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苦手な方はご注意ください。

ホラー系短編小説置き場

ヘッドホンを装着しよう。そして“天使の声”に癒されよう。

作者: 浦切三語

 いま、私の目の前で、人が死んでいる。


 死んでいるのは、友人の沢村だ。


 上下が黒のスウェット姿のまま、『座り心地が良くて気に入っているんだ』と再三口にしていた、アルモニア製の二人掛けソファの背もたれに、百八十センチの痩身を預けて、彼は死んでいた。


 私が今日、沢村の自宅を訪ねたのは、一緒に映画を見に行く約束をしていたにも関わらず、時間が過ぎても、彼が一向に待ち合わせ場所に姿を見せなかったせいだ。


 若干の心配も手伝って、彼の部屋へと向かった。それが、つい三十分前のことだ。


 都内新築の高層マンションの二十三階。その角部屋。インターホンを何度押しても、扉の向こうから生活音が聞こえてくることはなかった。


 ますます嫌な予感がした。だがその一方で、もしかして、まだベッドの上で惰眠を貪っているだけなんじゃないかと、気楽に考えたくもなった。


 私は、私自身を安心させたい気持ちもあって、三年前に作った合鍵を使って中に入った。


 靴を脱いで狭い玄関口を通り、洗いかけの食器類が散乱する広いキッチンを横切り、寝室を無視して、十六畳のリビングへ。


 そうしていま、この状況と対面している……いつかこうなるんじゃないかと、恐れていた状況と。


 変わり果ててしまった沢村の顔を、じっと眺める。死には似つかわしくない、どこか穏やかな微笑みを浮かべているせいで、安眠を貪っているようにも思える。


 だが、うっすらと開かれた紫色の唇の奥で、もぞもぞと動き回る、白く小さな蛆虫たちの存在が、嫌でもそんな考えを打ち消してくる。


 ひどく悲しい心持ちで、私は沢村の死相をじっと眺める。今が冬場のせいだからか。暖房の効いていない部屋だからか。服に顔を近づけても、驚くほどに、人が腐っていく匂いを嗅ぎ取れなかった。


 死後経過してどれくらい経っているのかは、分からない。最後に連絡をとったのが、去年のクリスマス・イブだったことは、覚えている。その翌日に亡くなったのだとしたら、蛆虫たちはもうとっくに、制圧を完了しているのかもしれない。中学の時、潰瘍の手術を受けて、脂っこい料理を全く受け付けなくなった、彼の胃袋を。


 私は警察でもなんでもないから詳しいことは分らないが、一見したところ、沢村の遺体には、外傷らしきものはないように見えた。


 重い持病を抱えていて、発作的に亡くなったのかとも考えたが、それも違うように思えた。そんな悩みを彼の口から直接伝えられたことはなかったし、彼が私に気を遣わせまいと黙っていたんじゃないかと仮定しても、長い付き合いに裏打ちされた洞察力というものが、私には備わっている。傲慢に聞こえるかもしれないが、事実そうなんだから仕方ない。


 彼のことなら、()()()()()()()()()()()。こちらを気遣うような態度を見せれば、それこそすぐに気づいたはずだ。彼の死因は、外傷によるものでも、病気によるものでもない、と断言できる。


 彼は、きっと()()()を視てしまったのだ。


 天使の声を、視てしまった。


 だから亡くなったのだ。


 ヘッドホンを装着したまま死んでいるのが、その証拠だった。







 私と沢村の付き合いは、それなりに長いと言えるだろう。小学五年生の頃、クラスの男子たちから、胸が大きいことをからかわれていた私を、沢村が庇ってくれたのが、腐れ縁の始まりだった。


 中学、高校と同じクラスになり、高校では同じ硬式テニス部に入って汗を流し、帰りにはコンビニに寄って買い食いをしながら、友人や、先生や、昨日見たバラエティ番組や、アニメの話で盛り上がるのが定番だった。私はテニス以外にも、水彩画を描くことを趣味にしていて、県が主催する秋の絵画コンクールでは、それなりの賞を獲ったものだった。


