閑話 キミの名を呼ぶ
みなまで言いません。甘いのが苦手な方は、飛ばして問題のないお話となっておりますが……一緒に楽しみましょうよ? ね?
† † †
VR機器というのは、一種の万能機器だ。これひとつで現代のネット回線でできることはすべてが行える、と言っても過言ではない。だから、心地よい疲労の中でなんの気なしにベッドの脇に置いてあったVR機器に坂野九郎は手をのばす。
「……お?」
VR機器を被り、フレンド一覧でログインしている相手がいるのに気づく。それを知って、九郎はコールしてみた。
『――はい』
「ああ、どうも。クロです。ディアナ、今は大丈夫?」
『はい、大丈夫ですよ』
八條綾乃との音声のみの通話だ。VR空間で会ってもいいのだが、なんでも綾乃はこっちのほうが好みなのだという。それを憶えていたから、敢えて通話を九郎は選んだのだ。
『クロちゃんこそ大丈夫ですか? シロちゃんとエレちゃんに大体の話は聞きましたけど……』
「ああ、一眠りしたら意識がはっきりしてる。集中し過ぎて、疲れたってだけだから」
薄暗い部屋で九郎は身体を起こす。ふと視界の隅にある時間を確認し、「あ」と声が漏れる。午前二時を少し回ったあたり、少なくとも本来なら眠っているはずの時間だ。
「ごめん、VR機器にログインしてたから……この時間は迷惑だったよな」
『いいんですよ、その……実は、ちょっと待ってたところもありますし……』
「……この時間まで?」
『いつの間にか』
クスリと笑う綾乃の声が、耳をくすぐる。優しく、澄んで、よく通る声。不思議と落ち着くその声に、九郎は苦笑する。
「本当、ごめん。倒れるのは、久しぶりでさ」
『倒れるぐらいゲームに熱中するんですか? よくないですよ』
「うん、わかってる。今はしない……つもりだったんだけどね」
VR機器ごしに見る高層マンションの二五階から見える景色は、見晴らしがいい。住宅地や繁華街は、今も“起きて”いる。あるいは、街は眠らないというべきか。誰かが寝ても、誰かが起きている――そこに昼も夜もないのだ。
「説得力ないよな、うん。今日はごめん。それと、色々後のことをやってくれてありがとう」
『いいんですよ。私、そっちの方が得意ですし……シロちゃんやエレちゃんみたいに、すぐに直接会える訳でもないですから』
お互い共に目を閉じて、相手の声に集中した。自然と、ふたりとも声が普段よりも柔らかくなる。特に綾乃の声はとてもいいから、気を抜くと聞き入って黙ってしまいそうになる――音声のみの通話でそれは致命的なのでやらないが。
『ちょっと、こんな時間に通話が来て、その……驚いてますけど』
「それは悪かったって。起き抜けで、時間のことが頭からすっぽ抜けてたんだ」
『ふふ、クロちゃんでもそういうの、あるんですね。ちょっと意外です』
「そうかな? 抜けるのがしょっちゅうだから、そうならないように気をつけてはいるつもりだけど」
『そこで気をつけるってなるから、ですよ』
「ああ、そうだな。あんまり見せたいもんじゃないしね」
綾乃も九郎も、他愛のない言葉を投げ合う。相手の声が聞こえる、それが心地がよくてただただ止めたくなくなって言葉が溢れてきた。
『そういえば、静さんとは……リアルのお知り合いなんです?』
「大学の同級生だよ。向こうの方が年上だけど……サクっとバレた」
『ちゃんとこういう風に声を聞かせてあげてくださいね? すごく、動揺してましたから』
「……うん。今度は時間を選んでそうするつもり」
『ふふっ、そうですね』
綾乃は、細かいことを聞こうとしない。本当に伝えるべき大事なことなら、九郎から話してくれるという信頼があるからだ。それが今は、とてもありがたい。
「……そういえば、ディアナはどうして通話の方がいいんだ? VR空間で会っても変わらないと思うけど」
『私は声だけのやり取りの方が好きですから。VR空間だと、相手の声に集中するってできないでしょう?』
「ああ、確かに。むしろ、目の前で直接あってる感じがするもんなぁ」
『はい、私はこのぐらいの距離感の方が落ち着きますから』
ただただ、言葉を交わす。『ゾーン』が必要ない、遠い相手と同じ時間を共有しているこの感覚は確かに良いものだと九郎も思った。
「――――」
『――――』
不意に訪れた、唐突な沈黙。この時間が終わってしまう、ふたりは急にそれを先延ばしするように口を開いた。
「ディアナは――」
『クロちゃん――』
同時に名を呼び合い、同時に吹き出す。ひとしきり、発作のように小さな笑みをこぼし合いながら綾乃が言った。
『なんですか? お先にどうぞ』
いや、促されても困る。つい、名前を呼んでしまっただけなのだから――そう言うのが照れくさくて、九郎は話題を絞り出した。
「ん、あ……ああ。なにか、ちゃんって呼ばれるのもくすぐったいなって?」
『ああ、確かに。ちょっと変な感じですよね』
クスクスと綾乃もそう思っていたのだろう、笑みがこぼれる。バーチャルアイドルとしては年上のディアナと年下の黒百合という関係だが、九郎と綾乃は同い年の男女なのだから。
『坂野君……というのもしっくり来ないんですよね、シロちゃん……真百合ちゃんも坂野さんですし……うーん、それに君というのも……』
ぶつくさと考え込み、綾乃は少し経って呼びかけてきた。
『……九郎、さん?』
思わず漏れそうになる声を、九郎は必死に飲み込むことに成功した。まずい、この声にそう耳元で囁かれるように呼ばれると精神的になにかが削れる気分に襲われる。
「…………」
『な、なにか言ってくださいよ!?』
「ん、んんっ。ああ、聞こえてる大丈夫」
『はぁ……じゃ、じゃあ……今度は九郎さんの番ですよ?』
「――はい?」
『私の名前で、呼んでください』
――この時、実はふたり同時に同じ考えに至っていた。
(あれ? なんでこんなことになってんだ?)
(あれ? どうしてこんな流れになったの?)
答えは勢い。雰囲気に飲まれた結果であるのだが、飲まれている内は往々として気づかないものだ。
だから、九郎は一度相手に伝わらないように――本当に通話で良かった、と心から思う――深呼吸。
「……綾乃?」
『ぴ――』
綾乃の方は声を抑えるのに失敗したらしい。ガツン、というなにかがぶつかった音。わずかに入ったノイズから、VR機器ごとどこかにでも頭を打ったのかもしれない。
「……呼べって言っといて、なにをそこまで」
『色々あるんです、色々……っ、ええ!』
「オレの方は別にディアナ呼びでも――」
『え、えっと。リアルでふたりきりの時は、こっちの名前呼びで、いいですから……』
相手が混乱してくれると逆に落ち着くよな、と九郎はくすくすと笑みをこぼしながら思う。
ただどちらも、もう少しだけと思いながら通話を切るタイミングを先延ばしにして、他愛のない話を続けた。
† † †
VR機器が発達して、VR空間が当たり前になった世界だからこそ声だけのやり取りが特別になるのかもしれませんネ?
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