溶けゆく世界
連日、沢山の方に見ていただけて嬉しいかぎりです!
本当にありがとうございます!(´▽`)
続きは明日の予定です。
通りの喧騒が、急速に遠ざかっていく。
つい数分前まで、香ばしい串焼きの匂いと賑やかな声に満ちていたあの場所が、まるでもう何年も前の出来事のように感じられた。
私は男の腕に抱えられたまま、迷路のように入り組んだ石畳の路地を運ばれていた。
視界に映るのは、不規則に上下する犯人の黒い外套の背中と、迫り来る煤けた灰色の壁ばかり。
背後ではまだ、追っ手を阻もうとする怒号と、逃げ惑う人々の悲鳴が混ざり合った地響きのような音が続いている。
その震動が、私の背中を通じて伝わってくるようだった。
男の腕は、まるで冷たい鉄の枷のように硬く、五歳の私の小さな体をがっちりと拘束している。
「暴れるな。落とすぞ」
低く、温度のない声が耳元で直接囁かれた。
脅しではない。
その声には、思い通りにならなければいつでも「荷物」を乱暴に扱うという、冷徹な実務意識が宿っていた。
私は、奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばる。
本当は今すぐにでも逃げ出したかった。
けれど。
パニックは生存率を下げるだけだ。
深呼吸をして、酸素を脳に送り込む。
私は男の腕の中で、そっと息を整えた。
暴れても無意味。
この圧倒的な体格差ではどうにもならないし、体力を消耗するだけだ。
ならば――今は徹底的な「観察」に徹する。
男は三人。
私を抱えている男。
その数歩前を、最短ルートを切り開くように疾走する男。
そして、鋭い視線で後方を警戒している男。
どの動きにも無駄がない。
石畳の段差を避け、人のいない路地裏を迷いなく選択していくその様は、まさにプロの仕事だった。
(……相当に、慣れているわね)
その時、前を走っていた男が、苛立ったように舌打ちした。
「ちっ……やっぱり来たか。しつこい連中だ」
「そりゃ来るだろ」
後ろの男が、吐き捨てるように応じる。
その声には、今の緊迫した状況をどこか楽しんでいるような、不気味な余裕さえ感じられた。
「王都のど真ん中でガキを攫ってんだぞ。騎士団が黙っているわけねぇだろうが」
「だから、今日はさっさと切り上げて帰るって言ったんだ。余計な仕事は増やすなってな」
「お前が『これだ』って拾ったんだろうが。今更俺を責めるなよ」
私を抱えている男が、走りながら肩越しに、腕の中の私をちらりと一瞥した。
その瞳の奥には、愛情も憎しみも、あるいは憐れみすらない。
ただ市場で希少な高級食材を見つけた時のように、その「価値」だけを冷静に値踏みする色があった。
「でもよ……」
男は、息一つ切らさずに言葉を繋ぐ。
その肉体から発せられる魔力は、効率よく脚部に回され、常人では考えられない速度を維持している。
「このガキ、やばいぞ」
「魔力回路、見ただろ」
前の男が、走りながら短く返した。
「ああ……だから拾った」
その声には、確かな確信が込められていた。
「帰る日に限って、とんでもねぇ『上物』を見つけちまったんだ。こんな質のいい回路を放っているガキなんて、そうそう拝めるもんじゃねぇからな。組織の上は喜ぶだろうぜ」
後ろの男が、歪んだ笑みを零しながら低く笑った。
「こんな上物、そうそう捕まらねぇ」
「王都のどこかの、貴族のガキか?」
「知らん。名家だろうが王家だろうが、この隔離結界から出ちまえば関係ねぇ。価値がありゃあ、それだけで十分だ」
私は、その言葉を聞きながら静かに目を伏せた。
なるほど。
やはり、そういうことだったのね。
(……やっぱり)
こいつらは、最初からアルヴェルト公爵家の令嬢である私を狙って、周到に準備をしていたわけではない。
彼らは街に潜み、人身売買や魔導実験の材料となる「質のいい子供」を物色していた「プロ」の誘拐組織。
それが偶然、視察に来ていた私を見つけた。
そして――
(魔力回路で判断した)
私の中に眠る、一歳から密かに鍛え上げてきた回路が、一般人の子供とは比較にならないほど繊細であることを見抜いたのだ。
彼らにとって私は、誰の娘かなどという「背景」などどうでもいい、ただ純粋に「品質のいい物」に過ぎなかった。
後方の路地から、地響きのような怒号が再び響き渡る。
「止まれぇぇぇ!! 止まらぬなら、手段を問わんぞ!!」
護衛だ。
明らかに足音が近づいている。
公爵家の護衛――白百合のメンバーか、あるいは王家の精鋭たちが、凄まじい執念で距離を詰めているのが分かる。
男たちの動きが、わずかに速くなった。
「くそ、早すぎる! まだ転移ポイントまで距離があるぞ!」
「だから言っただろ! 予定外の獲物を抱えりゃ、それだけ追っ手のリスクが上がるんだ!」
「文句言うな! こんな上物、逃す方が馬鹿だ!」
逃走する男たちの動きが、一段と激しさを増す。
曲がり角を強引に抜け、さらに狭く、陽光さえも届かない裏路地へと私を運び込む。
その時、私を抱えている男の手が、空いた手で素早く懐を探った。
取り出されたのは、琥珀色の液体が満たされた小さな硝子瓶。
私は本能的に、それが何であるかを察知し、反射的に体を激しくよじった。
「……っ!」
「おっと。元気だな」
男の腕が、ギリギリと音を立ててさらに強く締め上げられる。
五歳の私の小さな肋骨がきしむほどの力だ。
パチン、と。
男が瓶の栓を、親指一つで弾き飛ばした。
その瞬間、不快なほどに、粘りつくような甘い匂いがふわりと広がった。
(まずい)
私は咄嗟に呼吸を止めようとした。
だが、男はそれを見透かしたように嘲笑う。
「無駄だ。ガキの肺活量で、いつまで持つのかな?」
白く染まった不潔な布が、私の口元と鼻を完全に覆うように押し当てられた。
男の掌は大きく、五歳の私の顔の半分を覆ってしまう。
抗う術など、どこにもない。
「魔法適正の高い多いやつは薬効きにくいからな、多めだ」
布から染み出す、甘ったるい匂いが、容赦なく私の鼻腔から肺へと侵入してくる。
息を止めようとしても、男の圧迫によって強制的に空気を求めさせられ、深く吸い込んでしまう。
肺が熱く、焼けるように苦しい。
視界が、急速に歪み始めた。
灰色の石壁が波打ち、世界から色彩が失われていく。
男たちの足音が、まるで水の中にいるかのように、くぐもって遠ざかっていく。
(……まだ)
意識を手放すわけにはいかない。
今ここで眠ってしまえば、次に目を覚ます場所はどこなのか、想像もつかない。
殿下も。
カイル様も。
きっと、必死に追ってきてくれる。
その時だった。
朦朧とする視界の隅、今しがた抜けてきた路地の入り口に、陽光を反射させる鋭い輝きが見えた。
剣を抜き、怒りに顔を歪ませた護衛の影が、猛然とこちらへ飛び込んでくる。
「――リリアーナ様!!」
叫び声。
希望が、その叫び声と共にすぐそこまで来ている。
けれど。
重たい鉛を流し込まれたように、まぶたが重くなった。
世界が、ゆっくりと、けれど抗いようのない力で暗く沈んでいく。
音も。
光も。
すべてが色彩を失い、深い奈落へと遠ざかる。
私は抗う意志を最後に刈り取られ、そのまま、意識を闇へと落とした。
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