士が、影のように佇んでいた。
柱の陰、誰の視界にも入らない絶妙な位置。
彼の任務は単純にして重要。
この客間に滞在している少年エルの“見守り”
実質的な監視である。
(……異常なし)
騎士は一度、そう判断しかけてわずかに眉をひそめた。
ほんの一瞬、意識の端に冷たい風が吹いたような気がしたのだ。
窓は閉まり、結界も正常。
気のせいと言えば、それまで程度の違和感。
騎士はそのまま数分間、石像のように耳を澄ませたが、やがて小さく息を吐いた。
(……考えすぎか。閣下から『一秒でも目を離すな』と直々に命じられているからな。こちらの神経が尖りすぎているらしい)
騎士は再び、何事もなかったかのように鋭い視線を扉へと戻した。
――その扉の向こう。
エルは、ふかふかのベッドの上で目を開けていた。
(……またか)
胸の奥。
もっと内側。
言葉にできない「何か」が、泥のようにゆっくりと動いている感覚。
痛みはない。
ただ、自分の身体が自分のものではないような、落ち着かない不快感。
「……はあ」
短く息を吐く。
原因も、意味も分からない。
それでも、しばらくじっとしていると
――ふっと、その感覚は消えた。
最初からなかったかのように。
(……なんなんだよ、これ)
呟くように独り言を漏らし、エルは再び目を閉じる。
考えても分からないことに、リソースを割くほど彼は勤勉ではない。
そのまま、静かに意識を眠りへと沈めた。
同じ頃。
執務室では、ヴィンセントが山積みの書類に目を通していた。
ペンを走らせ、淡々と処理を進めていく。
だが、ふと彼の手が止まった。
「……」
一瞬だけ、思考が途切れた。
理由はない。
不審な報告があったわけでもない。
ヴィンセントはそのまま数秒、静かに考え――。
「……いや。気にするほどのことではないか」
小さく首を振り、再び書類へ視線を落とした。
公爵の指先が、何事もなかったかのように再び動き出す。
彼が何に対して「いや」と否定したのかは、深淵のようなその瞳の奥にのみ隠されていた。
翌朝。
柔らかな光が、私の部屋に差し込んできた。
ゆっくりと目を開けると、体の重さはほとんど感じない。
(……うん、完璧! これならフルマラソンでもできそうだわ)
上体を起こし、軽く息を整える。
そのとき――。
「リリアーナ! 起きているかい!? お父様だよ!」
扉が開くと同時に、お父様が輝くような笑顔で入ってきた。
「おはよう、リリアーナ。……ああ、今日も天使のように愛らしい。顔色も良いね、それだけでお父様は世界を救える気がするよ」
流れるような動作で私の額に触れ、満足げに頷くお父様。
「おはようございます、お父様。ええ、とても調子がいいですわ」
「それは何よりだ。ああ、リリアーナの笑顔だけでお父様は一日中幸せだよ」
ほっとしたように息をつき、それから少しだけ、わざとらしく困ったような表情を作った。
「それで実はな、リリアーナ。少し面倒な……いや、客人の話があるんだ」
「客人、ですか?」
「ああ。王太子殿下――エドワード殿下から、正式にお見舞いの申し出があった。リリアーナが元気か改めてこの目で確認したいと、しつこ……失礼、熱心に仰っていてね」
「殿下が……」
殿下とは地下で救出された時と、その後の病室で少し会っただけだ。
あんな大変なことがあった後だもの、心配してくださっているのかしら。
「すぐではない。お前の体調を見て、無理のない日に調整しよう。もちろん! 『まだ安静が必要ですので、十年後くらいにまた来てください』と丁重にお断りする準備もできているよ」
「ふふ、お会いしたいですわ、お父様。殿下のお顔も拝見したいですし」
迷いなく答えると、お父様は一瞬だけ「ぐぬっ」と目を細め、やがて小さく息を吐いた。
「そう言うと思ったよ……」
どこか諦めたようで、それでいて柔らかい声音。
「では、そのように手配しよう。ただし、時間は三十分……いや、十五分だ! それ以上はリリアーナの脳細胞が疲弊してしまう」
「十五分は短すぎますわ」
「……三十分で妥協しよう。それと、エルも同席させることにした」
「エルもですか?」
「ああ、見舞いなんだ。顔を合わせておくのが当然だからね。……決して、リリアーナと王太子殿下の仲を深めたくない訳では無いよ?」
バレバレの言い訳に、私は思わず笑みがこぼれた。
「楽しみですわ。皆様とお会いできるなんて」
そして、数日後。
公爵邸の豪華な応接室。
整えられた空間の中で、私は一歩ずつ足を進めた。
「リリアーナ様、王太子殿下がお見えになりました」
「ええ、今行くわ」
扉の前で一度呼吸を整える。
そして、静かに開かれた。
「リリアーナ!」
真っ先に立ち上がったのは、エドワード殿下だった。
「殿下、ご無沙汰しております」
「ああ、よかった……! しっかり回復したようで、本当に安心した」
思わずといった様子で言い切ってから、背後のお父様のに気づいたのか、はっとして姿勢を正した。
「……コホン。ああ、リリアーナ、悪化していないようで何よりだ」
「ご心配をおかけいたしました」
やわらかく返すと、隣でカイル様も決壊したダムのように安堵の表情を見せた。
「リリアーナ様、本当に……。僕も殿下も、毎日あなたの快復を祈っておりました」
「ありがとうございます、カイル様。お二人の祈りが届いたのですね」
穏やかな空気が流れる。
――と、そこへ。
「……失礼します」
少し遅れて、奥から低い声がした。
エルだった。
公爵邸の執事たちに磨き上げられ、ピシッと整えられた少年服を着た彼は、どこかのお坊ちゃまのような立ち姿だ。
「……本日は、お越しいただきありがとうございます」
わずかにぎこちないが、見事な礼法。
エドワード殿下が一瞬だけ目を丸くし、まじまじとエルを見つめる。
「……おい。……エル、だよな? 雰囲気が変わりすぎて、別人のようだぞ」
「……閣下に『一文字間違えるごとに庭の草むしり一時間だ』と言われておりまして、必死に直しております」
エルのぶっちゃけ発言に、カイル様が「可哀想に……」と遠い目をして頷いた。
「でも、元気そうでよかった。君の……その、頑張りも聞いていたからね」
殿下が少し照れくさそうに言うと、エルも軽く視線を逸らしながら「……ありがとうございます」と短く返した。
五歳と十歳。
立場も育ちも全然違うけれど、そこにはあの修羅場を越えた者にしか分からない、独特の空気感がある。
「ふふ、これで皆様揃いましたわね。お菓子とお茶を用意させましたの。たくさんお話をいたしましょう?」
私が微笑んで促すと、張り詰めていた空気は一気に和らいだ。
お父様は部屋の隅で「リリアーナの周りに男ばかりが増えていく……! これが王国の危機か……!」とブツブツ呟いているけれど、それは無視することにしよう。
「さあ、カイル様も。このお菓子、新しく作らせたのですわ」
「わぁ、ありがとうございます!」
「……俺の…私の分も用意していただいたのですか?」
「もちろんよ、エル」
ぎこちなさを残しながらも、笑い声の絶えない再会の時間がゆっくりと動き出す。
窓から差し込む陽光は、ただ穏やかに、賑やかな少年少女たちを照らし出していた。
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