深夜の駅ホーム
最終電車が去ったあとの駅には、独特の静けさが漂っていた。
さっきまで人の流れでざわめいていた改札口も、もうシャッターが半分閉まりかけている。照明は必要最低限だけが残され、白い蛍光灯の光が広いホームに冷たく反射していた。
ホームの端に立つと、遠くで風が線路を抜けていく音が聞こえる。夏の夜だというのに、鉄の匂いを含んだ風はどこか湿り気を帯びていて、少し肌寒かった。
その時、ベンチの片隅に人影があることに気づいた。
紺色のスーツを着た青年が、片肘を膝に置き、俯いたままじっと座っていた。
髪は少し乱れ、革靴にはうっすら泥がついている。仕事帰りにしては、どこか投げやりな雰囲気をまとっているように見えた。
気配に気づいたのか、青年が顔を上げた。
そしてこちらを見て、ほんの少しだけ驚いたように目を見開いた。
「……あれ、佐伯?」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
十年ぶりに聞く声。振り返ると、そこにいたのはかつての親友、村上だった。
「村上……?」
「やっぱり、そうだよな。久しぶりだな」
互いに苦笑いを浮かべた。照明に照らされた村上の顔には、あの頃にはなかった深い皺が口元に刻まれていた。
大学時代、毎日のようにつるんでいた彼と、こうして再会するとは思ってもいなかった。
ベンチに腰を下ろすと、村上は缶コーヒーを差し出してきた。ぬるくなりかけていたが、ありがたく受け取った。
「お前、今どこに住んでんの?」
「東京。仕事でな。お前は?」
「俺はこっち。ずっと地元だ」
短い言葉のやりとりに、積み重なった時間の重みを感じた。
かつては語り尽くせないほど話題があったのに、今は何から切り出せばいいのか、互いに探り合うように言葉を選んでいる。
缶コーヒーのプルタブを開けた瞬間、ふと村上がため息をついた。
「……今日さ、離婚届出してきた」
その言葉は、夜の静けさの中でやけに大きく響いた。
「そうか……」
「まあ、俺の責任だよ。仕事ばっかで、家庭を後回しにしてきたからな。気づいた時には、もう埋められない溝になってた」
村上の声は、どこか自分自身を責めるように低かった。
蛍光灯の下で、その横顔がひどく弱々しく見えた。
「俺も似たようなもんだ」
「え?」
「去年、婚約してた相手に逃げられた。理由は、俺の優柔不断さだってよ。今になって思えば、その通りだ」
互いに笑おうとしたが、笑いはすぐにかき消えた。
それぞれが失ったものの大きさを思うと、笑いに変えるにはまだ時間が必要だった。
ホームに冷たい風が吹き抜け、足元に置かれた空き缶がカラリと転がった。
「なあ、村上。覚えてるか? 卒業旅行で行った海」
「……ああ。夜通し歩いて、朝日を見に行ったやつだろ」
「そう、それだ。あの時、俺たち、どんな未来を語ってたっけな」
村上は少し考え、そしてかすかに笑った。
「確か……どっちが先に偉くなるかって、しょうもない勝負してたな」
「そうだ。あの頃は、未来が無限に続くもんだと思ってた」
言葉を失い、二人でしばらく黙っていた。
遠くで犬の鳴き声がして、その後はまた静寂が戻った。
ふと村上が立ち上がった。
「なあ、佐伯。もう一度だけ、やり直せると思うか?」
「人生を?」
「ああ」
その問いに、すぐには答えられなかった。
だが、ホームに差し込んできた街灯の淡い光を見ながら、ゆっくりと言った。
「少なくとも、俺たち、まだ生きてる。だったら、また始められるんじゃないか」
村上はしばらく黙っていたが、やがて深くうなずいた。
その目には、少しだけ光が戻っているように見えた。
時計を見ると、すでに日付が変わっていた。始発が動き出すまでには、まだ数時間ある。
二人はベンチに腰を下ろし直し、昔話を少しずつこぼし始めた。
過去は変えられない。
けれど、再び出会ったこの夜のことが、これからを変えていくのかもしれない。
冷たい風が吹き抜ける深夜の駅ホームで、二人は初めて、未来に向かって小さく笑った。
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