川面を吹き抜ける風に
1
悠斗が高校で吹奏楽部に入部した訳は、担任の長沼先生が音楽の先生で、吹奏楽部の顧問だからという、ただそれだけの理由だった。
そのとき悠斗は、長沼先生に頼まれて音楽資料室の片付けを手伝っていた。作業しながら、BGMとして流れていた吹奏楽曲に合わせて鼻歌を歌っていたら、長沼先生が雑談っぽく話しかけてきたのだった。
「塩野は、吹奏楽は好きか?」
悠斗はあまり考えずに素直に答えた。
「ちゃんと聴いたのはこれが初めてですけど、割と好きかもです」
「そうか。じゃあ吹奏楽部に入れよ。部活、まだ決めてなかったよな?」
全く未経験者な悠斗をあまりにも気楽に誘うものだから、気楽な部活なんだろうと思ってしまったのだった。
それに、音楽系の部活なら女子が多そうだな、という下心も少しあった。
◇ ◇ ◇
悠斗の目論見は見事に外れた。
まず、練習が厳しかった。悠斗たち初心者は基礎練習がほとんどだったが、それでも練習メニューが多く、練習時間が長い上に休む暇がほとんどなかった。さらに、基礎体力作りがあるなんて知らなかった。
「これ、ほとんど運動部じゃないか」
と悠斗がぼやくと、同じ1年の翔琉は、
「あぁ、みんな最初そう言うよ」
と、涼しい顔だった。翔琉は中学でもトロンボーンを吹いていた経験者だ。
全然気楽じゃねぇな…… と、悠斗は小さくぼやき重ねた。
そして、もうひとつの目論見。
吹奏楽部の練習室に初めて入ったとき、悠斗は
「げっ!」
と声を上げそうになった。
男子が半数くらいだったのだ。
女子だって半数はいるのだから多いはずなのだが、悠斗がイメージしていたのは圧倒的女子だったので、そのギャップはとても大きかった。
特に、トランペットパートは全員が男だった。
それを見た悠斗は、自分はトランペット以外の楽器にしよう、と固く心に決めた。が、そんな決心とは裏腹に、あっと言う間にトランペットパートに入れられていた。
悠斗がトランペットになった理由も気楽だった。長沼先生が、
「塩野は、資料室で手伝ってもらってたときトランペットパート歌ってたから、トランペットが好きなんだろう」
なんて言うので、その流れでそのまま決まってしまったのだった。
確かに、音楽資料室で聴いた曲のトランペットは音色が爽やかで、悠斗自身もかなり気に入ったのは事実だった。それにしたって安直な。悠斗はさらにぼやきを重ねた。
しかし、そうは言っても、入部してトランペットになったからには、やらねばなるまい。
悠斗は練習に励んだ。初心者特有の、やればやった分だけ出来ることがどんどん増えていくのも、悠斗には大きな喜びで楽しかった。
2.
(トランペットって、色んな音が出るんだなぁ)
悠斗は感心する。悠斗たち初心者は、先輩たちの合奏練習を見学していた。
先輩たちのトランペットは、パワフルで元気で派手なイメージのある、さすが男集団と言えるような音だった。かっこいい。心がワクワクしてくる。
(あの音を出すこともあるのかな……)
悠斗の耳には、音楽資料室で聴いた、あのトランペットの音色が強く残っていた。あの音を、できれば生で聴きたい。
先輩の音を「元気な音」と表現すれば、音楽資料室で聴いた音は「美しい音」と言った感じだろうか。ひと言で表すのは、どの言葉を選んでも微妙に外してるような、座りの悪さを感じるけど。
その後も何度か、合奏練習を見学する時間はあったけれど、悠斗がイメージする「美しい音」を先輩たちが出すことはなかった。先輩の音も、曲によって、曲の場所によって、音を変えているのだけれど、何か根本的に違うような。
◇ ◇ ◇
(あの音もあると良いと思うんだよなぁ…… でもどうすれば…… 俺がゆくゆく、そういう音を出せるようになればいいのかな……)
部活が休みの日曜日。悠斗は、駅前の楽器店に出かけた帰り、そんなことをつらつらと考えながら歩いていた。休みの日にもそんなことを考えてしまうくらいには、悠斗も部活にはまりこんでいた。
悠斗の家の近くには、川にかかる橋がある。考え事に丁度良い橋で、悠斗はかなり気に入っていた。「そういう音」を出すには、どんな風に練習すればいいのか。考えをあれこれ巡らしながら、ゆっくりと橋を渡り始める。
そのとき、悠斗は、川面を吹き抜ける風にのって、耳にそっと触れるように届く音にハッとした。
これ、トランペットの音だよな……?
