胎動する二つの巨影
続きはまた夜もしくは明日になります。
――その頃、王城では。
夜の帳が降りた城内に、不吉なほど重苦しい金属音が響き渡った。
「王太子殿下、ご帰還――ッ!」
衛兵の鋭い叫びが石造りの廊下を駆け抜ける。
だが、その声に応える華やいだ空気はどこにもなかった。
普段であれば、若き主君の帰りを祝うように灯されるはずの魔導灯の光さえ、今は冷たく、刺々しい緊張を孕んでいる。
エドワードは、何も言わずに歩いた。
幼い顔には、王族としての誇りよりも深い、昏い影が落ちている。
そしてその隣には、寄り添うようにカイルがいた。
いつもなら整然とした足取りで殿下を支える少年も、今はただ俯き、折れそうなほど細い指を白くなるまで強く握りしめている。
二人の間には、一言の会話もなかった。
沈黙だけが、剥がれ落ちたばかりの生々しい傷跡のように、彼らの間に横たわっていた。
長い回廊を進み、やがて視界を塞ぐのは、歴史を刻んだ巨大な彫刻が施された扉。
「……殿下。陛下がお待ちです」
扉の前に立つ護衛が、押し殺した声で告げる。
静かに開かれた扉の向こう――謁見の間。
広大な空間の奥、一段高い玉座の前に、ラグランジュ王国の頂点に立つ男、国王リチャードが立っていた。
その場に居合わせた文官、騎士、そして子供たちが一斉に膝をつく。
「エドワード」
広大な空間に、重厚な声が低く響いた。
「……報告を聞こう」
エドワードは、跪いたまま床を睨むように拳を握りしめた。
「……襲われました」
震える声を、必死に抑え込む。
「裏路地で……こちらの意識を逸らされた隙に、結界を張られて。隔離、されました」
あの瞬間、目の前で色彩が失われ、銀髪の少女が闇に飲み込まれていった光景が鮮明に蘇る。
「それで……っ」
喉が、熱い塊に塞がれたように詰まる。
それでもエドワードは、王太子としての責務を果たすべく、言葉を絞り出した。
「リリアーナが……リリアーナが、連れていかれました。僕の、目の前で」
刹那、謁見の間に氷のような沈黙が落ちた。
誰一人として呼吸さえできないような、重苦しい空気がじわじわと広がっていく。
やがて、玉座の前で国王が静かに、断罪のような一言を放った。
「王太子襲撃事件」
低い声。
それは、慈悲深い父の顔を捨てた、一国の王としての宣戦布告だった。
「これはもはや、単なる誘拐ではない。国家問題だ」
その言葉に応じるように、騎士団長が一歩前に踏み出す。
「王都騎士団、すでに総力を挙げての捜索を開始しております。北区画の外れ、放棄された地下道付近にて、大規模な転移魔法の痕跡を確認いたしました。現在、空間の歪みを追跡中です」
国王は短く、冷徹に頷いた。
「アルヴェルト公爵には報せたか」
「すでに」
宰相が事務的に答える。
その、まさにその時だった。
謁見の間の重厚な扉が、再び、そして乱暴に開かれた。
重い足音が、大理石の床を叩く。
現れたのは――アルヴェルト公爵、ヴィンセント・フォン・アルヴェルトだった。
王国最強の魔導騎士としての威圧を隠そうともせず、長身の男が玉座の前で止まり、深く、鋭く頭を下げる。
「陛下」
声は、不気味なほどに静かだった。
だが、その奥底で煮え滾る、万物を灰にし兼ねないほどの怒りは、その場にいる誰の目にも明らかだった。
国王が静かに問いかける。
「……聞いたか」
「はい」
公爵は顔を上げる。
その凍てつくような、鋭利な刃物にも似た視線が、跪くエドワードとカイルに向いた。
カイルの肩が、見に見えて小さく震える。
エドワードは唇を血が滲むほどに強く噛んだ。
「……すまない」
思わず、言葉が零れ落ちた。
王太子が公爵に謝罪するなど、儀礼上はあってはならないことだ。
だが、今のエドワードには止めることができなかった。
「俺が……僕が、外に出ようって言ったからだ。リリアーナを無理やり、連れ出したから」
カイルもまた、震える声で言葉を継ぐ。
「僕が……僕があの時、引き止めてしまったせいで……っ」
だが。
公爵は、ただ静かに首を振った。
「殿下の責任ではありません」
そして、カイルを見つめる。
「カイル殿も同じです」
低い、けれど鋼のような強さを持った声。
