逃げるという選択
歪みは、前触れもなくそこにあった。
夜の路地。街灯の光が不自然に曲がり、影が影として機能していない。空気が重く、肺に入るたびにざらついた感触が残る。前に見たものより、はるかに大きい。
俺は物陰から、その光景を見ていた。
――戦っている。
複数人の修復者が、円を描くように立っている。その中央にいるのは、一人の男。服装はバラバラで、所属を示すものは見えない。だが、修復者たちの視線は一致していた。敵だと、はっきり分かる。
いろいろとしゃべっていたがおれが聞き取れたのは一人の修復者
―—トラベラー。という言葉だった
という言葉が聞こえた。なぜだかわかる気がした。
男は息を荒くしながら、それでも立っている。地面に影が波打ち、空間が断続的に軋む。何かを“使っている”のは確かだが、何をしているのかは分からない。分からないまま、場の均衡だけが保たれている。
修復者の一人が踏み込む。次の瞬間、空気が裂けたような音がした。
男の胸が、深く抉られた。
血が飛び散る。暗闇の中で、赤だけがやけに鮮やかだった。男は膝をつくが、倒れない。歯を食いしばり、胸を押さえながら、それでも顔を上げる。
――助けないのか。
頭の中で、誰かが言った。
俺は動けなかった。
足が、地面に縫い付けられたみたいに重い。武器もない。能力もない。何より、どうすればいいのか分からない。ただ見ていることしかできない。
そのとき、背後の歪みが揺れた。
黒いフードを深く被った人物が、路地に現れる。
――あの時の。
俺に「逃げろ」と言った男だ。
対抗者。
彼は一瞬で状況を理解したらしい。迷いなく前に出ようとする。しかし、別の修復者が腕を伸ばし、行く手を阻んだ。
「介入するな」
低く、事務的な声。
「これは修復対象だ」
対抗者は振り払おうとするが、止められる。その隙を、修復者たちは逃さない。再び攻撃が集中し、トラベラーの胸の傷がさらに深くなる。
空間が悲鳴を上げた。
対抗者は歯噛みし、強引に前へ出た。
戦いが始まる。
速い。鋭い。だが、一対多数だ。修復者たちの連携は完成されていて、対抗者の動きを削っていく。数の差は、残酷だった。
そして――
対抗者の体が弾かれる。
左肩から、血が溢れた。
深い傷。見ただけで分かる。致命傷ではないが、軽くもない。対抗者は膝をつき、それでも立ち上がろうとする。
その姿を見て、俺の中で何かが切れた。
「……やめろ」
声にならない声が、喉に詰まる。
助けたい。
今度こそ、助けたい。
俺は一歩、前に出た。
その瞬間、誰かの視線が、俺を捉えた。
「……いたぞ」
修復者の一人が、こちらを見る。
心臓が跳ね上がる。
見つかった。
逃げろ、という言葉が頭を叩く。体が、勝手に後ろへ下がる。違う、そうじゃない。止まりたい。戻りたい。なのに、足は逆の方向へ動いた。
俺は、背を向けた。
走り出してしまった。
後ろで、何かが崩れる音がした気がした。振り返りたい。けれど、振り返れなかった。恐怖が、後悔よりも速かった。
――まただ。
――また、逃げた。
そのとき。
世界から、音が消えた。
足音が、風の音が、呼吸の音が、すべて途中で切り取られる。走っているはずの体が、宙に縫い止められたみたいに止まる。
時間が、止まった。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。
逃げる途中で、凍りついた俺は、理解する。
これは偶然じゃない。
これは――誰かが、止めた。
俺が、逃げ切ってしまう前に。
世界が静止したその中心で、俺はまだ振り返っていない。
それでも、分かってしまった。
ここから先は、もう言い訳ができない。
そういう夜だ。