トランペットに間違いない。しかも、あの時音楽資料室で聴いた、あのトランペットに近い音のように感じた。真っ直ぐで素直で軽やかで、パワーもあるけれどしなやかで、音が弧を描いて遠くまで飛んで行くような、そんな音色。フォルテッシモからピアニッシモまで自由自在で、大胆さと繊細さを合わせ持ったメロディライン。
悠斗は完全に、そのトランペットの音に吸い寄せられた。夢中になって辺りを見渡すと、橋から降りた先の堤防の階段で、トランペットを構えている高校生くらいの女の子の姿が、遠くに見えた。
悠斗の心拍数が上がる。橋を戻り、堤防の道に入り、足を早めて近づいていく。だんだん女の子の姿がはっきり見えるようになって来て、悠斗はハッと足を止めた。
トランペットを吹いていたのは、同じクラスの…… まつ……?だったかな? 制服ではないから雰囲気がちょっと違うけど、とにかくクラスメイトだった。
悠斗は、今度はゆっくりと歩き始める。クラスメイトなら少しばかり声を掛けやすい。彼女がトランペットを下げたタイミングで、
「あの……」
と、声を掛けた。
彼女が振り向く。真っ直ぐな視線を受け止め、悠斗はドギマギした。しかし有り難いことに、その子は
「あぁ!」
と笑顔になった。悠斗は密かにほっとする。その子は笑顔で続けてくれた。
「同じクラスの…… ええと、ごめん。まだ皆んなの名前覚えてなくて。しお……の?」
「塩野悠斗」
「そうそう! 塩野くん。私は松井由美」
そうだ、松井さんだ。
由美は少し、くだけた笑顔になって聞いてきた。
「こんなところで何してるの?」
それはこちらのセリフだ。でも聞かれたことには答えておこう。
「楽器屋さんに行って来た帰りでさ、家がこの橋の先なんだ」
「へぇー!私の家、このすぐ裏!」
「おぉー。じゃあ橋を挟んでご近所さんだね」
「ご…… ご近所?」
由美は可笑しそうにクスクス笑った。無理もない。トランペットを吹いていても咎められないほどの河川敷だ。橋の長さは優に500mはある。
「それよりもトランペット……」
「あ、うん。前からやっててね。好きなんだ、トランペット」
好きなんだ、トランペット、と言うときの由美の笑顔が素直な子供のようで、すごくかわいい。
「そういえば、塩野くんは吹部だよね? 長沼先生に入部届出してたから」
「うん。ほとんど成り行きで入っちゃった感じだけどね。トランペットだよ」
「そっかー。楽しい?」
「うん。楽しいと言うか、めちゃ頑張ってる。てか、こんなに頑張んないとダメな部活だとは知らなかったよ。思ってたより男多いしさー」
由美はまた可笑しそうにクスクス笑ってる。
「確かに里高の吹部は男子多めだよね」
悠斗たちの高校は下里高校といって、皆は里高と呼んでいた。
「成り行きで入っちゃった、てことは、中学の時は、やってなかったの?」
「うん。全くの初心者。長沼先生に頼まれて音楽資料室の片付けしてた時にさ、流れてた曲をそのまんま鼻歌で歌ってたら、先生に勧誘された」
「長沼先生って、そんな感じだよね。クラスの全員を勧誘してるんじゃない?」
由美はまた笑った。よく笑う子だな、と悠斗は思った。笑顔も可愛い。それに、はっきりと喋る明るい声に、悠斗は惹きつけられた。
「松井さん、そんなにトランペット上手いのに、吹部入らないの?」
由美は少し寂しそうな笑顔になって、
「うん…… 私、部活に出られない日が毎週あってね。だから、皆んなに迷惑かけちゃうから、吹部には入らないんだ」
「え、でも、そんに上手いんなら、少しくらい練習に出られなくたって……」
練習に出なくても上手い、という状態があり得ることが、悠斗にはいまひとつ想像できなかったが。
由美は、ほんの微かに苦しそうな顔になって、
「うーん、そこは難しいところなんだけど、上手だったらいいって訳にはね。吹部は皆でやるものだから」
「皆でやるものだから……?」
言葉は理解できるのだが、その心が分からない、悠斗はそんな気持ちになった。
由美は自分に言い聞かせるように言う。
「皆んなで毎日頑張って、努力して、そうやって目標に辿り着くものだから」
「練習出ない人が、最後の美味しいところだけ取っていくのはダメみたいな?」
「そうね。例えばさ、サッカーとかだったら、パスの練習とか毎日して、チームとしての動きを作り上げていくでしょ? それが、試合当日になって、今まで練習に出ていなかった人が入って、その人がどんなに上手でも、チームワークは取れないじゃない?」
お!それなら分かりやすいかも。
「松井さん、サッカーにも詳しいの?」
「ううん。友達にサッカー部の子がいたから、受け売り」
由美は、今度はいたずらっ子のような笑顔になった。
「そっかー。でも、週に1日って、逆に考えれば、練習出られる日の方が多いんだよね?」
「そうね。でも、曜日が決まってる訳じゃないし、週に1日じゃなくて、2日とか3日とかになっちゃうこともあるし」
「あの……」
ほとんど初めての会話なのに、立ち入ったことを聞いてしまっては嫌われるだろうか。でも悠斗は聞かずにはいられなくなった。
「あの、体のどこかが悪くて病院に通ってるとか……?」
すると由美は意外そうな顔をして、それから笑顔に戻り、
「あぁ!ごめん、そんなんじゃないよ。」
と笑った。悠斗はほっとする。
「トランペットの先生のレッスン受けてるの。先生、プロのオーケストラの方だから、スケジュールがまちまちでね。あとは私のコンクールが近くなると、集中的にレッスンが入ったりとか」
練習に出なくても上手い、というのはそういうことか。悠斗は納得した。それにしても。
「すごいな。なんか、余計に吹部に来て欲しくなっちゃう」
「ふふ。ありがと。でもこればかりはね。私、中学では吹部だったんだけど、練習出られないから途中で辞めたの」
「そうなんだ……。里高吹部は違う、ってならないかなー」
由美は明るい表情のまま、口をきゅっと一文字に結ぶ。そして、
「うーーん、難しいんじゃないかな。私は私で、吹部辞めたときもその後もいっぱい考えて、もう気持ちの整理はついてるから、いいんだよ?」
と、悠斗に笑顔を向けた。
「そうか……」
もう気持ちの整理はついてる、なんて言われたら、なんだかこれ以上は立ち入ることが出来ない気がする。悠斗は残念な気持ちになって、由美のトランペットを見つめた。