『テニスにしろ水彩画にしろ、夢中になれるものがあるんだから、羨ましいよ』


 ことあるごとに、沢村は私に対して、そんなことを言ってきたものだった。水彩画はともかく、どれだけ練習しても、いっこうにテニスの腕前が上達しない私だったが、部活はそれなりに楽しんでいた。沢村からしてみると、それはとても重要なことらしかった。


『俺、飽きっぽいっていうか、冷めやすいっていうか。心の底から熱中できるものに出会ったことがないし、たぶん、これからも出会えないと思う。なんとなく、そんな気がするんだ』


 いつものコンビニで買い食いをしている時のことだ。スポーツバッグの、閉じかけの口から飛び出した、県大会の個人戦二位のトロフィーへ、つまらなそうに視線を泳がし、彼がそうぼそりと口にしたのを、今でもはっきりと覚えている。それが嫌味に聞こえなかったのは、その時の沢村の目が、とても寂しそうに見えたせいだろう。


 沢村は、一言で表すなら天才肌だった。要領が良いというか、呑み込みが早いというか、コツを掴むのが上手いというか。スポーツも勉強も、ほとんどのことを一発でクリアしていた。鈍くさい性格の私からしてみると、そっちのほうが羨ましいことこの上なかったが、沢村にとっては「何もかもが、自分の想定内のうちに完結してしまうこと」はひどく味気ないもので、退屈さの極みなのだという。


 そんな風にして高校時代を過ごした私たちは、無事に卒業し、大学こそ別々に進学した。けれども、今から七年前の成人式の日に、偶然にも会場でばったり顔を合わせたのをきっかけに、再び交流が始まったのだ。沢村は都内の有名私立大学に通っていて、経営学を専攻しているのを、この時知った。


 成人式での再会から二年後。私も沢村も無事に大学を卒業し、彼は都内に本拠地を置く経営コンサルティングの会社に入社した。外資系の企業経営の改善を手掛ける、それなりに名の知れた会社だった。


 同じ都内勤めとはいえ、理系出身で、分野も全く違う業種へ進んだ私は、“経営コンサルティング”という単語に、どこか浮世離れした印象を持っていた。どういう職業なのか、イメージが上手く湧かなかったが、それでも彼が一生懸命に働いているのは、彼と時折交わす電話口での語り調子から、察せられた。


 土曜も日曜も出勤して、ほとんど休みなく働く。それが沢村の日常だった。労働基準法を遵守する会社らしく、働けば働くほど、時間外手当がきちんと貰えるらしい。この不景気にも珍しく、ボーナスは年間で7か月分も出るときた。経営コンサルティングという職種は、才能が備わっていれば意外と儲かるらしい。


 それにしたって、ちょっと働きすぎなんじゃないの? 彼の体調を心配した私が電話口でそう言うと、沢村は、喜々とした様子で口にした。それは、私が初めて耳にした、沢村の()()()()()()()()()()()だった。


『今度の日曜日、たまたま休みが取れたからさ、一回うちに来いよ。すっげぇもの見せてやるよ』


 それが、今から一年前の、十二月のことだった。




♪♪




 都内の高層マンション。その一室に招かれた私を待ち構えていたのは、上下が黒のスウェット姿の沢村と、リビングに整然と並べられた、黒や銀一色の()()の数々だった。


『これなんか最近買ったんだけど、なかなかいいんだぜ? フラグシップモデルで、サイドがアルミフレームで出来てるから、余計な振動を吸収しないで済むんだ。デザインもかっこいいだろ? 五十万したんだけど、購入した甲斐があったよ。二、三十万の奴と比較すると、音の温もりが全然違うんだ。やっぱり趣味には金をかけてナンボだよなぁ』


 沢村はうっとりとした口調で言うと、いかにも高そうな真っ白いシルクのハンカチーフをズボンのポケットから取り出し、その銀色の光沢を放つ機材を――ただのCDプレーヤーを、優しく、まるで処女の柔肌に触れるかのような手つきで、拭き始めた。


