公爵邸の休息と客人
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王城の重厚な正門をくぐり、公爵家の紋章が刻まれた馬車が静かに王都の喧騒を走り抜ける。
車窓から流れる景色が、石造りの冷たい壁から、手入れの行き届いた並木道へと変わっていく。
やがて、白亜の公爵邸がその威容を現し、巨大な鉄製の門をくぐった瞬間。
私の胸の奥に、澱のように張り付いていた緊張の糸が、ふっと音を立てて緩んだ。
見慣れた広大な庭園。
色彩豊かに整えられた花壇。
そして、入り口に規律正しく、けれどどこかそわそわとした様子で並ぶ使用人たち。
(……帰ってきた。本当に、戻ってこれたのね)
そう実感した途端、どこか現実味のなかったここ数日の出来事が、一気に手元へ手繰り寄せられる。
馬車が車寄せに止まると、先に降りた父、ヴィンセントが当然のような顔をして、恭しく手を差し出してきた。
「リリアーナ、おいで。足元に気をつけるんだよ。万が一にも転んで、その白い膝に傷でもついたら、お父様は悲しみのあまり寝込んでしまうからね」
「大丈夫ですわ、お父様。もう元気ですもの」
「いいや、大丈夫じゃない。淑女というものは、常にエスコートを受けるべきだし、何より今は『病み上がり』という特権がある。さあ、遠慮せずに私に寄りかかりなさい」
一切の反論を許さない、有無を言わせぬ即答だった。
結局、私は苦笑交じりにお父様の大きな手を取り、エスコートを受けながらゆっくりと地面に足を下ろした。
カツン、と靴音が石畳を叩いた瞬間。
「「お嬢様……っ!」」
控えていた侍女や使用人たちが、弾かれたように一斉に頭を下げた。
その声は心なしか震えていて、彼らがどれほど私の身を案じていたかが伝わってくる。
その列の先頭から、一人の女性がなりふり構わず駆け寄ってきた。
「リリアーナ!」
「……お母様」
次の瞬間には、私は母の温かな腕の中に、強いけれど壊れ物を扱うように抱きしめられていた。
「あぁ……よかった、本当に無事で……。神様、ありがとうございます……」
耳元で聞こえる震える声。
肩に回された腕に、ぎゅっと力が込められる。
私は母の背中にそっと手を回し、その鼓動の速さに胸を痛めながら抱き返した。
「心配をかけてごめんなさい、お母様。私は、この通り元気ですわ」
「ええ、本当に……。あんな恐ろしい知らせを聞いたときは、目の前が真っ暗になりましたのよ。もう二度と、あんな思いはしたくないわ」
母の切実な言葉に、私の背後から低く、絶対的な拒絶を孕んだ声が重なった。
「二度と、させないよ」
ヴィンセントだった。
いつの間にか母の肩に手を置き、その瞳に冷徹な決意を宿している。
「二度と、あんな不埒な輩に娘を近づけさせはしない。今度は最初から、芽が出る前にすべてを根こそぎ潰すと誓おう」
その声音は静かだったけれど、そこには一国の軍を動かすとき以上の、重苦しいまでの殺意と迷いのなさが同居していた。
母は一つ、小さく息を吐いてようやく腕を緩めると、私を見て優しく微笑んだ。
「……さあ、中へ入りましょう。まだ万全ではないのでしょう? 貴女のために、最高にリラックスできる準備をさせてありますのよ」
邸内に入ると、慣れ親しんだ廊下の空気さえもが、私を優しく迎え入れてくれるようだった。
すれ違う使用人たちが、皆一様に、泣きそうな顔で、深い安堵を湛えて一礼していく。
自室へ通され、ふかふかのソファに腰を下ろすと、専属の侍女たちがすぐさま、香ばしいお茶を用意した。
「しばらくは何もしなくていい。ただ呼吸をしているだけでいいんだよ、リリアーナ」
ヴィンセントがお茶を一口も飲まず、私の顔をじっと見つめながら断言する。
「医師からも厳命されている。徹底した安静だ。外出はもちろん禁止。庭への散歩もしばらくは控えること。勉強も最低限……いや、一文字も読まなくていい。お前はただ、美しく休んでいればいいんだ」
「えぇっ!? お父様、それはさすがに……」
「駄目だ。お前の健康以上に優先されるべき事案はこの世に存在しない。何かあったらと思うと、お父様は気が気じゃないんだ。私の心臓を止める気かい?」
食い気味に止められた。
母も隣で、上品に紅茶を啜りながら頷いている。
「そうね。リリアーナ、少し休んだくらいで、貴女の才覚が逃げ出すことはないわ。今はたっぷり自分を甘やかしてあげなさい」
「……分かりましたわ」
両親揃っての「過保護包囲網」。
ここで反論しても、さらなる警護の増員を招くだけだと本能が理解した。
私は大人しく、用意された「何もしない時間」を受け入れることにした。
その日から数日間。
私は前世を含むこれまでの人生で最も穏やかで、そして「退屈な」時間を過ごした。
柔らかなベッド。
窓から差し込む穏やかな光。
整えられた調度品。
何も起こらない、誰も傷つかない時間が、こんなにも心を満たしてくれるものだとは。
「お嬢様、お茶のお代わりはいかがですか?」
侍女のメアリが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「ええ、ありがとう。……そういえばメアリ、今回のお茶、少しだけ淹れ方を変えてもいいかしら?」
