リネンと薬草の安らぎ
続きは明日の予定です。
意識が、深い海の底から浮上するように、ゆっくりと、確かな足取りで覚醒へと向かっていく。
静かだ。
あの、耳障りな機械の駆動音も、湿り気を帯びた絶望の臭いも、ここにはない。
肌を包むのは上質なリネンの柔らかさであり、鼻腔をくすぐるのは清涼な薬草の香りと、どこか懐かしい、守られた空気。
(……医療室だわ)
重い贅肉を剥ぎ取るような感覚で、ようやくまぶたを押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた、けれど自宅のそれよりも装飾の厳格な天井だった。
王城内に設けられた、高位貴族専用の特別医療室。
私は、地獄から戻ってきたのだ。
その事実を、網膜に映る平穏が証明していた。
「……リリアーナ。よかった、目が覚めたか」
鼓膜を震わせたのは、低く、けれど明らかな安堵と熱を含んだ声だった。
「お父様……」
視線を僅かに巡らせれば、すぐ傍らに父、ヴィンセントが座していた。
近い。
一寸の隙もないほどの距離に椅子を引き寄せ、私の顔を覗き込んでいた。
その双眸には、戦場を幾度も潜り抜けてきた男とは思えぬほどの、切実な安堵と……どこか執念めいた情愛が滲んでいる。
「身体はどうだ。どこか、痛むところはないか。指先は動くか? 寒くはないか? 何か食べたいものは……いや、まずは消化に良いものを厨房に用意させよう」
「大丈夫ですわ、お父様……」
矢継ぎ早に繰り出される問いかけに、私は苦笑を抑えて短く答える。
指先を一つずつ動かし、感覚を確かめる。
四肢に異常な痺れはない。
魔力の回路も、ひどく疲弊してはいるが、欠損や致命的な歪みは感じられなかった。
(異常なし……。ひとまずは、安心ね)
「……そうか。ならばいい。本当によかった……」
ヴィンセントは、深く、肺の中の毒をすべて吐き出すかのように息を吐いた。
その吐息が私の頬にかかるほど、彼は近い。
公爵という鉄の仮面をかなぐり捨て、今はただ、愛娘を失いかけた一人の父親としての顔を隠そうともしていなかった。
「動いちゃダメだぞ。お医者さんにも止められている。いいかい、私が許可するまで指一本、髪の毛一筋たりとも動かしてはならない。リリアーナに必要なものは、すべてこの私が用意するからね。……ああ、可哀想に。こんなにやつれて……」
「分かりましたわ、お父様……」
あまりの熱量に圧倒され、大人しく頷く。
その時だった。
「……あ、起きた」
ぽつりと、遠慮のない声が室内に響いた。
視線を横に向ければ、そこにはアリシアとレオンが、ベッドの柵から身を乗り出すようにしてこちらを覗き込んでいた。
「ほんとだ。顔色も戻ってきたな」
双子の姿に、私は驚きと安堵が混ざった声を漏らした。
「アリシアにレオン……? なぜここに……」
「あんたが一番ボロボロに見えたから、心配で見に来たのよ」
彼らも同じ施設から救出された後、体調異変を監視するため、王城内の同じ貴族専用医療区画に収容されていたのだ。
彼らは隣の病室でフォード侯爵による説教を食らっていたが、侯爵が王への報告で席を外した隙を突き、監視の騎士を言いくるめて忍び込んできたらしい。
双子の姿に、私はどこか救われたような心地になった。
あの奈落で共に戦った戦友たちが、こうして無事に目の前にいる。
「……平気? どこか、変な感じしない?」
アリシアが身を乗り出して聞いてくる。
ヴィンセントは瞬時にアリシアを鋭い眼光で牽制したが、彼女はそれに気づく様子もなく言葉を重ねた。
「えぇ、大丈夫ですわ。アリシアも、レオンも……元気そうで何よりです」
「ほんとに? 無理してない?」
「えぇ」
その短い答えを聞いて、アリシアはふっと肩の力を抜いた。
レオンも短く頷いて私の生存を確認した。
「……リリ」
アリシアが親しげに呼んだ、その愛称。
リリアーナは一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。