由美はそんな悠斗の気持ちを察してか、
「塩野くんは、中学のときは何部だったの?」
と、別の話題を振ってきた。
そのあとは、悠斗と由美は色んな話題で盛り上がった。
お互いの中学時代の話、長沼先生のノリの軽さの話、英語の課題がキツすぎるという話、英語の話から勉強の話、勉強の話から下里高校を選んだ理由の話、下里高校の話から受験の思い出話、受験の話から家族の話、家族の話から好きな夕飯の話、夕飯の話から苦手なものの話、というふうに。
悠斗は、
(松井さんと話してると時間を忘れるなぁ)
と、心をわくわくと躍らせながら思う。しかし、時間に思い当たった瞬間にハッとして、少し大きな声を出した。
「あぁ! ごめん松井さん! すっかり練習の邪魔をしちゃってる!」
それを聞いた由美は えっ? というような顔をした後、笑顔に戻り、手をぶんぶんと横に振りながら言った。
「いいのいいの! ここで吹いてる時は練習というより、トランペットで遊んでるようなものだから。基礎練やったり、いま練習中の曲も吹いたりするけど、思いつくまま吹きたいように吹く、っていう時間が欲しくてね」
そうは言っても、由美も悠斗も堤防の階段に座り込むほどに時間が経っていた。そろそろ由美を邪魔するのは、いい加減にしないといけない頃だろう。
「それにしたって、ほんとごめん! 楽しくなっちゃって」
そう言いながら立ち上がる。それでも名残惜しさを感じた悠斗は、少しだけ勇気を出した。
「松井さん」
「ん?」
「俺、橋の上で松井さんのトランペットが聞こえて、それで、居ても立っても居られなくなったんだ。松井さんの音、すごく好き。また聴きに来てもいい?」
嬉しいことに、由美はにっこりと笑って言った。
「いいよ。塩野くんが居てくれた方が張り合いあるし。日曜のこの時間は大抵吹いてるかな。たまに居ないけどね」
「うん。ありがと。あの、松井さん?」
「うん?」
「色々話してくれて、ありがとう」
由美は親しげな笑顔になった。
「私の方こそ、声かけてくれてありがとだよ。吹部の練習、頑張ってね」
「うん。また明日学校で」
「また明日ね!」
ひょっとしたら、この日だけで数ヶ月分くらい話したのかも知れない。最初は名前もあやふやだった由美が、今ではクラスの中で一番近いくらいに感じる。
それは由美も同じだったのか、翌朝登校すると、
「おはよー!」
「あ!おはよー」
と、笑顔で手を振り合うくらいにはなっていた。
3.
その日以来、悠斗は毎週日曜日、欠かさず河川敷に通うようになった。悠斗の目標とする音が、音楽資料室で聴いた音から由美の音になるまで、それほど時間はかからなかった。
由美の姿勢、由美の息遣い、口の形、音出しまでのアップの方法、練習メニュー、指の形まで。悠斗はそばで聴きながら、由美の全部を観察した。そのうち、悠斗自身もトランペットを部から借りて来て、由美と一緒に吹くようになった。
由美が言った通り、由美が河川敷に来ない日もあった。元々言われていたことだったので悠斗は気にしていなかったが、その翌日、由美は、
「ごめんごめん! 今度からはちゃんと連絡するね」
と言って、メッセージアプリのIDを悠斗と交換してくれた。
◇ ◇ ◇
由美の音に近づくこと、それ以外にも、悠斗にはやりたいことがあった。練習を休みがちになるという由美を、自分の吹奏楽部が受け入れるということだった。しかしこちらは、悠斗が想像したよりも困難だった。
先輩に話してみるのが一番だろう、と考えていた悠斗が、ある日、午後の部活のために楽器部屋に入ると、そこには晃一がいた。同じトランペットの3年生だ。
悠斗は「こんにちは」と挨拶をし、チャンスとばかりに、やや食いつき気味で話しかけた。
「神崎先輩!」
「おう、なんだ?」
晃一は軽い感じで返事をする。悠斗は勢い込んで続けた。
「俺のクラスにトランペットがすごく上手い子がいるんですよ。松井由美さんって言うんですけど、この間、たまたま練習しているところを見かけて……」
すると晃一が、由美の名前を聞いたとたん、急に固い表情になって悠斗を見たので、悠斗は言葉を飲み込んだ。
「知ってるよ。東中のトランペットだろ? 途中で辞めたよな」
「そうらしいですね。でも松井さん、すっごく音がいいと言うか、メロディラインが綺麗と言うか、とにかく凄いんです。うちの部に入ってもらえば……」
今度は晃一の方が、やや食いつき気味に答える。
「だけど練習にはあまり出られないらしいじゃないか。吹奏楽は1人でやるものじゃないんだから」
悠斗は、自分よりも晃一の方が、元から由美に詳しいことに驚いた。だったら……
「でもですよ、松井さんがうちに入部したら、すごく良いと思いませんか?」
悠斗は畳みかけた。すると晃一は、じっと悠斗を見つめて、低い声で言った。
「本人がここに来ないんだから、しょうがないだろ? お前、そんなこと気にするなら自分の音を気にしろよ。こんなとこで油売ってる場合かよ」
そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
悠斗は口をつぐんで晃一をじっと見据え、それから目礼だけして自分の楽器を持ち出すと、練習室へ向かった。
◇ ◇ ◇
吹奏楽は1人でやるものではないから。
由美も同じことを言っていた。
1人でやるものではないから入部しない由美と、1人でやるものではないから入部させない晃一と。
ただ、同じ様に見えても、晃一は明らかに由美を拒絶していた。一体何なんだろう?
本当は入部させたいけど、練習に来れないから仕方なく入部させない、というのなら分かる。でも、そんな雰囲気ではなかった。自分の知らない由美の一面があるのだろうか。
中学でも吹奏楽部だった1年生にも聞いてみよう。そう考えて悠斗は練習室を見渡し、トロンボーンのスライドの手入れをしている翔琉に目をとめた。譜面台を倒したりしないよう、気をつけながら翔琉のそばまで移動し、声をかける。
「なぁ翔琉」
「ん?」
「東中からうちの高校に来た松井さんって知ってる?」
「知ってるよ。トランペットで辞めた人でしょ」
(やはり。松井さんって有名なのか?)