 私の体には、一度だって、そんな手つきで触れたことなどないくせに。


『ピュア・オーディオ愛好家としては、これくらいこだわらないとな。でも、まだまだ満足したわけじゃねーけど』


 ピュア・オーディオ。その単語が持つ胡散臭い響きに、私はいまだに慣れていない。彼曰く、音の“迫力”や“滑らかさ”や“分解能”を第一とする、オーディオマニアの中でも“原理主義”に近い存在なのだと言う。


 そう、沢村は()()()()()()()()になっていた。私の知らないところで。


 彼の十六畳のリビングには、それなりに数のあるCDラックの存在が霞んでしまうほどの、頑強な佇まいを放つオーディオ機器が沢山そろっていた。彼が汗水垂らして毎日馬車馬のように働いていたのは、これらを購入するための資金を獲得するためだったのだ。


 すごく、見慣れない景観だった。何十万、時には百万以上もする大型のCDプレーヤーやデジタルオーディオ機器が、彼曰く“選び抜いた自然の素材”で組み上げられた瀟洒な木目調のキャビネットに、まるで希少な美術品であるかのように、所狭しと収められていた。レトロな装いの真空管アンプやら、いかにもハイエンドという面構えのヘッドホンが、透明のディスプレイケースに、埃一つなく収まっているのも、印象的だった。


『真空管アンプは熱で信号を温めるから、季節や部屋の温度によって音の柔らかさが変わるんだ。冬と夏とで音の具合が変わるのは確かに面白いけど、俺は断然、部屋の温度を常に23℃一定にしたのが好みだな。コイツを維持するのに、業者にお願いして壁の断熱材を変えてもらったりもしたんだ。いやぁ、高かったけど、良い買い物だったよ』


 とりわけ彼自慢の一品は“オーディオシステム”と呼ばれるものだった。どう見ても小型にもかかわらず、それでも一台あたり百万は超えるらしい、“現時点で自分が買える最高品質のシステム”だと、彼は良く口にしていた。


 CDプレーヤーを出発点に、パワーアンプ、プリアンプ、フォノコライザーとやらが接続され、その先には、私の百六十センチある背丈を優に超えるほどの高さを持つ、二台のスピーカーが鎮座していた。ここは沢村の部屋なのに、まるで“主は自分だ”とでも言わんばかりの存在感を放っていた。


『電源ケーブルもこだわってんだよ。オーダーメイドでさ。被膜素材だけじゃなくて、信号を一番良く伝えるよう、長さも調整してあるんだ。ACアダプターも本当は同じメーカーで揃えるべきなんだけど、ちょっと音の滑らかさが足りなかったから、わざわざ別のメーカーのを使ってんだ。音は電気信号だから、電源にもこだわって当然なんだ』


 アンプもこれまたキャビネットに収められていたが、どっちがパワーアンプで、どっちがプリアンプなのか、見た目がそっくりなせいで分からなかった。フォノコライザーが何を意味する言葉なのかも、いまいち把握しかねた。とにかく『これが良いんだ』としか沢村は口にしなかったし、それ以外の言葉でオーディオシステムを説明するのは、不粋だと考えている節があった。


『映像とかは割とどうでもよくて、とにかく音が良ければそれでいいんだ。テレビなんて必要ねぇよ。今時、ニュースなんてスマホやタブレットで十分だろ? テレビもつまんねーバラエティばかりだし、観る価値ねぇよ』


 そう言い張る通り、彼の部屋にはテレビがなかった。パソコンすらもなかった。最初は必要になるかと思い買おうとしたらしいが、パソコンを置くと電波がオーディオシステムと干渉してしまって、音が悪くなるだとかで、結局購入しなかったらしい。


 彼のリビングには、アルモニア製の黒革ソファーと、ガラスで出来たテーブルと、ずいぶんと選り好みしたであろう音響機器と、CDラック。それと、巨大なオーディオシステムしかなかった。彼が高校生の頃に夢中になって読んでいたミステリー作家の本も、一緒にショップに行って購入したアニメグッズも、どこにも見当たらなかった。


