18話 セント・アンジェリーナのボスウサギ(後)
元狩人のハーンは、息を乱しながら木の幹に背中を預けた。
(は、まさか……あんなモノまで……出てくるとはな……)
魔犬だけならば、ハーンは逃げ切れたかもしれない。弓もなく、あるのはナイフだけ。それでも狩人として使いこなしたアーツ《森隠れ》は森というフィールドにあってあらゆるエネミーの五感から気配を消すことのできる強力無比なものだったからだ。
しかし、アレは駄目だ。突如としてガルムの群れを追ってきたかのように現われた、巨大な銀色のガルム――“八体の獣王”が一体双獣王の眷属たるイクスプロイット・エネミー“マーナガルム”。
ハーンは知っている。出逢えば死しかない、偉業をなす《英雄》以外傷つけることさえできない死の獣のことを。
ずるり、とハーンの体が崩れ落ちる。木の幹を濡らすのは、マーナガルムの爪を受けた傷からだ。視界が霞む。ヒュウヒュウ、という自分の呼気さえ遠くに聞こえて。だというのに、狩人として優れた第六感は、マーナガルムが自身に気づき近づいて来るのを察知してしまう。
(死ぬ、のはいい……俺は、元とは、いえ、狩人だ……俺が命を落とす、番が、来た、だけだ……)
霞む視界の中、マーナガルムが自分の目の前に立つ。口を開き、その牙でハーンを噛み砕こうと迫ったきた。
(みんなは……メリーは、大丈夫……だろうか……?)
大丈夫だ、と信じるしかハーンにはなかった。特にメリーは、幼い身でありながら母を失い……そして、自分の不甲斐なさから父まで失わせてしまった。
「……すまない、メリー」
目を閉じ、ハーンはその終わりを受け入れようと――。
† † †
「――謝るな! バカ!」
† † †
『グル!』
マーナガルムが振り向く。真横、駆けてくる小さな影があった。
「アーツ《シャイン・セイバー》、アーツ《トラッシュ》――」
ヒュオン! とマーナガルムの銀色の毛並みを輝かせる純白の光が巨大な剣を形成――エレイン・ロセッティは止まることなく、全速力で突撃した。
「《超過英雄譚:英雄譚の一撃――コンボ:クルージーン・カサド・ヒャン!!」
『グ、ロ、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
ドォ! と全長八メーメルを優に超えるマーナガルムの巨体が光に押し流された。森の木々と地面ごと抉り、悪名高き死そのものの獣が吹き飛ばされる。
「あんたがハーンだろ!? 逃げるぞ!」
「え、あ……」
エレインはわかっている。自分の全力、それで吹き飛ばすことはできても倒すには至っていないと。それを承知で奥の手を初手で使ったのは、順番を間違えていないからだ。
エレインは強引にハーンを背負うと、来た道を戻って走り出した。
「むり、だ……俺を、背負った、ままじゃ、追いつかれ、る……それで、は……」
共倒れた。ただ、犠牲者を増やすだけだ。そう、ハーンは跡切れ跡切れに訴える。単純な算数、免れない犠牲なら少ないほうがいいという残酷な正しさ。ハーンはそれを伝えようと、言葉を必死に紡ごうとする。
「駄目だ! あんた、メリーのパパなんだろ!?」
「……っ」
「だったら、駄目だ! 絶対死なせない、そう約束したんだ!」
残酷な正しさを、優しい間違いが否定する。なんと言えばこの子にわかってもらえるのだろうか? ハーンは薄れる意識の中で必死に考えて――。
「メリーに聞いたこと、あるぞ! ママは、もういないんだろ!? なのに、大好きなパパまでいなくなるのか!?」
止まらず、エレインは走り続ける。獣でさえ全速力で走れない森の中を必死に、ハーンを死なせないために。
「知らないくせに! 知らないくせに!! 大好きなパパとママがいなくなるとな! もう大好きって言えなくなるんだぞ!?」
なにかが、ハーンの腕に落ちた。それは肉ではなく魂を焼く熱を持つ……涙だった。
「寂しいんだぞ!? 辛いんだぞ! そんで、思うんだ……どうして、どうして、もっと……もっと、大好きだって言わなかったんだって! ずっと、ずっと後悔し続けるんだ!!」
「キ、ミ、は……」
それはどこまでも子供の視点、子供の理屈だ。理性ではない、感情のみの言葉。だから、きっと彼女は気づいていない。どんな正しい理屈より、大人の胸を抉るのだ、と。
