92話 沈まぬ太陽もない5
† † †
神聖都市アルバ大聖堂、その一室に四人の男女がひとつの机を囲んでいた。
ひとりは聖務騎士団副団長アーデルハイト・フライホルツ。その隣にいるのは、聖務騎士団団長ジークハルト・シュトラウスだ。
「初めて吸血鬼の撃退に成功したか……やはり英雄、見事なものだ」
ジークハルトは四〇をいくつか超えた壮年の男だ。灰色に近いくすんだ銀髪、荒削りな顔立ち、その一九〇近い巌のような体躯の纏う空気は歴戦の騎士のそれだ。
「新たに加わられた《英雄》壬生黒百合殿だけではなく、ひとりひとりの活躍が大きいかと」
「うむ。あの連携は我らも取り入れて良いやもしれぬ」
アーデルハイトの進言に、岩をこすり合わせたような低い声でジークハルトは肯定する。その視点はどこまでも武、引いてはこの神聖都市アルバの守護のためにあった。
「その話は後ほどに願いますかな、サー・ジークハルト」
そう窘めたのは、コルネリウス枢機卿だ。年はもう八〇を超え、白髪に長い髭をたくわえた老人だが、その背はピンと伸び声の張りや瞳の輝きに老いは感じない。ジークハルトが聖務騎士団という教会の剣であれば、コルネリウスは教会の生き字引にして聖典とも言うべき存在である。
「事態の悪化は止まったといえど、好転はまだしていないのです。恐れ多くも聖女の命を狙う吸血鬼が、未だ存在していることこそ憂慮すべきだ」
「それは重々承知しております」
そこを突かれれば、聖務騎士団側も黙るしかない。ヴラドとは、本来であれば聖務騎士団が討伐すべき対象だ。しかし、イクスプロイット・エネミーは英雄でなければ討ち取ることはできない存在だ。
「コルネリウス翁。むしろ、耐え忍び聖務騎士団が控えてくださっているからこそ被害が最小限度で収まっているのです。まずはそのことをお忘れなく」
そう告げるのは神官服姿の、お硬い雰囲気の女性だった。神官サンドラ――神官としての位はコルネリウスに遠く及ばない彼女だが、聖女付きの神官の纏め役としてこの場に座っている。謂わば、聖女という教会の象徴を支える者がサンドラだ。
――剣、聖典、象徴。この三つの権力こそが、聖務教会の三本柱と言うべき存在だった。
「わかっておる。今回集まってもらったのは他でもない、今後の防衛を英雄の方々といかに連携するか――」
彼らとて、全てを英雄の手に委ねている訳ではない。彼らには彼らにしかできないことを――矜持と義務感が、確かにそこにはあった。
† † †
聖女エミーリアは、ふと窓の外に興味を惹かれた。
「あら」
そこから見る光景は、彼女にとってお気に入りのひとつだ。聖女の間、高く遠くを見通せるものの白亜の聖都はどこか精巧にできたミニチュアを思わせて無味乾燥な寂しさがあった。だから、小さくとも動く人が見える聖務騎士団の訓練場は彼女にとって数少ない“外”を感じさせてくれる光景だった。
そんな訓練場で、今日は初めて見るものがあった。トライホーンの背に乗った小さな少女がはしゃぐ姿があったのだ。確か……エレイン・ロセッティという英雄の子だったか?
「――あ」
不意に少女がトライホーンの背でバランスを崩した。そのまま、下まで転げ落ちるのを見て反射的にエミーリアは“踏み”出していた。
† † †
『ヴォア……』
「あははは、ごめんごめん。大丈夫だよ」
背中から落としてしまったことを申し訳無さそうに鳴くトライホーンに、エレインは笑う。むしろ、今のは自分のミスだから気にしないで、とトライホーンを撫でていると、その黄金の輝きが目の前に現れた。
「大丈夫ですか!?」
「……ッ!?」
アーツ“短距離転移”で跳んで来たエミーリアにビクンとエレインが息を飲む。答えられずに固まっていると、御者の老騎士がようやくたどり着いた。
「お嬢ちゃん、怪我はない、か……い!?」
「う、うん……その、大丈夫……」
御者の驚きも当然だ、本来聖女の間にいるはずの聖女様がそこにいたのだから。戸惑いながらふたりに答えるエレイン、そうしている間にトライホーンがエミーリアに顔を寄せた。
『ヴォア』
「ふふ、やっぱりあなた、あの時のトライホーンだったんですね」
「…………」
そのやり取りに、御者は苦い表情を見せる。まさか、再会するなど夢にも思わなかった……かつて、聖女候補に選ばれたエミーリアをアルバへと連れてきた時も、この御者の老騎士は相棒のトライホーンと共にあったのだから。
「エレインさん、だったですよね?」
「……はい」
「怪我は……確かになさそうですね、良かったです」
エミーリアが綻ぶように笑みをこぼす。それにエレインは胸の奥に痛みを感じる。似ていたから、もう二度と笑いかけてもらえない相手に――。
そんなエレインの胸中を知らず、汚れるのも構わずその場に座ったエミーリアはエレインを手招きした。
「エレインさん、こちらへ。怪我はなさそうですけど、髪が乱れていますから」
† † †
――どうしてこんなことになったのだろう?