 高校二年生の春に、一世一代の勇気を出して私がプレゼントした、果物の静止絵さえも。


 呆気に取られ、狼狽もした。少しばかりの寂しさと不満も抱いた。なによりも――ちょっとだけ、彼のことを()()と感じた。


 けれど、私はそれらの有象無象の感情を一気に押し殺し、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。


 彼は、私という来客があったというのに、お茶の一つも出さず、休みなく舌を回し続けて、三十分以上も喋り倒した。それに対して、私はできる限りの自然さを装った笑みを浮かべて応え続けた。


 それでも、会話の最中に彼が何気なく放った一言に、めまいを覚えそうになったのは事実だ。


『そのうち引っ越しできるだけの金が溜まったら、転職して、思い切って沖縄に一軒家を買おうと思ってんだ。その時に、電柱もセットで買おうと考えてる』


 ()()()()()()? ()()()()()()()()()? どういうこと?


 突拍子がなく、建設的で現実的な価値観から遠くかけ離れた彼の考えが、上手く呑み込めなかった。驚き混じりで尋ねると、沢村は、それまでも十分早い口調で講釈を垂れていたのが、さらにギアを一段階上げたような早口で、まくし立ててきた。


『これ、オーディオ界隈では常識なんだけど、電力会社によってオーディオの音質が変わるんだ。ウチ、いまは東京電力なんだけど、音質がいまいちクリアじゃないんだ。沖縄電力が提供している電力だと、中高域のヌケが違うんだよな。俺もまさかとは思ったけど、SNSで知り合った沖縄住みのオーディオ仲間に、そういうのに詳しい奴がいてさ。試してみる価値、あると思うんだよ。あ、電柱もセットっていうのは、これもまぁ、ピュア・オーディオ界隈じゃ当たり前の話でさ。知ってる? 電柱なんて素人が購入できるのかって思われがちだけど、業者にお願いすれば、十万ちょっとで買えちゃうんだよ。問題は電柱に取り付けるトランスで、こいつが五十万くらいするんだよな。それと分電盤。こいつも音質の向上には外せなくて、選び抜こうとすると数十万はするんだよ。いま考えているのは、衝撃吸収板を取り付けて稼働時の振動を抑えて、それで音を滑らかにしようと考えてんだけど、お前、物理学専攻してたって言ってたろ? 素材はどういうのがいいかな? あ、素材と言えば、あれだ。ネジ。分電盤をトランスに取り付けるネジなんだけど、普通の鉄製のネジだと、音が濁るって聞いたんだけど、ちょっと原理が分からないんだよな。通電した時に鉄製のネジだと磁界っつーのが発生して、音がダメになるってその沖縄のオーディオ仲間が言っててさ。まぁ音に関しちゃ俺より詳しい奴だから、たぶん間違ってないんだけど、なんだっけ。非磁界性? チタン合金製のネジを勧められたんだよ。けどこれも高くてさぁ、一本十万ぐらいすんのな。だから諸々合わせると、電柱をセットするのに三百万近くかかるわけなんだけど、音に悪影響が出るならネジもこだわりたいし、でももうちょっと安くできないか考えててさ。てか、チタン合金以外に磁界とやらを抑えられる素材って、何なんだろうな。お前、そのあたり詳しいだろ? ちょっと知ってたら教えてくれよ』




♪♪♪





 沢村の自宅に招かれた日から、一週間後の日曜日。私はまた、彼の下を訪れていた。前日の夜になって、急に『会いたい』と連絡がきたのだ。


 正直なところ、気は乗らなかった。またこのあいだの日曜みたいに、延々と訳の分からない趣味についての話を、半ば強制的に聞かされるんじゃないかと覚悟していた。


 だけれども、私の予想とは裏腹に、沢村は私を、あのオーディオ機器まみれのリビングに通すなり、開口一番に謝ってきた。


『その、この前はごめん』


 ――なにが?