「松井さん、うちに入部したらいいと思うんだけど、神崎先輩に言ったら、なんか拒否られたよ」
「ああ? そりゃおまえ、神崎先輩にそれ言っちゃあダメだろ」
「なんで? 松井さんが入った方がうちの部のためだと思うんだけどなぁ。練習は出られるときに出る、っていうんじゃダメなのかな」
「吹奏楽は1人でやるもんじゃねぇしな」
翔琉まで同じことを言う。吹奏楽部界隈の合言葉なのだろうか。"皆んなは1人のために、1人は皆んなのために" みたいな。
「でも、あの音は、絶対うちにあった方がいいと思うんだよなぁ」
すると翔琉は呆れたように悠斗を見やって、
「そりゃそうかも知れんけど…… って、そうか、悠斗は吹部1年生だもんな。分からんか。」
と、なんだか突き放したようなことを言う。
確かに自分は吹奏楽部初心者ではあるけど、上手い人を仲間に入れたいというのは、どの部だって同じなのではないだろうか。悠斗は少しむっとして、
「なんだよ? 松井さんってそんなに問題ある人なのか?」
と言い返した。しかし翔琉は、もうこの話は終わりにしたい、というオーラを出しまくりながら、
「分かってねぇな……」
と小さく言って、トロンボーンを構え、音を出し始めた。
全然分からなかった。確かに練習は休みがちになるのかもしれないけど、あれだけ吹ける人なら部にいた方がいい。何より、今のトランペットパートには無い音が、彼女にはあった。それでも拒む理由とは何だろう?
晃一にしても翔琉にしても、決して気難しい人ではない。晃一は頼れる先輩で、いつも丁寧に教えてくれるし、悠斗のことを後輩として可愛がってくれている。翔琉は、悠斗が吹奏楽部で最初に仲良くなった同級生だ。部活帰りには、お互いに冗談を飛ばし合いながら夜道を歩く仲だ。
そんな2人が由美のことを避けるのは、どういうことなんだろう?
悠斗はいつもの由美を思い描いてみる。河川敷でトランペットを吹く由美、笑顔で色んなことを話してくれる由美、真剣な面持ちで授業を受ける由美、休み時間に友達と笑い合う由美、悠斗とふざける由美。
どう思い浮かべても、避けられる理由が由美にあるとは思えない。それとも、悠斗は好感を持って由美に出会ったので、どうしても贔屓目に見てしまうのだろうか。
しかし、もしそうだとしたら、翔琉なら「悠斗は気づいてないかもしれないけれど、実は、松井さんはヤバい奴なんだぞ」くらいのことは言うはずだ。
晃一も翔琉も、由美とは違う中学校なのに、由美のことを知っていた。そして思い返してみれば、翔琉は由美を拒否するというよりは、由美の話題には触れたくない、という雰囲気だった。中学時代の由美に、何があったのだろう。
◇ ◇ ◇
その日の練習を、悠斗は悶々として過ごした。練習はきっちりこなしたけれども、気分が晴れない。由美が入部するのは論外なのだろうか。
(同じ東中出身の人はどう思ってるんだろ……?)
由美が部活を辞めたときに、同じ中学で吹奏楽部にいた人なら、もう少し納得のいく話が聞けるかもしれない。
小休憩のときに部員名簿を見たら、由美と同じ東中出身の部員の名前が1つあった。2年生オーボエ半沢瑠奈。
悠斗は、瑠奈とは面と向かって話をしたことはなかった。しかし、挨拶をするといつも笑顔で返してくれる。あの先輩なら、何か教えてくれるかもしれない。悠斗はそう考えた。
部活が終わって、楽器部屋へ向かっている瑠奈を、悠斗はそっと呼び止めた。
「瑠奈先輩……」
上の名と下の名のどちらで呼ぶかは、周りの人がどう呼んでいるかで大体決まる。
「あら塩野くん。珍しいわね、私に用事なんて。どうしたの?」
「あの、瑠奈先輩は東中出身ですよね。トランペットの松井さんって、何があったのかな、と思いまして……」
「あぁ!由美のことね!……じゃあ、帰りながらちょっと話そうか。自転車置き場までだけど」
晃一と翔琉の反応から、由美のことはタブーに近いのかと思って、出来る限り小さな声で呼びかけたのに、瑠奈はあっけらかんと大きな声で応える。
◇ ◇ ◇
「塩野くんは高校から吹部だよね。由美に興味持つなんて、何かあったの?」
校舎を出て、自転車置き場へ向かって歩きながら、瑠奈が屈託のない笑顔で聞いてくる。悠斗はこれまでにあったことを洗いざらい話した。由美の音に出会ったこと、毎週のように聴きに行ってること、晃一や翔琉のこと、全部。
悠斗が話し終えた時には、すでに自転車置き場に着いていたけれど、瑠奈は自分の自転車の籠に荷物を入れて、そのまま立ち話をしてくれた。
「なるほどねー。それで、由美が辞めた理由を知りたくなったって訳ね」
瑠奈はちらっと悠斗を見て、少し視線を合わせた後に続けた。
「それは気になるわよね…… そうね、簡単に言うとね、由美が、練習は休みがちだったのに、トランペットは抜群に上手だったからだよ」
「チームワークを乱す的な?」
悠斗は、由美がサッカーに例えた話を思い出していた。
「先輩に目をつけられてね。ソロはどうしても上手な子になるじゃない? 後輩が先輩を差し置いて、ってなるのよ。練習に来ないくせに、って」
「でもそれって、トランペット上手くなるために、レッスンに通ってたからなんですよね?」
「そうね。かえってそれが、嫉妬の的になったりするし。あとは、顧問や音楽指導の先生に贔屓されてると思われちゃったのもあるかな」
悠斗は入部して以来初めて、吹奏楽部って意外と面倒くさいところがあるかも、と思った。
「私は、由美が辞めることはない、って思ってたんだけどね。でも由美自身は、いたたまれない気持ちになったと思うよ」
「神崎先輩も、松井さんにソロ取られるとか思ってるんでしょうか」
「んー、そこは分かんないけど、ひょっとしたらそうかもね。あと、他の学校の人には、由美のことあんまり良くない噂で伝わってるかも。トラブル起こして辞めた、みたいな。由美のこと快く思ってない上級生が発信源だもん、きっと」
「他校にまで噂になるんですか」
「由美はとても上手だから目立ってたのよね。運動部だって、そこは同じでしょ?」
「確かに。でも松井さん、普通にいい人なのにな……」
「でしょー?なんでこうなっちゃうのかなぁ」
いつも笑顔な瑠奈が、この時ばかりは悔しそうに顔をしかめた。しかしすぐに表情を和らげると、体を悠斗に近づけて、声を落として言った。
「本当は私も、由美にはうちの部に来て欲しいんだよね。塩野くん頑張って!」
◇ ◇ ◇
瑠奈の話を聞いて、悠斗は納得したわけではなかった。ただ、「吹奏楽は1人でやるものじゃない」という言葉から受ける感覚というか、感情というか、そういったものが、以前とは少し変わったような気がした。決して理想論的な美しい合言葉などではなく、実に人間臭くてどろどろした生々しい言葉のようだ。
ソロを後輩に取られたくない、という気持ちは、悠斗には理解が今ひとつ届かない。理解できない、というより、理解が届かない、という感覚だった。そしてそれは、悠斗がまだまだ駆け出しで、ソロを吹く自分をイメージできるほどにはなっていないからかも知れなかった。
自分も先輩たちのように上手くなれば、また分かることなのかも知れない。悠斗はそう思った。
この先、どう頑張れば良いのだろう。悠斗は悩んだ。晃一のように由美を拒絶する先輩がいたら、由美はこの部でも、いたたまれなくなってしまうのではないか。そもそも、もう気持ちの整理はついていると言う由美は、入部したがるだろうか。
しかし。
「もう気持ちの整理がついている」ということは、気持ちに整理をつけなければならなかった、ということだ。
そして、「もう」ということは、気持ちの整理に時間がかかった、ということだ。
4.
