届かぬ指先、遠ざかる叫び
いつもよりも長くなっていますが、読んでいただけると幸いです。
男の笑みは、ほんの一瞬だった。
こちらと視線が合ったと気付いた瞬間、口角を歪めていた感情を氷のように凍りつかせ、何事もなかったかのように顔を逸らす。
男は再び古びた石壁に背をもたれ、喧騒の中に溶け込んでいった。
その、あまりにも鮮やかすぎる「気配の遮断」
それだけのことが、私の胸の奥に澱のような違和感を沈殿させた。
(……なんでしょう、今の。ただの街の住人にしては、あまりにも……)
まるで、今までそこに存在しなかった影が、一瞬だけ実体を持ったかのような不自然さ。
通りを行き交う人々を眺めているというより、それは森の奥深くで獲物が罠にかかるのを待つ「狩人」の目、そのものだった。
「リリ、どうしました? ぼんやりして」
「……あ、いえ」
カイル様の穏やかな声に引き戻され、私は小さく首を振る。
今は視察の最中だ。
五歳の子供が「殺気を感じた」などと言っても、周囲を混乱させるだけだろう。
「どうぞ、リリ。冷めないうちに」
「ありがとうございます、カイ」
差し出されたのは、先ほど買い求めたばかりの名物、牛の串焼きだ。
受け取った竹串からは、食欲を暴力的に刺激するタレの焦げた香りが立ち上っている。
王宮の食卓ではまずお目にかかれない、荒々しくも豊かな庶民の味。
小さく一口かじると、弾力のある肉から溢れ出した旨味が口いっぱいに広がった。
「……美味しい、ですわ」
「でしょう? 騎士団の面々も、非番の日はこれを楽しみにしているそうです」
カイル様も隣で頬を緩ませる。
対照的に、黄金の瞳を輝かせた殿下は、不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも串にかじりついた。
「ふん。……まあ、及第点だ。民がこれほど品のない食事を好んでいるという事実は、視察の成果として記録に値するな」
口では毒づいているが、殿下の喉がごくりと鳴るのを私は見逃さなかった。
先ほどまでの刺々しい空気は、焼きたての肉の魔法によって、春の雪のように解けていく――。
――そのはずだった。
カンッ。
どこか遠く、屋根の上から響いた乾いた金属音。
重厚な鐘の音でも、剣戟の響きでもない。
それは、注意深く耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうほどに、小さな音。
(……なにかしら)
前世で、私は数多の「音」を聞き分けてきた。
背後の不気味な足音、誰かの忍び笑い、あるいは崩落の予兆。
その経験則が、今の音が「偶然」ではないことを告げていた。
屋根の上、建物の影、薄暗い路地の奥。
不可視の領域に潜んでいた護衛たちは、その刹那の響きに牙を剥いた。
『東側路地、魔力反応あり』
魔法通信の粒子が、密やかに、かつ鋭く飛び交う。
『術式準備を確認。……これは、ただの嫌がらせではなさそう』
『数は?』
『……三。いや、五……影が動いている。まだ増える』
屋根瓦に低く伏せていた王家の護衛が、ゆっくりと、己の昂る鼓動を鎮めるように息を吐いた。
『組織的だ。標的は……間違いなく、中心の三人』
『ただの賊ではない。魔法の質が洗練されている。……攫い屋の精鋭だ』
公爵家の護衛、白百合の一人が氷のような声で応じる。
『どうする。今すぐ結界を張って保護するか?』
『……まだだ。証拠が薄い。今の段階で抜剣すれば、王室の不祥事になりかねない』
彼らの責務は護衛。
だが、この平和な城下町で無闇に流血の騒ぎを起こせば、主君に泥を塗ることにもなりかねない。
あと数秒、様子を見てから――。
その、プロとしての冷静な判断が、この一瞬においては致命的な遅滞となった。
石畳の隙間、並べられたレンガの境目を、かすかな白光が稲妻のように走る。
『……術式、展開済み!? しまった、罠だッ!!』
護衛の悲鳴に近い通信が届くと同時だった。
パァンッ!!
真空の袋を叩き割ったような破裂音が響き、通りの一角が歪んだ鏡のように揺らいだ。
瞬時に広がる、乳白色の半透明な膜。
――「隔離結界」。
外部からの干渉を一切遮断し、その内側を隔離された異空間へと変える高度な空間魔法だ。
『くそっ、入り込めない!』
『外から壊すぞ! 物理・魔導の同時撃ち、準備!!』
結界の外側で護衛たちが死に物狂いの突破を試みる。
だが、強固な術式によって守られた「檻」は、無慈悲にも内側に取り残された者たちを切り離していた。
結界の中には――逃げ場のない子供たちだけ。
「……? 今、何か音がしなかったか?」
違和感に気付いた殿下が眉をひそめる。
その言葉が、少年の唇からこぼれ落ちるより早く。
ドォォォンッ!!
