微笑みと綻び
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二度目の目覚めは、驚くほど穏やかだった。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、白磁の床に柔らかな筋を描いている。
前回の、泥の底から這い上がるような重苦しさはもうない。
四肢には確かな感覚が戻り、指先を動かせば、シーツの滑らかな感触が心地よく伝わってきた。
(……うん。体は少し重いけれど、普通に動くわね)
ゆっくりと上体を起こす。
僅かな目眩を感じたが、それもすぐに収まった。
奈落の底で「枷」に縛られたダメージは、王宮魔導師たちの懸命な処置と、私自身の回復力によって着実に癒えつつあった。
「リリアーナ! 起きたのかい!?」
扉が開く音と同時に、聞き慣れた声が響く。
父、ヴィンセントが音もなく室内へ入ってきた。
足取りは速いが、寝台へ飛びついてくるような「暴走」は辛うじて抑えられているようだ。
「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう。リリアーナ!顔色は……昨日よりずっといいね。気分はどうだい? どこか痛むところはない?寒さは?」
そう言いながら、父の手が自然に私の額に触れる。
熱がないことを確認すると、彼は深い安堵を吐息に混ぜて漏らした。
「……大丈夫ですわ。凄く元気になりましたの」
「そうか。だが無理は絶対に駄目だよ。……リリアーナ、体調がいいのなら、今日のうちに屋敷へ帰ろうと思うんだ」
ヴィンセントは私の手を包み込むように握り、少しだけ眉を下げて続けた。
「王城の医療室も悪くはないが、やはり我が家が一番だろう?使用人たちも、リリアーナが帰ってくるのを首を長くして待っているだ。……何より、リリアーナの姿がすぐ近くにないと、お父様は心配で仕事も手につかないし、夜も眠れないよ」
最後の一言に、隠しきれない親バカムーブが漏れ出している。
強制ではないと言いつつ、その瞳は「今すぐ連れて帰りたい」と切実に訴えていた。
「お父様。お屋敷に帰るのはいいの……でも、その前に」
私は父の瞳をじっと見つめた。
「アリシアとレオン、それに……エルに会いたいですわ。まだ、ちゃんとお礼も言えておりませんもの」
ヴィンセントの眉がピクリと動いた。
一瞬、渋るような色が瞳を掠める。
娘をこれ以上、事件を思い出させる当事者たちと接触させたくないという保護本能だろう。
だが、私がじっと見つめ返していると、お父様は根負けしたように肩を落とした。
「……分かった。すぐ戻るという約束付きだぞ。リリアーナの体は、まだ治っていないのだからね」
「ありがとうございます、お父様」
準備を整え、部屋を出ようとしたところで来客が告げられた。
入ってきたのは、エドワード殿下。
そして、その後ろに控えるカイルだった。
「リリアーナ。目が覚めたって聞いたから見に来たんだ」
エドワードの佇まいは、事件前とはどこか違っていた。
五歳という年齢相応の幼さは残っているものの、その瞳には次代を担う者としての静かな覚悟が宿っている。
しかし、私を見た瞬間に瞳が揺れて、心配そうなのが隠せていない。
「元気そうになっていて、本当に良かった。……カイルも、ずっと心配していたんだ」
「リリアーナ様、本当によかったです……まだ少し顔が白いから、お家に帰ったら美味しいお菓子をたくさん食べて、たくさん寝てくださいね」
カイル様が7歳らしい、彼なりの「元気が出る方法」を教えてくれる。
エドワード殿下を支えるために大人っぽく振る舞っているけれど、その指先は安堵で小さく震えていた。
「皆様、ご心配をおかけいたしました。……今から、アリシア様たちとエルのところへ行こうと思っていたのです」
私の言葉に、殿下が「それなら僕も一緒に行くよ」と即座に応じた。
「僕も彼らが元気か気になるし…それに、リリアーナに危ないことがないよう、僕が守ると約束しただろう?」