「悠斗くん」
「なんでしょう、由美さん」
最近の2人は、相手に物申したりツッコミを入れたりするとき、ふざけて下の名前で呼ぶようになっていた。例えば、悠斗のペットボトルを由美が取り違えたとき、「ちょっと由美さん、それは俺のお茶」といった具合に。しかし今回は、いつになく真面目な雰囲気だったので、悠斗はおどけて答えながらも、少しだけ緊張する。
「悠斗くん、もしかして、私の音を真似しようとしてる?」
「ん? 最初っから、そのつもりだったけど?」
そう言えば、由美の音が好きとは言ったけれど、由美と同じ音を目指してるとは、あまりにも身の程知らずな気がして、言ったことはなかったかも。悠斗はそんなことを思いながら答えた。
「そっかー。そう思ってくれるのは嬉しいけど。他の人の音も聴いてる? 例えば、先輩の音とか、プロの演奏とか。クラシックとかジャズとかもあるし」
「聴いてると言えば聴いてるけど……」
あんまり聴いてないかも、と言う本音はごくんと飲み込んだ。
「トランペットは私だけじゃないし、悠斗はもっと色んな人のを聴いた方が良いと思うんだよね」
由美は、どちらかと言うと、自分自身に言うように呟いた。悠斗を呼び捨てにしたので、そう見えただけなのかも知れない。ただ、そんな由美の姿を見て、悠斗はだんだん素直な気持ちになって来た。
「俺の中に入ってきた音が、最初に音楽資料室で聴いたのと、由美さんのだったから。言われてみれば、それに夢中になり過ぎて、他の音には耳を向けてなかったかも」
すると由美は、悠斗の方に顔を向けて聞いた。
「悠斗くん、里高の定演に行ったことある?」
「ううん。なにしろ、吹奏楽に興味を持ったのが高校に入ってからだから」
「私、小5の頃だったかな? その頃から毎年行ってる」
「そんなに前から?」
「うん。お姉さんが里高吹部だった友達がいてね、一緒に聴きに行ったのが最初。結構好きなんだ、里高サウンド」
由美はちょっとだけ照れたような笑顔になる。
好きなんだ、里高サウンド。でも里高吹部には入部しない。由美の気持ちにはどれほどの葛藤があるのだろう。悠斗は由美の笑顔の裏に思いを巡らせた。そして、由美が吹奏楽部で一緒に吹いている様子を想像する。
「里高サウンドって、何年も変わらないものなの? その、部員って入れ代わるのに……」
「もちろん少しずつ変わってると思うけど、里高サウンド!っていう感じは変わらないんだよね」
「里高サウンドかぁ。もちろんトランペットも含んでるよね」
「うん。含むと言うか、私はどうしてもトランペットに耳が行っちゃう」
由美の笑顔に、そうなっちゃうんだよね、という雰囲気が加わった。
悠斗は、そんな由美の表情を伺いながら、ほんの少しだけ遠慮気味に言う。
「なんか…… 由美さんが好きって、その、意外というか……」
「私の音と違うから?」
「うん。……でもそれって、絵を描く人が、自分とは違う絵柄も好きになるのと、同じようなものなのかな」
「きっとそれと同じだよ」
由美は悠斗に、にこにこしながら言った。
そしてトランペットを構えて、音出しを始める。「基礎練習だよ」と言って、いつも吹いている曲。その音は、どことなく「里高サウンド」に寄った音のように、悠斗は感じた。
この日のこの短いやり取りは、悠斗の心の中に大きな出来事として残った。最初に河川敷で出会ったとき以来初めて、ほんの僅かとは言え、由美が吹奏楽部の話をしたからだ。これまで吹奏楽の話は沢山してきたけれど、吹奏楽部の話はしていなかった。
悠斗は、瑠奈と話してからずっと、由美の中学時代のことを気にしていた。でも、それを由美に直接尋ねようとは思わなかった。尋ねて聞き出したところで、あるのかないのか分からない「良くない噂」をどうにか出来るとは思えなかったし、それならば、悠斗が無闇に聞き出すものではない、と考えていたからだった。
それが、由美の方が自ら、ほんの少しだけ話してくれた。悠斗は、自分と由美との距離が少しだけ縮まったように思った。
◇ ◇ ◇
悠斗は当然、先輩たちの吹き方も参考にしていた。しかし由美に言われて思い返してみれば、由美の音を見るときよりは、一生懸命さが少なかったかもしれない。
その日以来、悠斗は由美を観察するのと同じように、先輩を観察するようになった。
先輩の姿勢、先輩の息遣い、口の形、音出しまでのアップの方法、練習メニュー、指の形まで。そして、自分でも真似してみて、音がどう変わるのかを、悠斗なりに研究した。
そんなある日、パートごとに各教室に分かれて個人練習をしていたとき、晃一が悠斗に言った。
「なんだよガン見して。こっちが緊張するじゃないか」
そう言いながら、晃一はちょっと上機嫌だ。
「あ、すみません。その、どう吹いてるのかと思いまして」
悠斗がやや恐縮気味に答える。すると、あまり感情を表に出さない2年の秀治が、今回もやっぱり淡々とした表情で、
「そう言えば塩野、おまえ最近音が変わってきたな。誰かのレッスン受けたりしてるの?」
と、聞いてきた。
悠斗は晃一の手前、正直に言ったものかどうか一瞬迷った。しかし、変に隠したところで、ますますおかしな話になるだけだろう。
「青木先輩は、東中から里高に来た、1年の松井由美さんって、知ってますか」
ちらりと晃一を見る。晃一は無表情で聞いていた。かえって怖くなる。そんな悠斗の様子には気づかないのか、秀治は普通に答えた。