通りの奥で、地響きを伴う轟音が爆発した。
荷車が乱暴に横倒しになり、積み上げられた木樽が石畳の上を荒れ狂う。
馬が狂ったように嘶き、それまで和やかだった市場は一瞬にして阿鼻叫喚へと変わった。
「危ない!」「どけ!」「逃げろ、死にたくねえ!」
パニックに陥った群衆が、巨大な津波となって私たちを飲み込もうと押し寄せてくる。
人々の叫び声、突き飛ばされる衝撃。
「わっ!」
カイル様が慌てて足を取られ、よろめいた。
私は即座に片手を伸ばし、その細い腕をしっかりと掴む。
「カイ、離さないでください!」
「リ、リリ……! す、すみません……!」
カイル様の声は、はっきりと震えていた。
王国の英才教育を受けているとはいえ、まだ七歳の少年だ。
日常が崩壊した瞬間に平然としていられるはずもない。
「カイ、しっかりしろ! ただの事故だ、取り乱すな!」
殿下が傲然と言い放つ。
だが、その黄金の瞳が驚愕に見開かれるのを、私は見た。
混乱の極致にある群衆の中から、あの黒い外套の男が、まるで濁流に抗う岩のように泰然と歩み出てきたのだ。
一人。
二人。
三人。
同じ黒の影を纏った男たちが、無言で、そして確実に私たちを包囲していく。
(……包囲されている。これは事故じゃない。計画的な「狩り」だ)
状況を整理する間も与えず、屋根の上からは激しい衝撃音が降り注ぐ。
ガンッ!
ガンッ!!
結界の外側で護衛たちが必死に壁を殴りつけている音が響く。
「ちっ……思ったより早い。外の連中、相当な手練れだぞ」
「構うな。時間は取らせん。……あの銀髪のガキだ。魔力が一番濃い」
低い、濁った声。
彼らは私たちの正体など知らない。
ただ「魔法の資質が高い、高値で売れる獲物」を狙っているだけなのだ。
その時、私の背後に、氷のような気配が立ち上がった。
「――っ!」
振り返る暇さえなかった。
黒外套の男が、いつの間にか私の真後ろに立っていた。
男の腕、その手首に嵌められた黒い石の腕輪から、不快な魔力の振動が伝わってくる。
(……気持ち悪い)
「静かにしろ。騒げば骨を折るぞ」
低い、死を予感させる声。
私は反射的に体内の魔力を練り、指先から放出させようとした。
だが――。
ずしり。
鉛を飲まされたかのように、体内の魔力循環が歪み、動きを止めた。
腕輪の効果だ。
外部から無理やり魔力を押さえつける枷によって、魔法が発動しない。
「リリアーナッ!!」
殿下が叫ぶ。
その声に、男は煩わしそうに舌打ちをした。
「ガキが、騒ぐなと言っただろうが」
男の大きな掌が、私の小さな体を軽々と持ち上げる。
「離せ! 貴様、リリアーナに何をする! 誰に向かって手を――!」
殿下が怒りに顔を真っ赤にして駆け出そうとする。五歳児とは思えないほどの気迫。
だが、その前に別の男が悠然と立ちはだかった。
「悪いな、坊ちゃん。……今日は運が悪かったと思って諦めな」
下卑た笑みを浮かべ、男がナイフをちらつかせる。
殿下の顔が、今度は屈辱と怒りでさらに赤く染まった。
「貴様ぁぁッ!!」
突撃しようとする殿下。
だがその時、カイル様が殿下の袖を、千切れんばかりの力で掴んだ。
「エド……! だめ、です!!」
「カイル、離せ! リリアーナが……!」
「だめです!」
カイル様の叫びが、混乱の路地に響いた。
目にはうっすらと涙を浮かべながら、それでも彼は必死に理性を繋ぎ止めていた。
「相手は……武器を、持っています! 今行ったら、エドまで死んでしまいます!!」
その、必死の叫びに、殿下の動きがほんの一瞬だけ、凍りついたように止まった。
その、刹那の空白が。
男が私を抱え、薄暗い路地の奥へと飛び込むには十分すぎる時間だった。
「リリアーナァァァァッ!!!」
遠ざかる殿下の叫び声。
私は男の腕の中で、必死に手を伸ばした。
けれど、五歳の短すぎる指先は、誰の温度にも触れることなく空を切る。
バリィィィィィンッ!!
頭上で、隔離結界が爆散した。
降り注ぐ光の破片の中、屋根から数人の黒い影が降り立つ。
王家と公爵家の精鋭たちだ。
「リリアーナ様は!?」
「あっちだ、北の路地へ逃げた!」
殿下が狂ったように指を差す。
護衛たちは一言も発さず、弾かれたように追跡を開始した。
通りの喧騒、殿下の怒声、カイル様の荒い呼吸。
それらすべてが、急速に遠ざかっていく。
私は、自分を抱え、跳ねるように駆ける男の腕の中で、ぎゅっと歯を食いしばった。
心臓がうるさいほど脈打ち、肺が冷たい空気を求めて喘いでいる。
恐怖がないわけではない。
体が震えるのを、必死に抑え込んでいる。
けれど。
(……落ち着きなさい、リリアーナ)
三十一年の社畜……いや、一人の大人の魂が、私を内側から叱咤する。
殿下とカイル様は無事だ。
護衛も、今頃は全戦力を持って追ってきている。
そして、私は。
私はまだ、負けたわけではない。
続きは明日を予定しています。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
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