『いや、呼びつけたのにお茶の一つも出さないまんまで……』


 ――え? そうだっけ? 別に気にしてないよ。


『俺、舞い上がっちゃってたよな。友達をいきなり呼びつけて、ずーっとべらべら趣味の話しかしないって、さすがに我ながら引くわ』


 ――夢中になれるものが見つかったんだから、良かったじゃん。


『それとこれとは別だろ……あー、あと、沖縄に移住するって話、あれ冗談だから』


 ――あ、ああ。そうなんだ。


『あんな馬鹿な話、もうしないから。ごめんな、心配させて』


 ――心配なんて、全然。


『嘘つけよ。俺が沖縄に移住するって話した時、お前、すげー寂しそうな顔してたぞ』


 心臓が、瞬間的に早鐘を鳴らした。


 なんだか、頬が熱ぼったい。きっと、部屋の暖房が効きすぎているせいだ。


『とにかく……この前のことを謝りたくて、それで今日は来てもらったんだ』


 ――別にいいよ。気にしてないからさ。


 嘘。本当は気にしてた――ついさっきまでの、話だけど。


 私はソファに腰かけ、沢村が出してくれたホット・ミルクティーで唇を濡らしながら、しばらくは、お互いの近況の事を話し合った。地元にいる家族の話とか、仕事の話とか、世間で話題になっているニュースに対する、当たり障りのない意見交換だったりとか。


 取り留めもない、それでも、私にとっては楽しい会話が続いた。


 以前と違って、ずいぶんとリラックスできていることに、若干の嬉しさを覚えている時だった。こちらの話に耳を傾けていたはずの沢村の視線が、ちらり、ちらりと、部屋の主人のように堂々と佇む、オーディオシステムへと向けられていることに気づいた。


 どうしたの? と聞くと、彼ははっとした様子で『なんでもない』と口にしたが、それが“なんでもない”なんてことはないことに、私は気づいた。


 私の話を聞くことよりも、オーディオのことで頭が一杯なのだろうか。彼の生活の中心には、オーディオ以外にないのだろうか。


 そんな風に思ってしまったが最後、さっきまでの楽しかった気分が、嘘のように萎んでいった。


『……なぁ、無酸素銅と銀メッキされた銅って、どっちの方が音の伝わりが良いんだろうな』


 ――なんの話?


『なにって、イヤホンケーブルの話だよ。自作しようと思うんだけど、いろいろパーツを厳選するのに時間がかかっていてさ……文系なりに、いろいろ頑張ってんだぜ?』


 結局、この前の日曜日と同じように、沢村が一方的にオーディオの話を喋り倒す展開になった。


 イヤホンの精度を向上させるためにノイズをエージングするだの、ハイレゾがどうだの、全く興味の持てない話ばかりを延々と聞かせてくる沢村の目には、どこか鬼気迫るものがあった。“熱中すること”に飢えていた反動が、彼にそんな目をさせているのか。


 いや……そうではないように、私には思えた。


耳を改造する(・・・・・・)ってのも、一つの手だと思うんだよ』


 その決定的な、突拍子もない一言は、何の前触れもなく、頑張ってオーディオの話についていこうとしていた私の耳に、鋭い針となって突き刺さった。


 沢村は、いたって真面目な口調で続けた。ただ、目だけが異様に真剣だった。不規則に揺らめくろうそくの火を、飽きずにいつまでも凝視するような目つきだった。


『人間の可聴領域ってのは限られているわけだろ? 音を聴くはずの器官なのに、聞ける音の範囲をセーブしてるって、よくよく考えたらおかしいんじゃねぇかなって思うんだよ。だから耳を改造して、音をきちんと信号として拾えるようになれば、もっと凄いきれいな音が聴けるはずなんだ』


 今は2018年だよ? そんなSFみたいなこと、できるわけないじゃない……出処の判然としない不安感が喉奥をせり上がってくるのを、懸命にこらえながら、なんとかそれだけを口にする。それでも彼の、何か得体のしれないものに魅入られた目は、正気に戻ってくれなかった。


『この前話した、沖縄に住んでるオーディオ仲間がさ、手術を受けたんだ。耳を機械化する手術。もちろん違法だけれど、大金を積んで知り合いの整形外科医にお願いして、やってもらったらしいんだよ。来年、秋葉原でやるオーディオ・フェスの時に、こっちに来るっていうから、ちょっとそのあたりを詳しく聞こうと――』


 ――馬鹿なこと言わないでよ!