「いや、知らないなぁ。トランペット上手いの?」
由美のことを知らない。今となっては逆に、その方が新鮮に感じてしまう。悠斗は、ほっとするような気持ちだった。
「はい。すごく綺麗な音を出す人で、今、俺と同じクラスなんです。実は、その松井さんの練習をよく見せてもらっていて、一緒に吹いたりもしてます。結構参考にしてるので、影響はあるかもしれません」
本当は「影響あるかもしれません」どころか、悠斗自身が積極的に影響されにいってるのだが、そこは表現を抑えた。
「ふ〜ん。なんでまた、一緒に練習するようになったの?」
秀治は素朴な感じで聞く。悠斗は晃一を意識しながらも、正直に答えた。
「松井さんが俺の近所に住んでいて、とは言っても、川を挟んでなので学区も違うんですが、たまたま日曜日に河川敷で吹いている松井さんを見かけたんです。それがきっかけですね」
秀治は、淡々とした口調の中にも、おかしそうな笑いを含みながら言う。
「見かけただけじゃ、一緒にやることにはならんだろ」
なんでそうなる?と、面白がっているようだ。
「そうですね。俺が松井さんの音をすごく気に入ってしまって、それで頼み込んだんです。松井さんの音になりたくて」
「なるほどね。影響があるというより、その音になろうとしてるのか」
はい、その通りです。悠斗は観念した。
秀治は軽やかな声で続けた。
「具体的な目標とかイメージがあるのは良いことだよ。音が変わってきたということは、だいぶ観察して、真似してみたんだろ?」
「はい」
「それにしても、塩野は俺たちのことも、よく観察してるよな」
「この間、里高サウンドをよく聴け、って松井さんに言われたので」
「里高サウンド?」
「はい。松井さんは、そう言ってました」
すると晃一が、少し意外そうに聞いてきた。
「松井さんが、里高サウンドを聴け、って言ったのか?」
「はい。もちろん俺が里高吹部だから、というのはあると思いますけど、松井さん自身、里高サウンドが好き、って言ってました」
「そんなに俺たちの演奏を聴いてるの?」
「定演は、小5の頃から毎年来てるらしいですよ」
話しながら、悠斗はだんだん心配になって来た。聞かれるままに事情を話しているけれども、こんな風にして、由美に関する噂というのは広まったのかもしれない。自分は由美のために良かれと思って話しているけど、それを晃一がどう受け止めるのか、計り知れなかった。もう、これ以上は本人から直接聞いてもらった方がいい。悠斗はそう思い始めた。
「毎年…… なのか。松井さんて、中学のときから音とか変わったの?」
「分かりません。俺は高校からしか知らないので」
事実を答えているだけなのだが、少し突っぱねる言い方になってきてしまう。
「そりゃそうか……」
逆に、晃一が由美のことをどう思ってるのか知りたくなって、悠斗は問いかけた。
「中学の時の松井さんは、どんな感じだったんですか」
「学校が違うからよく分かんないけど、この辺の吹部仲間では有名だったな。1年か2年のときからソロ吹いてたし」
「その、トランペットはどんな感じだったんですか」
「1回聴いたことあったかな。上手かったと思うよ。周りと合うかどうかはともかくとして」
それを聞いていた秀治が、変わらず素朴な感じで晃一に聞く。
「中学でやってたのに、うちには入部しないんですかね」
「やってたとは言っても、途中で辞めちゃったからな。上手くても、他の部員とそりが合わなかったんじゃないの?」
「中学ではそうでも、高校では違うかもしれないですよね。1年生なのにそんなに上手いなら、せっかく僕らの高校にいるんだし、1回は合わせてみたいですね」
秀治のその言葉を聞いて、悠斗は自分の中に光が差し込んでくるような気がした。そうだ、雑念は全部取り払って、まずは合わせてみればいいじゃないか。それが一番のような気がする。悠斗はすぐに反応した。
「あ、じゃあ、俺が松井さんに掛け合ってみますか?」
秀治は悠斗の方に顔を向けて答える。
「そうだね、ちょっと聞いてみてくれる? 出来るだけ早い方がいいかな。神崎先輩もぜひ。みんなも時間が合えば」
秀治は、最後は教室内にいるパートの全員に声をかけた。晃一は黙ったまま、小さく頷いた。
その後はパート練習に入った。悠斗たち初心者が初めて合奏に参加する曲。悠斗は雑念を振り払うように、練習に没頭した。
◇ ◇ ◇
その日の夜、悠斗はメッセージアプリで由美に話を持ちかけた。
『ということがあってさ、由美さんと合わせたいんだけど、どう?』
『嬉しいけど緊張するなー』
『とりあえず合わせてみるだけだよね?』
『うん』
『何の曲合わせるの?』
『里高の三重奏の練習曲』
『それなら初見でいけるからって』
『はーい』
『授業終わったあと、部活始まる前にやりたいんだけど、都合がいい日ある?』
『今週なら木金どちらでもいいよ』
『じゃあそのどっちかで』
『先輩に聞いてみる』
『はーい』
『あとさ、』
『ん?』
『めんどーだから由美でいいよ』
『悠斗』
『ガッテン承知の助』
『なにそれww』
『なんか勝手に出てきた』
『渋い』
『俺のスマホ昭和レトロ』
由美からは笑いを堪えてるスタンプが送られてきた。
悠斗はトランペットパートのメンバーにもメッセージアプリで連絡を取り、その結果、今度の金曜日に由美との合わせをやることになった。
5.