「申し訳ありません、何か不手際がございましたでしょうか?」
私は前世の記憶
――趣味で嗜んでいた茶道の知識を思い出しながら、抽出の時間や温度について、ほんの少しだけ助言をしてみた。
「いいえ、いつも美味しいお茶だわ。でも少しだけ蒸らす時間を短くして、茶葉を揺らさないように静かに注いでみて。そうすれば、香りがもっと澄むと思うの」
「左様でございますか……。かしこまりました、すぐにお試しいたしますね」
数分後。
メアリが驚いた顔をして戻ってきた。
「……あら。香りが、今までと全然違いますわ! 雑味が消えて、お花の香りが際立っております!」
「うふふ、そうですわね。ほんの些細な工夫一つで、世界は変わるものよ」
侍女たちの驚く顔を見るのは、密かな楽しみだった。
そんな、平和で、緩やかで、どこか非現実的なほど幸福な日々。
いつものようにそんな時間を過ごしていたある日の午後。
「リリアーナ、少しいいかい」
ヴィンセントが珍しく、儀礼的なノックをしてから私の部屋へ入ってきた。
その後ろには、いつも以上に複雑な表情を浮かべた執事の姿もある。
「お父様? どうかなさいましたの?」
「……会わせたい人がいる。お前の体調も安定してきたようだし、そろそろいいかと思ってね」
お父様はそう言って、軽く手を差し出した。
促されるままに廊下を進み、応接室の扉の前へ。
お父様が重厚な扉を開け、私はその中へと足を踏み入れた。
そこにいたのは――
「…………エル?」
思わず、名前が口をついて出た。
逆光を背負って部屋の中央に立っていたのは、数日前に王城で別れたはずの、あの少年だった。
以前と変わらない、少しぶっきらぼうで、どこか世の中を冷めた目で見ているような表情。
けれど、高級な仕立ての服を着せられた彼は、その立ち方にわずかな硬さを滲ませている。
「……リリ」
琥珀色の瞳と視線が合う。
「久しぶり……って言うほどでもないな。数日ぶりか」
王城の白いベッドで丸まっていた彼と、公爵邸の豪華な内装の中にいる彼。
場所が変わると、別人のように思える。
「どうしてここに……? 体はもう大丈夫なの?」
「ああ、動く分には問題ないよ」
エルの短い答えを引き継ぐように、背後のヴィンセントが淡々と説明を始めた。
「……しばらくの間、このアルヴェルト公爵邸で彼を『預かる』ことにした。もちろん、陛下のご許可も得てのことだ」
「預かる……?」
「そうだ。例の組織、ノルズガルドの残党が完全に潰えた確証はない。そして、彼らがあの施設で『何』を成そうとしていたのかも、まだ闇の中だ。……エルは、奴らに目をつけられている可能性が極めて高い。その辺の施設に放っておくには、あまりに危険すぎるからね」
お父様の説明は論理的だった。
けれど、その瞳の奥には鋭い観察の光があった。
「安全を確保するためでもあるし、こちらの都合でもある。要するに、私の目の届く場所に置くのが、最も管理しやすいということだ」
言い方は穏やかだが、それは実質的な「監視」でもあった。
けれど、エルは特に反論する様子もなく、ただ静かにその場に立っている。
その従順さが、逆にどこか不自然にさえ感じられた。
私は少しだけ考え――。
そして、お父様の思惑も、エルの複雑な事情もすべてを飲み込んだ上で、ふっと表情を緩めた。
「……そうなのね。理由はどうあれ、嬉しいわ」
私は一歩、彼へと歩み寄った。
「また、一緒にいられるのね。今度は暗い牢獄じゃなくて、この陽の当たる場所で」
それは、打算も何もない、私の素直な感想だった。
エルが一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、琥珀色の瞳を揺らす。
「……まあ、そうなるな。……よろしく、リリアーナ」
彼は少しだけ照れくさそうに視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに答えた。
その様子を、ヴィンセントが眉間に深い皺を寄せて見つめている。
「……言っておくがエル。リリアーナがいくら天使のように可愛く、慈悲深いからといって、無闇に触れることは万死に値すると心得よ。あと、その言葉遣いだ。今日からこの屋敷の家庭教師が、叩き直すことになるだろうから覚悟しておけ」
「……お父様ったら、気が早いですわ。彼はまだ病み上がりですのよ」
私は呆れたように笑い、エルに向かって自然に手を差し出した。
「あらためて、よろしくね、エル」
ほんの一瞬の間。
エルは戸惑うように私の手を見つめ、それから、その熱のこもった掌で私の手を握り返した。
「……ああ。よろしく、リリアーナ」
短い返事。
交わされたのは、たったそれだけのやり取り。
けれど、それは確かに
――私と彼の「新しい日常」が幕を開けた瞬間であり、窓から差し込む陽光は、私たちの重なった手を温かく照らしていた。
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