 もう耐えられなかった。


 私は、生まれて初めて沢村に罵声をぶつけると、ソファに置いていたコートとバッグをひったくるように掴み、そのまま逃げるようにして、彼の家を後にした。


 昼過ぎに出発したのに、マンションを出ると、すでに辺りは闇夜に包まれていた。腕時計を確認すると、時計の針は六時を回ったところだった。


 家路に着くため、最寄りの駅へ向かって走り出した。


 何も考えたくなかった。それなのに、なぜだか、無性に悔しさがこみ上げてきた。瞳に熱い水の膜が張って、つーっと頬を垂れていく。とっておきの化粧が、台無しになっていく。


 通りを行き交う人々の好奇な目線から逃れようと、泣き腫らした目元をコートの袖口で隠しながら、とにかく一秒でも早く駅に着こうと、息を切らしてがむしゃらに走った。


 ホームへの階段を駆け上がり、十分後に到着する在来線を待つために、ベンチに腰掛けた。タイミングを見計らうかのように、コートのポケットに入れたスマートフォンが、ブルブルと振動した。念のために確認すると、案の定、沢村からだった。


 出るか出まいか。しかし決断するよりも先に、沢村の、あの目が私の脳裏を過った。ろうそくの火を、いつまでもいつまでも凝視するかのような、あの目が。


 ――馬鹿馬鹿しい……


 着信をバイブレーションで通知し続けるスマホをポケットに戻し、汗で火照った顔を冷えた両手で覆いながら、自然とそんな愚痴が漏れた。


 ――……馬鹿馬鹿しい?


 何かが引っかかった。それはすぐに気づきとなって、私の胸の中にストンと落ちてきた。


 夢中になれる趣味を見つけることは、素晴らしいことだと思う。けれど、物事にはなんにでも限度というものがある。


 沢村の熱中具合は、明らかに度を越えていた。いや、仮に百歩譲って、度を越えるほど趣味に熱中することも良しとしよう。私だって、高価な水彩絵具を買いたいと思ったことはあるし、実際に買おうかどうか悩んでいる最中だ。


 けれども、“オーディオ”という“音を聴くためだけの機材”に、何百万もの大金を平然とかけられる彼の神経が、どうしても私には異様に映ってしまう。


 目に見えないものを楽しもうとする行為。それ自体に、なんだか納得しかねるところがあるし、どうしてそこまで無茶なお金の使い方をするのか、整合性のある答えが見つけ出せない。


 視覚と聴覚。この二つを比較したとき、人間が獲得できる情報量で言えば、視覚の方が圧倒的に上だ。人は、相手の姿かたちを認識してコミュニケーションを発展させてきた生き物だ。その過程で、目に見える娯楽を作り出してきた。


 美術もその一つだ。誰だってシャガールやルノワールの絵を見れば、美術的な知識の有無に関わらず、瞬間的にでも“いい絵だな”と感じ入る。どうしてそれが可能かといえば、目に見えるからだ。


 目に見えるものには、それの善し悪しを判断するだけの十分な要素に満ちている。素人が描いた絵と、プロの描いた絵では、その差が歴然としてくるのは当然だ。


 けれども、たとえば五千円ぽっちのイヤホンと、十万円のイヤホンで音を聴き比べて、どちらの音が()()()()()()()()()()を判断できる人が、果たして世の中にどれだけいるんだろうか。