「ワタシは、メリーのボスなんだ! だから、だから――」
その時、熟練のハーンの狩人としての第六感がマーナガルムの気配を読んでいた。立ち上がり、ハーンを背負ったエレインの倍以上の速度で追いかけて来るのを。
「ワタシと、同じ想いを! メリーにさせるもんかああああああああああああああああ!!」
† † †
エレインの脳裏に、お爺様との思い出が過ぎる。
大きくて、強くて、優しくて。パパとママが亡くなってしまってから、ずっと一緒にいて守ってくれた――正真正銘、本物の騎士。
『もしも助けがほしければ、私を呼べ。世界中のどこにでも、お前を助けに現れるさ。なにせ、お前のお爺様は騎士だからな』
少しがさついて、大きくて、ゴツゴツとしたその手で優しく撫でられると寂しさも悲しさも不思議とどこかに行った。
† † †
「お、爺、様……っ」
† † †
『ま、それでもいつかはお前にもお前だけの騎士が現れるだろうさ――』
† † †
『ガ、ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
「く、そ……!」
もう、マーナガルムが追いつく。木々の障害物などその巨体で吹き飛ばし、ハーンごとエレインを食い千切ろうと迫った。
(な、んて、身勝手な……!)
ハーンは思ってしまった。今になって死にたくない、と。この少女――きっと、娘が笑顔で話していたボスウサギという子なのだろう――と、メリーに同じ想いをさせたくないと、思ってしまったから。
† † †
『――ちょっと癪だが、その時はその騎士の名前を呼んでやれ。見せ場は、そいつにくれてやるさ』
† † †
「―――ク、ロォ、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
† † †
『グ、ガ、ア!?』
「――ォ、オ!!」
ハーンに牙が届く寸前、上から影がマーナガルムの頭に落下。全体重を乗せ、刀を突き立てた。それによって減速したマーナガルムの牙はガチンと空を噛み、そのままガガガガガガガガガガガガガガガガッ! と地面に押し付けられて停止した。
「シロとディアナが、さっきの場所に着いてる。その人を、連れていける?」
壬生黒百合は、マーナガルムの頭を踏みしめたまま視線を外さない。だから、エレインからは背中しか見えない。それでも、エレインは涙で滲むその姿に強く何度も頷いた。
「うん、うん! だから――」
「みんなが来るまで、必ず足止めする。大丈夫」
「うん、うん!!」
頷くことしか、もうできなかった。エレインはハーンを背負ったまま、駆け出した。
「……あー、ちょっとおじさん年を取ると涙腺緩くなるんですけど」
エレインが消えるまで物陰に隠れていたサイゾウが、忍者の演技も忘れて現われた。邪魔をするのが、なんとなくはばかられたからだ。
(気づいてないんだろうなぁ、秘匿回線開きっぱなしだったから、さっきの全部配信されちゃったんだよねぇ)
きっと、ディアナんも止め時を見失ったでござるなぁ、配信で泣いてたでござるし、と自分よりも泣いていた相手を思い出して忍者ロールが帰って来た。ただいま、拙者。おかえり、拙者。
「……悪いけど、無茶に付き合ってもらう」
「構わないでござるよ。拙者、多分、今最高にノってるでござるから」
黒百合は、後方へ跳ぶ。マーナガルムがゆっくりと立ち上がった。黒百合は目元を親指で拭う。親指に残ったのは、涙一滴――それを見て坂野九郎は苦笑する。
(なんだ、お前……まだ残ってたのか)
まだ枯れてなかったか、そのことに軽い驚きを得たが――今は忘れることにした。
『グル……』
「うちのボスウサギが世話になった」
身を伏せて構えるマーナガルムに、黒百合は刀を構えてにじり寄る。互いに間合いを計り合う。高まる戦意、それが互いに絡み合うようにボルテージを引き上げて行き――極限まで至った瞬間、同時に動いた。
「倍返し程度じゃ、すませない――!」
† † †
エレインのお爺様
エレインがこうなりたいと憧れた人で、気づかない内に恋愛対象の基準になってしまった人。
後々、この作品が好評になったら出番があるかもしれない御方、ご存命です。
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