その日の悠斗は、ドキドキと緊張するような、ワクワクと期待するような、とにかくそわそわと落ち着かない気持ちで過ごした。由美が楽器ケースをロッカーに仕舞っているところを見たりすると、なおさらだった。なんてことはない、ただ合わせてみるだけだし。そんな風に自分に言い聞かせたりした。
一方の由美は、悠斗から見れば全くの普段通りで、いつもと同じように友達と笑い合い、悠斗とふざけ、真剣な面持ちで授業を受けていた。
午後の授業が終わり、悠斗と由美は練習室へ向かう。そっと扉を開くと、まだ誰もいなかった。なんとなくトランペットパートの位置に楽器ケースを置く。由美は準備が早い。早速、音を出し始めた。悠斗も自分の楽器を用意した。
ほどなくして、秀治が、続いて晃一が練習室に入って来た。秀治はもちろん、晃一も直接会うのは初めてなので、「はじめまして」の挨拶が交わされる。秀治は何をかしこまっているのか、
「塩野がお世話になっています」
なんて言っていた。
部活が始まるまで、あまりのんびりしている時間はない。それぞれが少し音出しを終えたところで、早速合わせることになった。適当にパートを振り分ける。そのとき、楽器を手に持っていない悠斗を見て、秀治が言う。
「おい塩野、何やってんだ?」
「あ、俺もなんですね」
「お前も里高トランペットだろ?」
そう言われると嬉しい。悠斗は素早く楽器を手に持った。この前、秀治に音が変わってきたと言われた時はとても嬉しかったのだが、それでもやっぱり、自分の音は如何にも初心者な音なので、とてもアンサンブルには参加できないと思っていたのだった。
ザッツ(合図)は晃一が出す。練習室にトランペット三重奏が響き渡った。
(由美って…… 本当にすごい!!)
最初の音を聴いた瞬間、悠斗は激しく感動した。普段から先輩の音も由美の音も深く聴いていた悠斗には、よく分かる。先輩の音にピタッと由美が寄り添っていた。美しいハーモニー。悠斗は楽器を構えたまま吹くのをやめて、そのまま聴き入った。響き合う音の美しさにも感動したし、由美の表現の幅の広さにも感激して、悠斗の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
ぼちぼちと部員が練習室に到着し始める。最初に扉を開けたのは瑠奈だった。急いで来たのか、少し上気している。演奏中の由美たちを見て、にこにこ顔で近づいて来た。
演奏が終わる。悠斗が目をうるうるさせているのを見て、晃一は、
「なんだよ塩野、そんなに松井さんが来てくれたのが嬉しいのか?」
と、ちょっとだけ揶揄うように言う。悠斗は、
「当たり前じゃないですか」
と言いながら、袖で目を押さえた。そんなことよりも三重奏の音に感動していたのだけれど、由美が来てくれた嬉しさも入っていたから、嘘ではない。すると秀治が、
「じゃあパートを替えてもう一回。塩野、今度はちゃんと吹けよ」
と少しニヤッとした。そりゃバレるよな、と苦笑いしながら、悠斗はトランペットを構える。
2回目の演奏中に、トランペットパートの部員が次々と練習室に到着してきて、演奏に合流した。3回目にはパート全員での合わせになった。
◇ ◇ ◇
合わせが終わると、秀治がいつものように淡々と、しかし感心したように言った。
「うん、初めてなのにしっくりくる。松井さんって上手いな」
晃一もそれを受けて、
「だな」
と、短く応じる。
「由美、このまま入部しちゃえば?」
瑠奈が笑顔で、けしかけるように言った。由美は遠慮がちに答える。
「あ、でも、私、練習出られないし」
「時々なんだから、そこは何とかなるでしょ。ねぇ神崎先輩」
瑠奈は晃一の顔を覗き込む。その笑顔を見て、これじゃダメとは言えないじゃん、と悠斗は思った。晃一は気押されるように、
「あ、あぁ」
と頷く。
瑠奈は由美に振り返ると、質問してるけど決定事項、のように言った。
「じゃあ、とりあえずさ、今日吹いてったら? 今日は大丈夫なんだよね?」
由美は笑い出して答えた。
「え? いきなり?」
すると瑠奈は悠斗の袖を引っ張って、
「今日は合奏だけど、塩野くんが吹くくらいだもん。初見でもいけるって」
突然引き合いに出された悠斗は、慌ててリアクションする。
「それどういうことですか…… って、そういうことですよねー」
実際には、悠斗が河川敷で練習している時に由美も一緒に吹いたりしていたので、完全な初見ではないが。
「えと、皆さんが良ければ」
由美は周りを見回した。するとトランペットパートの部員だけでなく、何となく話しを聞いていた他パートの部員まで頷いていた。
端っこの悠斗の席の、さらに隣に椅子を置く。譜面は悠斗と共有する。こうして由美の席を作った。トランペットパートの面々は、
「おぉ〜、うちのパートに女子が……!」
なんて軽口をたたいている。悠斗はそれを片耳で聞きながら、
(あれ? そう言えば、いつの間にか男子の数を気にしなくなってたな)
と思っていた。自分のそばに由美がいればそれでいいや。そんな感じ。我ながら、ちゃっかりしてると思った。
チューニングと、学生指揮による基礎合奏が終わると、長沼先生が指揮台に立った。
「さぁ、この曲は最初の合わせですね。初心者の人は初めての合奏です。楽しんでください。では頭から! 最初に4拍振るので、その後入ってください」
長沼先生が指揮棒を上げ、それと同時に部員も楽器を構える。長沼先生は確認するようにササっと全体を見回したが、トランペットパートの端に目をやった瞬間に、
「おぉっ!松井、来たのか!」
と、手を上げたまま、驚きの声を上げた。部員たちから笑いが漏れる。指揮台の近くに座っているフルートの和美が、呼びかけるように片手を頬に当てて、
「仮入部ですって!」
と長沼先生に言った。長沼先生は笑いながら、
「そうか、仮入部か。でもあれだ、このまま3年まで仮入部しててもいいんだぞ」
と言った。
相変わらず気楽な誘い方だなぁ、と悠斗は思った。
6.