 私には分からない。どちらがどう違うか、指摘できる自信もない。


 なぜなら、当たり前の話だけれど、音は“目に見えないから”だ。


 その“目には見えないもの”に、沢村は夢中になっている。それも、ただ夢中になっているだけではないように感じる。その方向性に、怪しいところがある。


 彼の目を思い出す。オーディオについて語り、あまつさえ、音に自らの耳を捧げたいと戯言を口にしたときの、彼の目を。あの、ろうそくの先に灯る火を、飽きずにいつまでも凝視するような目つきを。


 何かに憑りつかれたかのような彼の目は、ろうそくの火を見ているのではなく、火のゆらぎを凝視していたんじゃないか。


 ゆらぎ。火の()()()


 それもまた、目には見えないものだ。


 音をよく聞きたい。たかだかそんなことの為に、どうして沢村は自分の耳を改造したいなんて、馬鹿なことを口にしたんだろう。


 きっと、沢村は音を聴こうとしているんじゃない。


 彼は、音を“()よう”としているんだ。


 本来なら目には見えないはずの音を、なんとかして視ようとしている。


 目に見えないはずのものを視ようとする行為。目に見えないはずのものに執着する精神状態。


 それは例えるなら、“幽霊”を探し出そうとする行為や精神状態と、なんら変わらないんだ。


 だから私は、オーディオについて話すときの沢村の目に、恐怖を感じ取ったのだ。


 そうに違いなかった。




♪♪♪♪




 ――連絡、取れた?


『駄目だ。何度電話しても出ないや』


 ――何かあったのかな?


『とりあえず、トークアプリ使って連絡しておくよ。後で返信があるかも』


 ――東京がこれだけ寒いから、沖縄から出たくないんじゃない?


『うーん、でも、おっかしいなぁ……一週間前にSNSで連絡を取ったときには、たしかに来るって言ってたはずなんだけど』


 秋葉原にあるエンタメ向けの複合商業施設。そこへ向かう道中、横に並んで歩く沢村は、何度も首を傾げながらスマホの画面に目を落としていた。


 今日はクリスマス・イブ。オタクの街で知られる秋葉原も、クリスマス・ツリーがそこかしこに設置され、浮足立って歩くカップルが、ところどころに目に付く。


 私と沢村も、周りのカップルから、そんな風に見られているんだろうか。


 ちょっと想像してみる。悪い気はしなかった。むしろ嬉しかった。何度となく喧嘩……というか、私が沢村のオーディオ熱に辟易として機嫌を損ねることが何度かあっても、彼は私の理解の無さを責めはしなかったし、こうして()()に誘ってくれる。


 そう、遊びだ。デートではない。私はそのつもりだけど、きっと沢村はデート気分で私を呼び出したわけじゃない。これから向かう先が、男女のデート・スポットにしては、あまりにも場違いなところだからという理由もあるけど、本来は沖縄にいる知り合いのオーディオマニアも含めての、三人で来る予定だったのだから。


 年に一度のクリスマス・イブに、そんなことを計画する人がいる? と思いがちだが、ここにいる。それが沢村という男なのだ。


『おー、今年も賑わってんなぁ』


 全面がガラス張りの、七階建ての商業施設。その正面入り口を潜った先の一階は、人だかりでごった返し、客の呼び込みに熱を出すスタッフの大声で満ち溢れていた。二階より上に用がある客たちは、エスカレーターの上から、物珍しそうな視線を階下へ投げかけていた。


 指紋だらけの眼鏡をかけた男性。頭の禿げ上がった男性。皮脂と吹き出物で顔が汚れっぱなしの男性。枯木みたいに痩せた男性。樽のように醜く太った男性……一階には、とにかくげんなりするほどの男性ばかりが密集していて、私は少しばかり気後れした。


 人ごみに押されるかたちで、思わず、沢村にぴったりくっつくように体を寄せた。寄せられた当人はと言えば『大丈夫?』の一声もなく、いたって平然としていた。それどころか、子供のようにキラキラとした目線を、会場のあちこちに展示されているオーディオ機器に向けてばかりだった。


 ――オーディオ・フェスって、いつもこんな感じなの?