エレインはエミーリアの膝の上に座らされ、髪を梳かされていた。エミーリアは上機嫌で鼻歌交じりにエレインの髪に櫛を通していく。
『ヴォア』
「そうですね、とてもサラサラで綺麗で。陽の光がこぼれているみたい……」
周囲からそんな仲睦まじく見えるふたりを隠すように、トライホーンはその場に身を伏せていた。唸るトライホーンにそう笑って答えるエミーリアに、エレインは不思議そうな表情をした。
「……この子の言ってること、わかるの?」
「わかりませんよ?」
あっさりとエミーリアは答える。唖然とするエレインに、クスクスとエミーリアは付け足した。
「でも、ニュアンスはわかります。この子はとてもかしこいですから。もう一五年前に一度だけ会った私のことを覚えてくれていたぐらいですし」
「……もうそんなになりますか」
その光景から離れた場所に立っていた御者は、目を細める。聖女候補として選ばれた奇跡の使い手をこの大聖堂に迎え入れるのも、聖務騎士団の任務だ。代々副団長のみが行使を許されるアーツ《転移門》――先代の副団長と共に彼女を大聖堂に連れてきたのも、この御者とトライホーンだ。
――おねえちゃん、おねえちゃん!
――待って! おねがい! エミーリアを、連れて行かないで!
エミーリアが五つの頃、七つの姉から引き離した。それを行なったのは自分だという後ろめたさが今も残っている。結局、泣き止まなかった彼女を慰めたのはこのトライホーンだった。
――ヴォア。
訓練され、鳴くはずのない地竜。御者にとってその時は初めての……今では、一度目の光景だった。
「懐かしいです、家がとても貧しくて。両親はいつも忙しかったから、姉さんとふたりでよくお互いの髪を梳かしあったのですが……私は、どうしても下手で。あ、今は少しは上達したので大丈夫ですよ?」
「……うん」
エミーリアは丁寧に髪を梳かしてくれる。確かに、上達したのだろう。とても上手だ。
「今ではもう、姉さんにはしてあげられないですから……」
どこか寂しそうに笑い、エミーリアは綺麗にエレインのツインテールを整えてくれる。
「はい、できましたよ。こっちもやっぱり似合っていますね」
そう微笑むと、エミーリアが立ち上がる。すると黄金の輝きがエミーリアとエレインを包み、服の汚れを完全に消してしまう。アビリティ《浄化》、本来ならばアーツであるそれは聖女の奇跡として彼女がそこにいるだけで発動するのだ。
「……あら」
不意に、ぎゅうとエレインがエミーリアに抱きついた。その仕草は見た目よりも幼子のそれで、エミーリアは優しく抱きとめその背中を撫でる。
エレインが、息を吸う。その温もりは、とても似ていた。でも――。
「……ワタシのママはね、髪を編んだり結んだりしてくれるのが下手だったの」
ボソリ、と語る自分の母親エマ・ブランソンとの記憶。
「それでワタシが困っちゃうから、結局ずっとただ伸ばすだけになっちゃったけど……でも、一生懸命頑張ってくれたんだと思う、不器用なりに」
「……そう」
過去形で語るエレインに察して、エミーリアはただそう答えるだけだ。
エマ・ブランソンに兄弟姉妹はおらず、一人っ子だった。だから自分の髪ぐらいしかいじる機会がないのに、幼い頃から歌の才に恵まれていた彼女にとって髪は自分ではなく他人に整えてもらうもので。
それでも娘にはしてあげたくて、色々試行錯誤はした……のだろう。その結果は、永遠に出なくなったが。
「……ありがと、エミーリアさん」
「ふふ、どういたしまして」
どうしても重ねてしまう面影を否定するように見上げて言うエレインに、エミーリアは優しく微笑みを返した。ただそれは聖女のそれではなく、どこにでもいる普通の優しい女性のそれだった。
† † †
御曹司から見た歌姫=何でもそつなくこなす、完璧な女性。
一人娘から見た母親=不器用だけど外に見せない頑張り屋さん。
そういうズレは、やっぱりあるのです。
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