日曜日、いつもと同じように、悠斗と由美は河川敷でトランペットを吹いていた。
きらきらと輝く川面。
遠くでキャッチボールをしている男の子たち。
橋の上を颯爽と走り抜ける自転車。
犬の散歩をしながら堤防の上を通り過ぎる女性。
穏やかな風に優しく揺れる草原。
そんないつもの河原の風景を、由美と自分の音が織りなすベールに包まれながら、悠斗は満ち足りた気持ちで眺める。
あの後、由美は長沼先生に入部届を出して、正式に入部した。練習参加はその都度調整することになった。悠斗は、最初からそれしかないじゃん、なんて思っていた。
あれから晃一は、由美に関して否定的なことは一切言わなくなったし、むしろ気さくに会話している。ソロを取る取らないについてはどう思っていたのか、結局は分からない。由美は入部が遅かったので、少なくとも夏のイベントまでの曲ではソロを吹かない見込みだ。その後は、晃一たち3年生は引退になるだろう。
川面を吹き抜ける風に、夏の訪れがすぐそこにあるのを感じる。悠斗は楽器を下ろして、風が汗を乾かしていく爽やかさをしばらく楽しんだ。
由美が穏やかに話しかける。
「なんか嬉しそうだねぇ」
「そりゃ嬉しいよ。由美と一緒に吹部やれるんだから」
由美は地面に視線を落として、しばらく何かを思ってから、また顔を上げた。
「悠斗は心根が真っ直ぐだよね」
「そうか? 入ってまだ数ヶ月なのに、吹部の人間関係面倒くせぇとか思ってるよ」
「そう思ってても真っ直ぐじゃない? 私、そんな悠斗に嫌われたくなくて、ずっと言えなかったことがあるんだ…… 言っても嫌いにならない?」
「嫌いにならない自信しかないな」
「あのね、里高サウンドが好きだな、って思い始めたの、実は去年の定演からなんだ。私、中学の頃は、本心ではかなり尖ってた。周りの子の練習方法とか、演奏とか、音とか、練習態度も、色々許せなくって。里高の定演も、友達の付き合いで行ってたけど、正直、上から目線で聴いてたかも。隠そうとはしてたんだけどね。それが、吹部辞めてから、ようやく色々考えて、悩んで、それで周りに対しても色んなことが許せるようになってきたの。素直になって聴いたら、里高サウンドっていいな、って思うようになって」
「なんとなく想像はついてたよ?」
由美は悠斗を見て穏やかに微笑んでから、続けた。
「瑠奈先輩は、私の数少ない味方だった。悠斗が話を聞きに行った先輩が瑠奈先輩で良かった!って、あのとき心底安堵したの」
「俺が聞きに行ったこと、瑠奈先輩から聞いたの?」
「その夜すぐにね。悠斗のこと、めちゃくちゃプッシュされた」
「まじか」
由美は、ふふっと微かに笑った後、ちょっと真面目な顔になった。そして続ける。
「でも私、根っこの部分は全然変わってない。これが私なのかも、って思うの。ねぇ悠斗、こんな私でも嫌いにならない?」
「全然嫌いにならないな。由美は明るくて人懐っこくて笑顔も素敵だし」
「仮面だよ仮面! 本当は変に気が強くて、強情で、意地っ張り」
「ただの仮面なら、こんなにずっと続けていられないだろ? 気が強くて意地っ張りなのも、明るくて人懐っこいのも、どちらも由美の根っこなんじゃないかなぁ。俺はそんな……」
由美が好きだよ、と言いそうになって、悠斗は慌てて言葉を飲み込んだ。あれ? でもこれって言っちゃいけないことだっけ? と思っていると、由美が悠斗の言葉を継ぐように、
「私のこと、好き?」
と、少しだけ、はにかむような笑顔を見せた。
「うん。大好き」
悠斗は素直に答える。
由美は爽やかな笑顔になると、声を大きくして言った。
「私、里高に入って、悠斗と同じクラスになって良かった! ねぇ悠斗、あのとき橋の上から私を見つけてくれてありがとね」
「それは、由美の音が聞こえたからだよ。由美が俺を呼んだから、見つけることができた。俺の方こそ、本当にありがとう」
本当は、もっと気の利いたことを言いたい。トランペットだけじゃなく、言葉の方だって、うまく表現できるようになりたい、と悠斗は思った。
でも、悠斗の言葉を聞いた由美が、嬉しそうに微笑みながら頭を悠斗の肩にのせて来たので、良しとしよう。
最後まで読んでくださいまして、ありがとうございます。
恋心が芽生えて育っていくのは、その人と話したり一緒に過ごしたりしている時だけじゃなくて、その人のことを考えながら、他の人と話したり一緒に過ごしたりしている時もだよね、というのを物語にしてみました。
あと、「好き」と言うのは男の子の方だけ、というのも、ちょっとこだわりました。
吹奏楽部のことを吹部というのは、全国区なのでしょうか。