朝起きたら、家族が“姉貴”のことを誰も話さなくなっていた件について【 short short story】
何気ない日常。
ただ一つ違うのは──その日、家族の中に“成美”の姿がなかったこと。
朝の光が静かに差し込むダイニングルーム。
窓際のカーテンがわずかに揺れ、外の風の気配だけが、この家に動きを与えていた。
トーストの焼ける匂いと、コーヒーの香りが食卓に広がる。
「はい、朝ごはんよ」
母の美沙子がそう言いながらテーブルに皿を並べていく。
スクランブルエッグ、サラダ、トースト。
それぞれの分がそろっているが、一つだけ、空の椅子がぽつりと残っていた。
「成美の分もあるけど……食べるのかな?」と、高校生の翔太が口を開いた。
「まあ、置いときましょう」と、美沙子は言いながらその皿をそのままにした。
「成美はどこ行ったんだい?」と、祖母の和子が新聞のテレビ欄を見ながら呟いた。
父の健一は、何も言わず新聞をめくりながらコーヒーを啜る。
普段と変わらぬ光景のはずなのに、そこには微かな違和感があった。
朝の空気が、少し重たい。
「妙に静かだよな」と翔太が言った。「姉貴がいると、朝から文句ばっか言ってんのに」
「今日はちょっと、いろいろあるのよ」と美沙子が曖昧に言った。
誰も、成美が今どこにいるのかはっきりとは口にしなかった。
和子は「ふうん」とだけ言って、ゆっくりと味噌汁を啜る。
昼過ぎになると、美沙子は洗濯物を干していた。
白いシャツの間に混ざって、見覚えのあるボーダーのカットソーが揺れている。
成美のものだった。
「……なんで今日も洗ってるのかしら」と、小さくつぶやく。
脱衣かごに残っていたのを、無意識に洗濯機に入れてしまっていたのだ。
習慣は、思考よりも早く手を動かす。
リビングでは、翔太がスマホを片手にごろごろしていた。
テレビもついているが、ほとんど音は聞こえていない。
祖母の和子がふと立ち上がって、成美の部屋の前で足を止める。
「ちょっと、お掃除してあげようかねぇ」
その言葉に、翔太がびくりと反応した。
「ばあちゃん、ダメだよ。入っちゃダメ」
「どうして?」と和子が不思議そうに言う。
「……わかんないけど、なんか、ダメな気がする」
その場の空気がひやりと冷えた気がした。
翔太自身、なぜ止めたのかは説明できなかった。
ただ、その扉を開けてしまったら、戻れない何かがあるような気がしたのだ。
成美の部屋の前には、ミケがじっと座っている。
三毛猫のミケは、成美が数年前に拾ってきた猫。
ミケは鳴かず、ただドアの前で動かずにいた。
その姿は、成美の帰りを待っているようにも見える。
夕方、空が橙色に染まり始めた頃、リビングには珍しく家族全員がそろっていた、成美以外は……。
健一がビールの缶を開ける音が響く。
それを聞いて、翔太がぽつりと尋ねた。
「姉貴、帰ってこないの?」
健一はしばらく黙ってから、「……お前はどう思うんだ」と返した。
翔太は、少しだけ目を伏せる。
「うざいし、文句ばっかだし、口うるさいし……だけど、いないと……なんか、変。家が静かすぎてさ」
「……そうか」
短い会話の中に、たしかな本音がこもっていた。
「家はね、誰かがいなくても回るものよ」と美沙子が言った。
「洗濯も掃除も、ごはんも。生活は、止まらないから」
でも、と続けようとして、言葉が喉に詰まった。
「でも、何度も呼んでたよ。今日、何回も『成美の分も』って言ってた」と和子が言った。
美沙子は手の中の洗濯物を見つめる。
畳みかけたシャツの一枚が、成美のものだった。
「……そうね、無意識だったわ」
沈黙が落ちた。
ミケが、また成美の椅子に飛び乗った。
丸くなって、静かに目を閉じる。
「お前は……あいつが帰ってくると思うか?」健一がぽつりと呟いた。
和子がふと笑って言う。
「家族ってのは、帰る場所がある限り…帰ってくるもんだよ」
夜。家族はそれぞれの部屋に戻り、リビングは無音に近い静けさに包まれていた。
テレビも消え、時計の針の音だけが時を刻む。
成美の部屋の前に、ミケが座っていた。
今も、ずっと動かずにそのドアを見つめている。
部屋の扉は閉じたまま。
明かりは灯っていない。
ミケは、一度だけ小さく「にゃあ」と鳴いた。
まるで、「おかえり」と言うかのように。
だが、返事はなかった。
そしてまた、夜が深まっていく――
成美の不在は、彼女の存在以上に家族に影響を与えた。
日常の中に空いたひとつの「穴」は、誰にも埋められない。
だが、家族は気づき始める。
その「穴」を見つめ続けることこそが、愛するということなのだと――