万願寺のタイタン と 松の翠 ~魔都の日本酒バル~
夜霧に白い魔道灯の光が滲み、辺りにはお出汁とお醤油の匂いがうっすら漂う。
その昏い裏通りを、一人の人影が足早に歩く。ポケットからチャリチャリと魔貨をまさぐる音を立てながら。
今日こそは、旨いものをいただくのだ。そして旨いお酒を嗜むのだ。
この道を5日ぶりに歩く、その人影の足取りは軽い。
若い女だ。小柄だが、身にまとう聖魔法の霊気は、彼女がひとかたならぬ人物であることを示している。
やがてその女が足を止めたのは、赤いランターンを掲げた酒場。
看板には下手な絵のような、文字のような、不思議なウネウネが描かれている。もっとも、今はどうでもいいことだ。
上等なガラス戸を押し開けようとガシャガシャ音を鳴らし、引き戸だったことを思い出してカラカラと横にすべらせる。
たちまち、微かだったお醤油、みりん、お酒の芳香が濃密に押し寄せる。
「ぇらっしゃい。」
無愛想な中年男性の店主がぼやくように口にするのを聞いてか聞かずか、女はいそいそとカウンター席に座を占める。
*
ここ、魔都は歴史が浅い街だ。31年前、突如現れたダンジョンに人が集まって、村ができた。21年前、第二ダンジョンが現れた。11年前、一晩のうちに魔塔が現れた。
そのたびに集う人は増え、ダンジョンから産出する魔道具も質・量とも向上し、巨大な街になっていった。
そして1年前。今年は何が現れるのか、期待に打ち震える人々を尻目に、何の変化も起きることがなかった。
だが、この女は知っている。昨年、この街に突如現れたのは、ここだ。この店では、この国ではありえないような、この世界のあらゆる交易品でもありえないような素材を使った極上の料理と酒が出てくる。
ただ、それらが独特すぎて、流行っているとはいえない、閑古鳥が鳴いているといってもいい具合だ。今日は一人で静かに呑みたい彼女に好都合ではある。
さあ、今日は何を頼むべきか。いまだ、この店の真髄を究めたとは言い切れない。
「今日のおすすめは、何かしら。」
生唾を飲みながら、漸く期待に震える声で問いかける。
「ん、まいど、ヨランタさん。
…せやねぇ。今日は、立派な万願寺があったんで、万願寺の炊いたんがええね。お酒は、それに合わせて伏見は神聖の“松の翠”で、どうやろ。」
店主が独特の悠長ながら優雅なニュアンスで話す。
言葉はわかるが、固有名詞だけはひどく曖昧に響く。が、彼女、ヨランタの耳にある単語が稲妻のように響いた。
タイタン。神話に登場する世界の始めの巨人。
そも、小柄で非力ながら冒険者であるヨランタの目には、大きく力強い存在は天上の存在に伍するほどの輝きをもって映る。なかでも、タイタンはかつての放浪時代、短期間ながら共に暮らした想い出がある。
誰に話しても決して信じてはもらえない、貴重な、貴重な体験。かの響きだけで目頭に熱が生まれるほどに、彼女にとってかけがえのない、アレだ。
まさか、いかにこの店といえど、まさかタイタンの肉ではあるまい。そんなことを質したら、たちまちに一生の笑い話になってしまうだろう。
思いは千々に乱れるが、とにかく注文だ。かのタイタンの名を冠する料理、見せてもらおう。
その名を飾るような、マンガンジというのはなんだろう。地名だろうか? マンガンジ地方を支配するタイタンの威容を称える料理かもしれない。否が応にも期待が増す。心拍が上がる。
「こちら、突き出し。酒器はどれにします?」
注文を終えてすぐ、店主が料理が盛り付けられた小鉢と、籠に並べられた土塊を持ってくる。
こんなことをやってるから、この店は流行らないんだ。ヨランタは憮然とした顔で土塊を眺める。
小鉢はいい。その酒器と言って差し出す器を見て、ヨランタは思い返す。
一度、冒険仲間をこの店につれてきたことがある。その男は酒器を見てこう言った。
「俺もね、子供の頃、なんか気に入った石ころが宝物に見えて家に持ち帰ったことがあったよ。母ちゃんに捨てられて泣いて怒ったけどね、“そんなに大事なら川原に置いてきたから同じものを拾ってきなさい”って、そんなのわかるわけないよね。いやぁ、そりゃぁ泣いたさ。
そんな感じの宝物の石ころで酒を呑むって、いい歳こいた大人がナニやってんだ。」
あの男は気に入ったものに早口で文句をいう癖がある。そのあと勝手に気まずくなってひとりで帰ってしまったが、言ってることはわかる。失礼なことをされた店主も、なぜだか満足げな表情だったことが印象深い。