「……リリアーナと申しますわ。リリアーナ・フォン・アルヴェルトにございます」
静かに本来の自分を名乗る。
室内には一瞬の沈黙が流れたが、アリシアはあっけらかんとした様子で「あー、やっぱり。そんな感じしたわ」と笑った。
レオンもまた、公爵のあの荒ぶりようを見れば察するのも当然だというように、小さく息を吐いた。
「……黙っててごめんなさい」
「いや、普通でしょ。私たちも家名言ってなかったし」
アリシアが即答し、レオンも「むしろ正解だ」と同意した。
二人は改めてフォード侯爵家の者であることを名乗り、私たちは貴族として不思議な一体感に包まれていた。
「ありがとう……二人とも……エルは?」
リリアーナが少しだけ真剣な声で尋ねる。
アリシアとレオンが顔を見合わせ、視線を落とした。
「別の部屋だ」とレオンが答える。
「まだ寝てる。何せ、あいつは長いことあそこに閉じ込められてたようだったからな」
「……そう、ですの」
視線が自然と落ちる。
最後に見た、あのエルの限界を超えた姿。
アリシアが「まあ、大丈夫でしょ」と根拠のない励ましを口にする。
リリアーナは小さく、けれどしっかりと頷いた。
その時だ。
それまで「愛娘を心配そうに見守る父」だったヴィンセントから、温度の消えた声が落とされた。
「――そこまでだ」
静かな、有無を言わせぬ圧。
「医師より、面会は短時間にと厳命されている。リリアーナの安静が第一だ」
ヴィンセントはすっと立ち上がり、アリシアたちの前に立ちふさがった。
その背中は、もはや一寸の隙もない鉄壁の防衛陣地である。
「……えー。公爵様、もうちょっといいじゃん」
「駄目だ」
アリシアの不満を、ヴィンセントは秒で切り捨てた。
「消耗が残っている。これ以上はお互いに負担になる。帰るんだ。今すぐに。……ああ、フォード侯爵には私から伝えておこう。君たちがリリアーナをこれ以上疲れさせないようにとね」
「……わ、分かった。また来る。」
レオンが空気を読み、アリシアを引っ張るようにして部屋を出ていく。
アリシアは名残惜しそうに手を振って去っていった。
扉が静かに閉まる。
再び二人きりになった瞬間、ヴィンセントの纏う空気は、この世の春をすべて凝縮したような柔らかさに一変した。
「……さあ、リリアーナ。水はいるか? 喉が渇いているだろう。それとも、私が何か食べさせてあげようか?」
「いえ、大丈夫ですわ、お父様……」
ヴィンセントは、離れない。
離れるどころか、ベッドの縁に腰をかけ、私の手を両手で包み込むように握りしめている。
「……あんな恐ろしい思いをさせてしまった。すまない、リリアーナ。お父様がついていながら……。これから先、一分一秒たりともお前から目を離さないと誓おう。王城内であっても、護衛を三倍に増やし、私も常に隣にいるからね」
「それは、少し困りますわ……」
苦笑しながらそう言うが、父の瞳は大真面目だった。
その徹底した護り、執着に近い視線に、私は何も言えなくなる。
(……お父様、親バカが加速していませんこと?)
心の中で呟きながらも、私は静かに目を閉じる。
けれど、瞼の裏には、どうしても一人の少年の姿が浮かんでいた。
エル。
最後に触れた、あの冷たい指先。
「……」
呼吸が僅かに揺れる。
それを見逃さず、父が耳元で囁く。
「……案ずるな、リリアーナ。あの少年については、私が責任を持って最高の治療を受けさせている。お前が気にする必要はない。お前はただ、私に甘えて、体を治すことだけを考えていればいいんだよ」
父の低い声が、子守唄のように響く。
「さあ、おやすみ。私がここでずっと、お前の寝顔を見守っているからね。……ああ、寝顔も天使のようだ……」
父の深い情愛を背中に感じながら、私は絶対的な安全の中で、再び眠りへと沈み込んでいった。
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