余話第29話 〈心臓〉
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急遽余話の更新となりました。次は本編になります。
レンゲは魔力を広げた。雪よりも軽く、霧よりも小さな魔力の粒を、山全体に、満遍なく。
月明かりすらない山肌は、星のかすかな瞬きに照らされほのかに輪郭を浮かべている。レンゲは黒く染まった木々を見下ろせる崖の縁に寝そべり、ふう、と息を吐いた。
「無事に終わりそうかね?」
背後から声がかかる。気配に気づいていたレンゲは、振り返ることなく応えた。
「問題なかろう。あれはなかなかに器用じゃからな」
地面に這わせた尾を跨ぎ、前脚の近くで胡座をかいたマサオミをちらりと見たレンゲが、眼下を顎でしゃくり示した。
「見よ。グラーキ共を次々と斬り伏せておるわ」
「見事なものだ」
ニャオ達の姿は木々に隠れて見えない。しかしレンゲは山中に広げた魔力で細かな動作を感じとることができ、マサオミも、レンゲの魔力に触れることでそれらを知ることができた。
「剣捌きや身のこなし。どれをとっても騎士団員と同等か、それ以上だ。獅子獣人としての能力を充分に発揮できればまだ強くなれる。あの子をほしがる者がどれほどいるだろうか」
「やらぬぞ」
即座に返したレンゲに、マサオミは笑った。
「君はそうでも、ニャオ君はどうだろうか。エルゲ君達と親しいようだし、入団はしなくても協力者にはなるのではないか?」
「……否定はできんな。実際何度か手を貸しておるからのう」
「エルゲ君達はニャオ君を保護したかったようだが、今となってはその必要もないぐらいに強くなっているからね」
マサオミの言葉に、レンゲは目を細めて空を見た。
「確かに強くなった。出会った頃よりも遥かに。じゃが、あのレアスキルは不要じゃった」
「……〈獅子の心臓〉か。確かに、好ましくない状況だ」
レンゲの目線を追い、マサオミも夜空を仰ぐ。一際輝く星を、憎々しげに睨んだ。
「戦争の最中、〈狼の心臓〉を発現させた異世界人を思い出すね」
「貴様の側近として仕えた男か」
「そうだ。粗暴だが、情に厚い子だったよ」
「だが死んだ。レアスキルを使いこなせずに」
あっさりと言ってのけたレンゲにマサオミは苦笑した。
「異世界人は我々と違い、生まれながらにスキルを持たない者が多い。大人になって得たスキルが身に合わないものだったならば、それに呑まれても仕方がない。自分に何度そう言い聞かせたことか……」
「言い聞かせたところで、納得もしなければ受け入れもしなかったではないか」
「そうだね」
頷きながら、マサオミは懐から1冊の本を取り出した。中頃を開き、挟んでいた1枚の写真を手に取り、眺める。
「どれだけ考え、悩み、悔やんでも、彼らを巻き込んでしまった自分を許すことはできなかった。召喚されなければ、元の世界に住んでいられれば、彼らは死なずに済んだというのに」
写真の中では6人の男女が微笑んでいる。マサオミの姿はない。再び見ることの叶わない笑顔に、マサオミは小さく息を吐いて写真を本に挟み、懐にしまった。
「それで、君はどう見る? 〈獅子の心臓〉はニャオ君に馴染みそうかね?」
そう聞かれたレンゲは、目線を眼下に移した。
「あれに加護を授けた神を知っておるか?」
返されたセリフに、マサオミは頷く。
「水神だろう? 名まではわからないが」
「そうじゃ。異世界の水神じゃ」
レンゲは立ち上がった。
「クラオカミ様はこう仰られた。水はあらゆる形に姿を変える。器に注がれれば丸く、升という木箱に注がれれば四角く。地に降れば窪みに溜まって歪な水溜まりとなり、陽に照らされれば空気になり、冷えれば氷になると」
レンゲが翼を広げた。星明かりを遮られたマサオミは、鋭く輝く一対の星を見上げる。
「水は弱い。形ある物の中ではその形にしかなれない。だが時に強い。雨となり降れば山を削り、地に溝を掘る。激しく流れれば岩を動かし、砕き、永く滴れば穿つ。一度凍れば肌を切り、雪となれば地上を覆う」
レンゲが後ろ脚で立ち上がる。星に食いつこうとでもするかのように、同族よりも長い首を空に伸ばす。
「千変万化。変幻自在。水神に守られし者は、あらゆる事柄に馴染み、受け入れ、己が力へと変える。生まれ持っての才に左右はされるが、他の神の加護より遥かに柔らかい、とな」
スンスン、と空気のにおいを嗅いだレンゲが前脚を地に下ろす。その顔は誇らしげだ。
「感じるか、マサオミよ。新たなる〈水神の掌紋〉保有者の力を」
言われて、マサオミは空気中に漂うレンゲの魔力に集中した。
ニャオが山を駆けていく。決して走りやすいとは言えない、木々が密集して生える山中を。速度は緩まない。
ニャオの気配を感じて飛び出したグラーキに、遅れて走っていたシシュティがぶつかりそうになった。寸でのところで回避できたのは、兎人の身体能力の成せる技だ。
グラーキはシシュティに棘先を向けた。シシュティが剣を構える。棘先から毒を放とうとしたグラーキが縦に裂けた。
刀を振って、刀身についた毒を払ったニャオがニカッと笑う。目を丸くしたシシュティは、満面の笑みでニャオの首に抱きついた。抱き締め返すニャオの袖から、やれやれ、とソノが顔を出す。
マサオミは感じ取った。ニャオの体に〈獅子の心臓〉の力が行き渡るのを。〈獅子の心臓〉が、ニャオの心臓に根を張るのを。
「大丈夫そうだね。今のところは」
マサオミが言えば、レンゲは力強く頷いた。
「あれが魔物化しかけた時は駄目かと思うた。今までの異世界人と同じ道を辿るのではないかとな。じゃがあれは耐えた。そして今は、〈獅子の心臓〉を我が物にしようとしておる」
「心臓の名を持つレアスキルは得ないに越したことはない。だが完璧に自身のものへとできたのならば、何よりも強い力となる」
「うむ。いっそ使えぬように封印してしまおうかとも思うてはいたが……。もう少し様子を見るとしよう」
レンゲが見つめる先を、マサオミも見つめた。
姿は見えない。だが確かにいる。
期待を持てる、しかし不安が残る若者がいる夜の山を見渡して、2人は同時に目を細めた。




