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歪みを見つけた日

 日常というものは、驚くほど簡単に続いていく。

 朝、目を覚まして、顔を洗い、制服に袖を通し、学校へ行く。授業を受け、友達と話し、帰る。それを疑う理由なんて、どこにもなかった。


 松原優は、放課後の教室で鞄を肩に掛けながら、黒板をぼんやりと眺めていた。チョークの粉がうっすらと残り、今日一日の名残りが残っている


「優、帰るぞ」


 声をかけてきたのは、佐藤亮太だった。

 同じクラスで席も近く、気づけば一緒にいることが多い。小学校からの、いわゆる腐れ縁だ。


「もうそんな時間か」


「部活ない日は、マジで一日短いよな」


 他愛もない会話を交わしながら、二人は教室を出る。

 廊下には人影が少なく、夕方特有の静けさが漂っていた。


 昇降口で靴を履き替えた瞬間、優は一瞬だけ胸を押さえた。

 ぎゅっと締め付けられるような、鈍い痛み。


「……」


「どうした?」


「いや、なんでもない」


 亮太はそれ以上気にすることもなく、校門へ向かって歩き出す。

 優もその背中を追った。


 学校を出ると、空はオレンジ色に染まり始めていた。

 この時間帯の景色は嫌いじゃない。自分を許してくれるような、そんな感じがする。


「そういえばさ」


 亮太が思い出したように言う。


「進路調査、もう書いた?」


「まだ」


「優って、将来なにやりたいとかないの?」


 優は少しだけ考えた。

 考えて、何も浮かばなかった。


「……分からない」


「即答だな」


「今、特にやりたいって思うことがなくて」


 亮太は「分かるわぁ」と笑った。


 将来が見えないわけじゃない。

 ただ、“続いている”という感覚が、どこか欠けている。


 住宅街に入ると、人通りは一気に減った。

 犬の鳴き声、遠くを走る車の音、風に揺れる電線。


 その中で、優の胸の痛みは、少しずつ強くなっていった。


 理由は分からない。

 ただ、昔からこうだった。


 ――思い出しそうになると、痛む。


 妹のことを、深く考えようとしたとき。

 あの日のことに、触れかけたとき。


 優は無意識に歩調を早めた。


「優?」


 亮太の声が、少し後ろから聞こえる。


「先帰る?」


「いや……」


 そのときだった。


 視界の端で、何かが“ずれた”。


 ほんの一瞬。

 けれど確かに、世界が噛み合わなくなった感覚。


 優は足を止めた。


 路地の奥。電柱とブロック塀の間。

 そこに――細い亀裂が走っていた。


 最初は影だと思った。

 だが、それにしては不自然だった。


 背景から浮いている。

 奥行きだけが、ありえない方向に引き伸ばされていた。


 まるで、現実そのものに刻まれた傷。


「……見えるわけないよな」


 呟きながら、一歩近づく。


 亀裂は消えない。

 むしろ、近づくほど存在感を増していく。


 空気が歪んでいる。

 音が遅れて届き、風の流れがそこで引っかかっているようだった。


「亮太」


「ん?」


「ここ……なんか変じゃないか?」


 亮太は同じ場所を見て、首を傾げた。


「別に? ただの路地だろ」


 その瞬間、優の耳の奥で低い音が鳴った。

 世界が、軋む。


 亀裂が、わずかに広がった。


 向こう側は、闇だった。

 光がないのではない。

 感情が渦巻いた闇。


 怒り、後悔、悲しみ。

 言葉にならなかった想いが、黒く濁っている。


 心臓が早鐘を打つ。


 ――逃げろ。


 本能が叫ぶ。

 それでも、足が動かない。


 闇の奥で、何かがこちらを見ている。

 視線だけが、確かに存在していた。


 触れてはいけない。

 踏み込んではいけない。


 そう分かっているのに、目を逸らせなかった。


「優、大丈夫か?」


 亮太の声が、やけに遠い。


 次の瞬間、亀裂は音もなく閉じた。

 最初から、何もなかったかのように。


「……今の、見てないよな」


「だから何もなかったって」


 亮太は不思議そうにしながらも、笑って肩をすくめる。


「疲れてるんだよ。早く帰ろうぜ」


「……ああ」


 歩き出しながら、優は何度も振り返った。

 だが、そこにはいつもの路地しかない。


 それでも、胸の奥に残る感覚は消えなかった。


 確かに、世界は歪んだ。

 確かに、自分は“見つけてしまった”。


 夕焼けは、異様なほど赤かった。

 まるで、この世界そのものが、どこかで深く傷ついているかのように。


 その日、松原優はまだ知らない。

 これが始まりに過ぎないことを。

第一話を読んでいただき、ありがとうございます。

よろしければ、引き続きお付き合いください。

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