串焼きの香りと、忍び寄る影
続きは明日の予定ですが、もしかしたら今日の夜に上げれるかもしれません。
先ほどの平民たちとの衝突で生まれた険悪な空気は、すぐには消えなかった。
石畳の通りの上には、澱のように重たい沈黙が沈殿している。
殿下は屈辱に頬を硬くし、腕を組んだまま、まるで石像のように黙り込んでいる。
カイル様はと言えば、先ほどの余韻がまだ残っているのか、胃のあたりをぎゅっと押さえて青い顔をしていた。
そんな二人の様子を見ながら、私は小さく息をつく。
(……いつまでもこの空気では、せっかくの視察が台無しですわね)
前世、理不尽なトラブルに見舞われた時に嫌というほど身についた、「今は考えても無駄なことは忘れる」という心の切り替え。
五歳の体になっても、その精神的なフットワークの軽さは健在だった。
「さて。いつまでも暗い顔をしていても仕方がありませんわ。せっかく街に来たのですし、気分を切り替えませんこと?」
私が努めて明るい声を出した、その時だった。
通りの向こうから、暴力的なまでに香ばしい匂いが漂ってきた。
ジュウウ、と脂の弾ける音。
甘辛いタレが熱い鉄板の上で焦げ、胃袋を直接掴んでくるような誘惑的な香りが、風に乗ってこちらの鼻腔をくすぐる。
「……いい匂い」
思わず独り言が漏れた。
すると、それまで「世界の終わり」のような顔で俯いていたカイル様が、救いを見つけたかのようにぱっと顔を上げた。
「あ、あれは……串焼きですね。この辺りの名物だと、騎士団の資料で見たことがあります」
通りの角に、小さな屋台が出ていた。
使い込まれた鉄板の上で肉が躍り、脂の混じった煙が午後の柔らかな陽光の中へゆらゆらと上っている。
王宮で供される、銀の器に盛られた洗練された宮廷料理とはまったく違う。
野性的で、どこか荒っぽくて、それでいて――抗いがたいほどに生命力に満ちた光景だった。
「……ふん。庶民の食べ物だな」
殿下が腕を組んだまま、わざとらしく冷ややかな声を出す。
黄金の瞳は鋭く屋台を射抜いているが、その喉が僅かに動いたのを私は見逃さなかった。
「見たまえ、あの立ち込める煙を。油も多そうだし、きっと品のない味に違いない。第一、あのような雑踏で食事を摂るなど、教養を疑われるぞ」
厳しい言葉。
けれど、さっきまでの平民への怒りを含んだ棘は、食欲という根源的な欲求によってどこか霧散していた。
そして――
ぐう。
静まりかえった通りに、あまりにも正直な音が響いた。
三人同時にぴたりと動きが止まる。
音の出所は、カイル様のお腹だった。
「ち、違います! 今のはその、生理現象と言いますか……!」
カイル様が顔を耳まで真っ赤にして、壊れた玩具のように慌て始める。
「朝食を……その、視察の緊張で、ほとんど食べられなくて……! 決してあの匂いに釣られたわけでは……!」
「フン、カイは情けないな。その程度の空腹で腹を鳴らすとは。家の教育を疑うぞ。僕はあんな脂っこい肉など微塵も――」
ぐぎゅるるるるる。
今度は、さっきよりもはっきりと重低音が響き渡った。
音の出所は――言うまでもない。黄金の髪をなびかせた、我らが王太子殿下である。
「…………」
殿下の端正な横顔が、熟れきったトマトのようにゆっくりと、かつ徹底的に赤く染まっていく。
私は思わず吹き出しそうになるのを、前世で培った「笑ってはいけない会議」でのポーカーフェイスを総動員して必死にこらえた。
「……食べてみます?」
私は何でもない風を装って、小首を傾げた。
「せっかく街に来たのですもの。これも立派な“視察”ですわ。本や講義の文字面では決して分からない、民衆の食文化を知る絶好の機会だと思いませんか?」
「ふ、ふん……仕方ない」
殿下はコホンとわざとらしい咳払いをする。
「リリがそこまで言うのなら、視察の一環として食べてやろう。民の暮らしを知るのも、上に立つ者の義務だからな」
完全に後付けの理由だが、今はそのプライドを尊重してあげよう。