その言葉に、ヴィンセントが「ほう、わざわざ王太子殿下が我が娘の護衛を?」と軽く不満を飛ばしたが、殿下は怯むことなく「公爵が凄いのは知っておるが、僕の気持ちの問題だ」と真っ直ぐな言葉で返した。
結局、父が毒気を抜かれたような顔で許可を出し、私たちは奇妙な「護衛団」と共に歩き出した。
まずはフォード侯爵家の双子、アリシアとレオンの部屋へ。
二人は既にベッドの上で退屈そうにしており、私たちが顔を出すと同時に声を上げた。
「リリ!…じゃなくて、リリアーナ! !来るの遅いわよ!私、もう退屈で死んじゃうかと思ったわ」
「……無事そうで何よりだ」
アリシアの元気な文句と、レオンの落ち着いた挨拶。
殿下たちの登場に一瞬だけ居住まいを正した二人だったが、すぐに空気は和やかなものになった。
「またすぐ会いましょうね!次は、こんな真っ白な部屋じゃなくて、もっと楽しい場所で遊びたいわ!」
再会を約束し、短いけど温かな時間を過ごす。
ここにはもう、あの地下の恐怖は微塵も残っていないように見えた。
そして最後に向かったのはエルの部屋。
扉の前には騎士が立っていたが、王太子と公爵が揃っているのを見て、速やかに道が開けられた。
室内は静かだった。
エルはベッドに体を預け、ぼーっと窓の外を見つめていたが、私たちの入室に気づくとゆっくりと視線を向けた。
「……あ。リリ、来てくれたんだ」
「エル、気分はどうかしら?」
私はベッドの傍らへ歩み寄った。
殿下とカイルも、エルの奮闘を聞いていたのか、敬意を込めた眼差しで挨拶を交わす。
エルは少し戸惑ったように「……うん。大丈夫。そんなに悪くないよ」と、ぶっきらぼうながらも以前と同じトーンで答えた。
「エル、本当にありがとう。あなたがいてくれたから、私は助かったわ……この御恩は、一生忘れませんわ」
心からの感謝を伝えると、エルは僅かに照れくさそうに目を逸らした。
「……別に。俺も助かりたかっただけだから」
そのぶっきらぼうな優しさに、私はそっと微笑んで続けた。
「……エル。あらためてだけど、私の本当の名前を伝えるわね。私は、リリアーナ・フォン・アルヴェルト。今日、お屋敷に帰ることになったの。……また、絶対会いましょうね」
エルは一瞬、その名前に驚いたように目を丸くしたが、すぐに「……リリアーナ、か。いい名前だね。うん、また会おう」と小さく笑った。
そのやり取りは、どこまでも「普通」だった。
事件を乗り越えた子供たちの、ありふれた再会の光景。
だが。
「……っ」
唐突に、エルの表情が強張った。
彼は僅かに眉根を寄せると、右手で強くこめかみを押さえた。
「エル? どうしたの? まだ頭が痛むのかしら」
私が心配して顔を覗き込むと、エルはすぐに手を下ろし、何事もなかったかのように振る舞った。
「……いや。なんでもない。ちょっと、頭が響いただけ」
エドワードたちは「まだ病み上がりだからな」と、特に気に留める様子はなかった。
私も、彼の言葉を信じて「無理をしないでね」と声をかけるだけに留めた。
だが。
エルの背後に立つ父、ヴィンセントの表情が、その瞬間だけわずかに変化したことに、誰も気づいてはいなかった。
父の鋭い視線は、エルの琥珀色の瞳の奥に一瞬だけ走った「歪な魔力の不協和音」を正確に射抜いていた。
それは、外から持ち込まれた傷ではなく、彼の内側から湧き出そうとしている、制御不能な「何か」。
熟練の魔導師でも見逃すような僅かな綻びを、ヴィンセントは「危うい」と直感していた。
「……そろそろ帰ろうか、リリアーナ。エルの体調がまだ良くなさそうだ」
父の声が、どこか深い警戒を含んで落ちる。
私はエルの体調を案じつつも、父の促しに従って一度だけ振り返り、部屋を後にした。
背中で静かに扉が閉まる音を聞きながら、私はようやく訪れた平穏な日々に胸を下ろし、父の手を強く握り返した。
やっと終わったはずの物語の裏側で、エルの内側に眠る「爆弾」が静かに動き始めたことに、リリアーナはまだ気づいてはいなかった。
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