土塊にもビゼン、オリベ、シノ、イガ、ハギなど違いがあるという。店主の趣味ではないらしいが、ジキ・石物というのもあって、自分はこっちのほうが綺麗で宝物だと思う。が、ここは最近なんとなく良さがわかってきたオリベの酒器を選ぶ。
店主は嬉しそうに頷く。それより、タイタンを早く。
*
突き出しと言って出てきた小鉢料理は、これも毎度ながら正気を疑うものだ。念のため、店主に問う。
「コレって、なんて名前の料理ですか?」
「え? んー。ブリの刺し身をヅケにしたものと生ワカメを刻んでゴマ油のタレで和えたもの。名前なんかないよ。たぶん。」
そう、この店は魚の生肉を客に出す。その上で「海の魚だから大丈夫だよ」と、歩けば海まで半年かかる高山地帯のこの街で事もなげに宣う。
こんな事をしているから、街で火炙りの処刑が行われるたびにこの店主が受刑者ではないかと心配になっているというのに。
プリプリ怒りながら、名も無い料理を口に運ぶ。旨い。これだけでもう今日という日が完成されたかと思うくらい、脂の甘味、タレの塩気、魚肉のプリプリの歯ごたえ、海藻のクニクニの歯ごたえ、プチプチの歯ごたえは胡麻か。それらがない交ぜになった爆発的な旨味が口から鼻腔まで溢れ出し、脳に駆け抜けて手足の指先までも痺れさせる。
ここで、オリベの酒器を傾けて“松の翠”を手にする。
オリベは、白っぽい岩を思わせる無骨で歪な肌に、苔むしたような深い緑の釉をかけ、白い部分には子供っぽい落書きが描いてある器だ。なんだコレ、と見るたび先述の男の醜態を思い出してクスリと笑みが浮かぶ。
その、カタクチという小振りなポットからグイノミという大きめひと口サイズのカップに注いで、ぐっと呷る。
垢抜けしきらない分厚くゴツゴツした岩肌から、山の清水を思わせる不自然に冷えた酒が口中に流れくる。それは、口の中に残った油や塩気その他を香気とともに喉に流し込み、その最も純な部分を清涼感をもって口腔に満たす。
味は薄く、水のようだ。なのに、見知らぬ花の薫りが夜風に乗って吹き抜けていくのを感じる。この世の生命の尊くかぐわしい部分だけを選び抜いて抽出した水。自分ならこの酒をそう呼びたい。
今、この瞬間、幸せな人生が達成された。酒ならではの熱が体の奥から昇ってくるのを感じながら、深い満足に浸る。
しかし、これはまだ「突き出し」。店主は気分によって「お通し」「先付け」とも言うが、意味は同じらしい。店主の郷の地方ごとに呼び場が違って面倒だ、と言っていたがそんなことはどうでもいい。
メインディッシュはこの先にある。
*
放心して、ズリズリと椅子に座る姿勢がだらしなくなる。本当は、店の奥に見えるザシキという、寝床のようなスペースに寝転がって心いくまで呑みたいと思う。でも、まだ早い。それは、この店の真髄まで究めたと思えたときのために残しておこう。
後頭部がしびれるような酒の余韻を感じながら、椅子に座れば床に届かない足をブラブラさせ、次の料理、タイタンを待つ。
ヨランタの少女時代は幸せなものではなかった。なんだかんだで故郷を飛び出し、独学の神聖魔法ひとつを頼りに各地を放浪し、行き倒れた山中で伝説のタイタンの愛玩動物として一年間飼われたことは人生の転機にもなったが、それは幸せな時間だった。
そのタイタンは女性だったらしい。人間から見れば性別などわからない。が、女性なのなら裸はマズい。そう勝手に思ったので、タイタンサイズの衣服を作るのに要した時間が一年だった。
彼女の身長はヨランタの8倍だった。もし世界中のタイタンが衣服と武器を求めたならば、皮にする動物も、剣にする鉱石もこの世からたちまちに無くなってしまうだろう。だから、彼女らは多くを求めない。
だが、稚拙なりに刺繍飾りを施した雑なプレゼントを差し出したとき、彼女は巨大な目からすさまじい量の涙をこぼして喜んでくれた。
ヨランタにとって、タイタンとはそういう回想の主だった。
「お待ちどぉさんですぅ。」
抱えきれないほどの肉塊を期待していたヨランタの前に供されたそれは、小さなビゼンの器にこんもりと盛られた小品だ。
お醤油でお雑魚と煮込まれた、茶色がかった緑の、肉厚の野菜。
嗚呼。いったい、これのどこがタイタンだ。
かつて、不満を漏らしたことがある。なんで、この店では、肉でも何でも魚味にしてしまうのかと。
「だって、旨いから。」なんて曖昧な反論をされても、納得できない気分がその時にはあったのだ。
そのときは結局、納得に至らなかった。ならば。今日、この料理が決着のときだ。いざ勝負。