「はいはい、分かりましたわ。エド様」
「エドだと言っているだろう!」
そんなやり取りを横目に、カイル様が苦笑しながら頷く。
「それでは三本、買ってきますね。ここで待っていてください」
カイル様は懐から、この日のために用意された銅貨を取り出し、慣れない手つきで屋台の店主へと向かった。
その頃――。
通りの賑やかな喧騒の裏側では、一般人には決して感知できない「プロ」たちの動きがあった。
屋根の瓦の隙間。
色褪せた路地の影。
建物の二階の窓辺。
影に潜む公爵家の『白百合』と王家の護衛たちが、誰にも気付かれない不可視の連携を取っていた。
『後方クリア。不審な尾行者三名を排除。……ただの素人ではないわね』
『こちら側方。……妙だな。数が多い。組織的な連携を感じる』
『陛下と閣下が同行させている我らの目を盗もうとするとは、大胆な連中だ。正面の男、魔力を隠匿している。囮か?』
短く、鋭い魔法通信の符丁。
彼らは主君の子供たちに微塵も不安を感じさせぬよう、その外周で迫りくる危険を静かに、かつ確実に削り続けていた。
だが――。
その鋼の包囲網の、さらに外側で。
通りの空気が、わずかに、けれど決定的に変質し始めていた。
「お待たせしました。アツアツですよ」
カイル様が戻ってくる。手には、香ばしいタレの匂いを放つ串焼きが三本。
「……エド、リリ。念のため、私が先に毒味をしますね」
カイル様は真剣な顔で一本を手に取り、まずは自ら口にした。
たとえ街歩きであっても、将来の側近としての責務は忘れていないらしい。
「……ふむ。毒はありません。それから……驚くほど美味しいですよ、これ。肉の旨みが口いっぱいに広がります」
目を丸くして感嘆の声を漏らすカイル様。
それを見て、殿下もようやく我慢の限界といった様子で串を手に取った。
「ふん……なら僕も毒味の付き合いをしてやろう」
その間、私は何気ない様子で周囲の通りを見渡していた。
行き交う人々の活気。
値段を叫び合う商人の声。
子供たちの笑い声。
平和そのものの、どこにでもある街の光景。
――その中で。
ふと、私の視線に何かが引っかかった。
通りの少し先。
建物の影が色濃く落ちる壁際。
黒い外套に身を包んだ一人の男が、壁にもたれかかるようにして、じっとこちらを凝視していた。
ただそれだけの、見ようによってはありふれた光景。
けれど、なぜか視線を外すことができない。
男は、私たちの服装をゆっくりとなぞるように眺めていた。
視察用の質素な服。
けれど、その奥に隠しきれない立ち振る舞いの気品や、生地の質の良さを、男は一目で見抜いているようだった。
男の視線は、獲物を値踏みする狩人のそれに酷似しているように思えた。
(……気のせい、かしら)
そう思った、次の瞬間だった。
なんだか、足の裏が「むず痒い」ような気がした。
目には見えないけれど、何かが地面をすうっと這っていったような、妙な感覚。
「……?」
違和感に首を傾げた瞬間、ふと耳の奥が詰まったような感じがした。
数歩先を歩く人々の笑い声も、荷車の音も、まるで急に遠ざかってしまったかのように、こもって、くぐもって聞こえ始める。
私は周囲を見回した。
視覚的には、何も変わっていない。
人は歩いているし、通りもそのままだ。
それなのに、なぜか「静か」すぎる気がする。
まるで、ここだけが透明な箱の中に閉じ込められたみたいに、周囲の賑やかさから切り離されてしまったような――。
さっきまで感じていた、影に潜むお父様の護衛たちの気配も、ふっと消えてしまったような気がして、私は少しだけ不安になった。
(なんだか……変ですわね)
その時、壁にもたれていた黒い外套の男が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
そして――
不気味に、口角を上げた。
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