「娘を攫った者。……悪意を持って、我が家に、王家に牙を剥いた者の責任です」
その瞬間、謁見の間の空気が数度、確実に冷え切った。
国王が再び口を開く。
「王都騎士団が、全力で捜索を行う。アルヴェルト公爵。……お前も、動くだろう」
公爵は迷わず、射抜くような眼光で答えた。
「もちろんです。王都の隅々、鼠の這い出る穴に至るまで、公爵家の騎士を動かします」
宰相が少し顔をしかめ、王都での独断的な軍事行動を諫めようと口を開きかけた。
だが、国王はそれを手で制し、止めなかった。
「王都内での私兵行動、騎士団と密に連携せよ。無用な衝突は避けよ。……それだけが条件だ」
「承知しております」
短い返答。
その瞳は、もはや政を語る貴族のものではない。
獲物を確実に仕留める、戦場の狩人のものだった。
エドワードは、床を見つめたまま拳をさらに強く握る。
自分は、何もできない。
ただこうして城の中で、大人たちに守られているだけだ。
その事実が、焼けた鉄を押し当てられたように胸を締め付ける。
公爵は、翻るマントの音を立てて踵を返した。
そして、去り際に一言だけ、重く、深く告げた。
「必ず、見つけます」
それは王への誓いではなかった。
ただ一人の、愛娘を奪われた父親の、魂の誓約だった。
王城を出た馬車は、夜の王都を雷鳴のような蹄の音を立てて駆けた。
公爵邸の重厚な門が開かれる。
馬車が完全に止まるより早く、公爵は降り立っていた。
「閣下!」
待機していた執事が、蒼白な顔で駆け寄る。
「リリアーナお嬢様の件、先ほど騎士団より連絡が――」
「聞いている。無駄な報告は省け」
短い、氷のような声。
公爵は執務室へは向かわず、大広間へと大股で歩きながら矢継ぎ早に命じる。
「騎士団長を呼べ。そして、公爵家に所属する騎士を全員、即刻集めろ」
執事が息を呑み、慌てて背を向けた。
やがて、広間には重々しい甲冑の音が響き渡り、公爵家が誇る精鋭たちが集結した。
全員が、かつてないほどの威圧を放つ主君を見つめている。
公爵は、静かに、そして死の宣告のように言った。
「……リリアーナが、攫われた」
空気が凍り、騎士たちの顔色が劇的に変わる。
彼らにとっても、リリアーナは守るべき公爵家の宝だった。
「場所は王都北区画。転移魔法が使用されている痕跡がある」
そして一歩前へ出る。
「探せ」
短い、けれど絶対的な命令。
「裏路地、地下水路、廃屋、ゴミ溜め。……闇商人、奴隷商。そのすべてだ」
騎士たちの目が、憤怒と忠誠の炎で燃え上がる。
公爵の声が、さらに低く、重くなる。
「娘を攫った者は。……この国のどこに逃げようと、奈落の底に隠れようと」
一瞬、鼓動さえ止まるような沈黙。
「私が、必ず見つけ出す」
騎士団長が、抜剣の音を響かせ、剣を高く掲げた。
「――アルヴェルト公爵家騎士団、出動せよ! 主君の至宝を、ただの一傷も残さず奪還せよ!」
「「「おおおおおッ!!」」」
甲冑が一斉に鳴り響き、騎士たちが夜の闇へと散っていく。
公爵は最後に、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「生きて、連れ戻せ。……リリアーナを」
その声は、一瞬だけ掠れ、弱く、切実な響きを含んでいた。
王都の夜に、もう一つの、そしてもっとも苛烈な狩りが始まる。
それは公的な騎士団の法に則った捜索とは違う。
一人の父親が、自らの魂を取り戻すための、死闘の始まりだった。
だが、その頃。
陽の光さえ忘れた地下の深淵では。
鉄格子の並ぶ、湿った暗い牢の中で。
四人の子供たちが、鉄格子越しに輪を描くように集まっていた。
決意を固めた銀髪の少女。
悔しさに歯を食いしばる、青灰色の髪の双子。
そして、昏い光を瞳に宿し、静かに周囲の術式と状況を観察し続ける一人の少年。
誰も気づいていない。
王都では今、王家と公爵家の両方が動き始めていることを。
そして――
この絶望に満ちた地下の檻の中でもまた、
非力なはずの子供たちによる、“運命”へのささやかな抵抗が、静かに、けれど確実に始まろうとしていることを。
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