余話第1話 悪行
長かったので2話に分けました。
老人は走っていた。豪奢な衣が汚れ破れても、息が乱れ足がもつれても、ただひたすらに闇深い森を走り、振り返る素振りすら見せない。
老人を追う足音が在る。人間のものではない。
草は蹴散らされ、木々はしなり、追う者の跡が刻まれていく。
「こんな、こんなところでっ……!」
ぜいぜいと息を吐く老人からしわがれた声が漏れる。懸命に走り続けているが、速度は徐々に落ちている。
地面から突き出た木の根に気づかず、爪先を引っかけてしまった老人は手をつくこともできずに倒れ、顔を強打した。
唸り声を上げて立ち上がろうともがく。その背後に迫る巨大な影が、ぐわ、と顎を開く。
「ぁあっーー」
眼前に歯列。悲鳴は呑まれた。
老人が最期に何を思ったのか、誰にもわからない。
老人は既に、追ってきた影の腹を満たす肉でしかない。
▷▷▷▷▷▷
「儀式は2日前の正午に行われてしまったようです」
「遅かったか……」
悪神ドレイファガスを象った像を苦々しい表情で睨みつけていた男がため息をついた。
邪教であるドレイファガス教の隠し教会にある、地下の礼拝堂。通常の信者では存在すら知り得ないその場所は酷く騒がしかった。
鎧を着た男達が礼服を纏った司祭数名を後ろ手に縛り見張っている。項垂れる者、騒ぎ立てる者、鼻水を啜る者と、様子は様々だ。
少し離れた場所では、礼服を着てはいるものの、どこか浮いて見える男女2人が鎧姿の男と話している。いくつかの質問をした男は、男女に礼を言って像の前にいる2人の男に駆け寄った。
「エルゲ隊長! アーガス副隊長!」
男達が振り返る。
「あの2人は異世界から召喚されたそうです。同じ世界から来たんだとか」
「そうですか、ご苦労様です」
エルゲに微笑まれた男は嬉しそうに尻尾を振った。犬の獣人だ。
「ライド。向こうの見張りを頼まれてくれるか? 馬鹿共がまだ騒いでやがる」
「了解です!」
アーガスに肩を叩かれて、ライドは仲間を手伝う為に走っていった。入れ替わりに、違う犬獣人が近づいてくる。
「フレドリオ司教の他にもう1人逃げたようです。猫の臭いがします」
「猫獣人か。追えるか?」
「いえ、地下水路に潜ったようです。途中までは追えましたが、まるで迷路ですよ」
鼻の利く犬獣人でも、流されたにおいは追えない。悔しそうに唸る部下に、エルゲはにっこりと笑った。
「泳げる猫ちゃんですか。珍しいですねぇ」
「……隊長、オードにゃもうちっと違う言葉をかけてやろうぜ」
「大丈夫です、慣れてます」
頬を引くつかせるアーガスを止めたオードの耳がピクリと動き、礼拝堂の入口に顔を向ける。エルゲとアーガスもつられて目をやった。
コツコツと靴音を鳴らして歩いてくる、ローブを纏った長身の女。爪を黒く染めた指がフードを外し、赤い口紅が弧を描く。
「あらぁ、不思議なステンドグラスねぇ」
耳に纏わりつくような声色だ。
「地下なのに光ってるわぁ」
「ステンドグラスの向こうに光る魔石を埋め込んであるんですよ、イヴァ」
エルゲが答える。
「そうなのぉ? 面白くないわねぇ」
「んなこたぁどうでもいい。フレドリオはどうなった?」
アーガスが急かせば、イヴァは妖艶に笑った。
「大丈夫よぉ。途中にケリュネイアがいたからけしかけといたわぁ」
「それ生きてんのか?」
「今回の仕事は教会の破壊。司教や司祭の捕縛じゃないでしょお?」
「生け捕りに越したことはないですけどねぇ」
あはは、うふふ、とエルゲとイヴァが笑い合う。オードの耳がぺたんと垂れた。
「あの、すみません」
突然かけられた声に全員が振り返る。
「ああ、申し訳ありません。放っておいてしまって」
異世界から来た少女だった。男もいる。
「いえ、あの、あたし……私、柚奈っていいます。高浜柚奈」
「俺は梶順也」
ぺこっと頭を下げる2人に、エルゲもお辞儀を返す。
「エルゲ・ファーバイトです。アシュラン王国ガルネ騎士団エルドレッド隊の隊長を任されております」
「アーガス・ロン。同じくエルドレッド隊の副隊長だ」
「イヴァンナよぉ。イヴァって呼んでねぇ」
「アシュラン王国ガルネ騎士団エルドレッド隊所属、オード・ワイトです。よろしく」
一人ひとりに頭を下げたユナは、震える手を握り締めて尋ねた。
「もう1人は、どうなったんですか? 私達と一緒に来た人は?」
「……え?」
エルゲが目を見張った。
「もう1人いたんです。けど、なんか調べた後に猫の耳が生えた奴に連れていかれちまって……。言葉が通じてないみたいだったし、このままじゃまずいっすよ」
ジュンヤの言葉に、アーガスが司祭達を睨みつける。
「聞いていた話と違うなぁ?」
アーガスの声が低くなる。
「正直に言っていただかなくては」
エルゲが微笑む。
司祭達は揃って震え上がったが、1人が目尻をつり上げて唾を吐いた。
「あのような者喚んだ内に入らぬわ! スキルも加護もない役立たずだぞ!」
「そういうことじゃないの」
イヴァが黒い指先を司祭の額に突きつける。先ほどまでの声色とは打って変わって鋭い。
「召喚の儀そのものが禁術。異世界から喚んでいいのは許可ある者が契約した隣接している異世界の召喚獣だけ。人間なんて以ての外。知らないわけないわよね? スキルだの加護だのはどうでもいいのよ」
「私欲の為に異世界の人間を喚ぶことを禁じられて300年も経つというのにっ!」
グルルルル、とオードが唸る。ヒッと悲鳴を上げた司祭はずりずりと下がり、他の司祭達の間に挟まった。
「正しい召喚術を教わらなかったんですねぇ、可哀想に」
楽しげに、しかし確かな怒りを含ませて声を弾ませるエルゲにアーガスがにやりと笑った。
「そうだな、これじゃあ可哀想だ」
「ええ、なので教えて差し上げましょう」
エルゲの背後で空間が歪み、黒いもやが漏れ出て脚に絡んでいく。
「召喚術の正しき在り方を」
司祭達の悲鳴は、もやから現れた何者かの咆哮に掻き消された。