店主の見様見真似で学んだ箸を伸ばす。この、お雑魚という素材も初めて見たとき背筋が凍りつくほど異様に思えた。チリメンジャコのワフーピザ。気味悪さに涙し、旨さにも涙し、結局酒が進みすぎてトイレを占領してしまったこと、忘れたい記憶だ。
味が悪いはずはない。期待と違っただけで。…心の中だけで悪態をつきつつ咀嚼する。旨い。
柔らかく煮込まれながらも歯ごたえを残した野菜の青臭みと、ジャコの魚味。甘辛く、ほろ苦い。噛むほどに様々な味があふれ出し、混然とし、ひとつの世界が生まれる。
そこに、松の翠をひと口。常緑、パインツリーのエバーグリーンが世界に新たな息吹を加える。不毛の岩山にすら生えて、栄えて、未来には豊かな土を作る、松。これも、タイタンの眷属に違いない。
思わず、口元に笑みが浮かぶ。派手さはない、地味だが豊かなこの時間が愛おしい。
もうひと箸、野菜をつまみ上げる。ポロッと、おじゃこがこぼれ落ちる。
そうか。不意に、女は理解した。
この緑の野菜は、山だ。おじゃこは、人の群れだ。それらが織りなす世界を掌中に、遥か高みから見下ろす私がタイタンだ。
箸でおじゃこをつまみ上げてみた。店主のように上手くは出来ない、ポロポロこぼれ落ちる。いいんだ、タイタンは道具に頼らない。構わず、残った数匹のおじゃこを口に運ぶ。
どうだ、怖いか。フフフ。……これは、ちょっと違うかな。タイタンの彼女らは長すぎる命、強すぎる力を持つせいで、自分の存在をかけて何事かをなそうという気持ちを忘れてしまっている。
その深い切なさを我々は知ることができない。でも、これを彼女も口にできれば、お互いもっと心を通わせられるんじゃないか。
そう思うほどに、この料理は良い。箸が止まらない。お酒も進む。無限ループだ。
永久に続くかと思われたどうどう巡りは、あっという間に尽きた。お酒がなくなってしまったのだ。
おかわりをするか、違うものに挑戦するか。贅沢な、嬉しい悩みに片口をもてあそびながら浸っていると、店主が口を挟んできた。
「ヨランタさん、酒の味がわかる客にしか出さない“とっておき”があるんだが、どうだい?」
そんなの、もちろん、カモン!
出てきたのは、同じ“松の翠”の“超特撰”、すなわちワンランク上のものらしい。あの、さらに上だなんて想像もつかない。いやが上にも期待が膨らむ。でも、
「お高いんでしょう?」
「そりゃあ、高い。けど、今回は常連様サービスだ、ホラ。」
四角いマスの中に置かれた、滑らかで薄いガラス製のグラスを眼の前に出される。マスもグラスも、土塊とは正反対に極めてシンプルながら均整が取れて濁りひとつない、かしこまった高級感がある。
そこに、中サイズの瓶からトクトクと小気味よい音を立てて、澄みきった液体が注がれ、グラスからあふれ出てマスをも満たす。
女は目を見開いて、いつしか口もポカンと開いて、グラスの縁から盛り上がった酒を眺めている。
注がれ終わって、スッと差し出されると特別な芳香が鼻腔にとどき、やがて全身に広がる。
思考を一旦中断させ、泉に口をつけるようにグラスに口づけし、目を閉じて吸いこむ。
味は、やはり淡い。爆発的な反応は起きない。だが、ゆっくりと、静かに心と体が満たされていく。これは、神酒だ。世界樹の葉に落ちる露を一滴一滴集めて太古のタイタンがつくったという最果ての海に神酒のさざ波が立つ、巨人たちが寝物語に夢見て、いつかそこに憩うことを誓う馥郁たる理想郷に流れる水。
――私は、たどり着いちゃったかもしれないよ。貴女は今どうしてるのかな。懐かしい顔に会いたくなっちゃった。――
眼前の万願寺の炊いたんの山が小さく、遠くに見える。食べて減ったからだが、それだけでもあるまい。離れていた間に心も遠ざかっていた。一緒に過ごした日々はもうどれほど前になるだろう。
優しく、名も無い、不死のタイタンの彼女は、すこし目を離したりうたたねすると毎回毎回、その間に私が老いぼれて死んでいやしないかと独特の長過ぎる生命観でもって慌てふためいていた。
あれから長い年月、私にはいろいろあったけど、彼女には一炊の夢の間だろう。
このお店のものは“ルール”で、外に持ち出せないらしい。ならば、彼女にここまで来てもらってもいい。そうだ、それがいい。今度は逆に、私が彼女をもてなすんだ。
炊いたんの山の向こうから、はにかんだ大きな顔が覗いている気がして、ひとりで大笑いして店主をギョッとさせてしまった。
日本酒、マイ・フェイバリットは新潟の「村祐」ですが、地元びいきでもなく京都伏見の「松の翠」も負けない、本当に日本酒というくくりだけでは信じられないほどのお味です。呑める人は、ぜひ。
超特撰は本当にお高いですが。