『まぁね。会場によるけれど、今年は秋葉原ってのもあるのか、いつもより年齢層は高めだな』


 その言葉通り、周囲を見渡してみると、いい歳のおじさんばかりが群がっていた。どれもこれも、冴えない顔をしている。ぱっと見たところ、若者と呼べるような人は、私たち以外にいないようだった。


 けれど、他のお客さんたちが、物珍しそうに私たちを見てくることはなかった。みんな、各オーディオ会社が出展している最新の機器を真剣な目つきで見定めたり、視聴してみたりすることに夢中になっていて、周りのことなどどうでもいいと思っているようだった。


『じゃあ、こっからは別行動で。俺、あっち見てくるよ』


 あ、待ってよ。私も一緒に――そう口にするより早く、沢村はさっさと人ごみの奥へ消えていった。


 一人残された私は、誰に聞かせるわけでもない嘆息を小さくつくと、ぶらぶらと当てもなく会場を回ることにした。


 屋内であるのに加えて、換気を疎かにしていたせいか、会場内の空気は淀んで乾燥していた。冬なのにも関わらず、嫌な暑苦しさを覚えた。人が密集しているせいで、ただでさえ動きにくいというのに、不特定多数のおじさんとすれ違うたびに、動物性由来の油を長年放置したようなキツい体臭がランダムに鼻を刺激してきて、さらに気分が滅入ってしまった。


 私は、ディスプレイされているオーディオ機器などそっちのけで、遠目から沢村の背中を追いかけた。目当ての企業ブースに並んでいる彼は、私の視線に気づくことなく、行列に並ぶ他のおじさんたちと同様、展示品に目を奪われていた。


 背筋に悪寒が走り、自然と眉根に皺が寄った。沢村も、このままオーディオに噛り付いてばかりいると、将来、あんな冴えないおじさん連中と同じ風体になってしまうんだろうか――そんな最悪の未来が頭を過ったせいだ。


 沢村が、不意に横を向いた。嫌な汗がこめかみを垂れた。


 ろうそくの火を凝視するような、あの目つきをしている。


 私は反射的に、沢村の横顔から視線を外した。


 オーディオ・フェスは業者向けの展示会だが、一般消費者向けの即売会としても機能しているらしい。明らかに業界人だとわかるような装いの人が会場内を出入りしているし、展示品の一部は即購入、あるいは予約受注の対象となっている。年末というのもあって余計な在庫を抱えたくないのか、どの会社も、大幅な値引き額を、これみよがしにアピールしている。


 会場についたら、まず先にやることがあると、前日の夜に沢村は口にしていた。三万円分のオーディオ機器を購入しようというのだ。


 といっても、オーディオ機器そのものを購入するのが目的ではなかった。フェスでは福引もやっていて、会場内で五千円分の買い物をすると一回、一万円分で二回、二万円分で三回、三万円以上で五回引けるとのことだ。一等賞は、通常価格で五十万以上もするヘッドホンアンプらしく、沢村の目下の狙いは、それをどうにかして入手することらしかった。


 ――福引なんて、そんなのどうでもいいじゃん……


 ぐるりと会場を一周したところで、だいぶ疲れてしまった私は、一旦、外に出ることにした。『すみません、通ります』の呪文を何度か繰り返し、人ごみをかき分けて、ようやく外に出た瞬間、冬の冷たい風が顔面を叩き、開放感と意外な心地良さを味わう。


 軽さを取り戻した足取りで、会場の外に誂えられたテラス席へと移動する。安いプラスチック製の白いテーブルに、椅子が二つ置かれていた。その片方に腰を下ろし、ふぅと息をつく。


 分厚くて大きなガラス一枚を隔てた向こうで、買い物に忙しい沢村の姿をめざとく見つけ出す。これだけの人ごみなのに、あっさりと彼を視認することができたのが、自分でも不思議だった。周りがおじさんばかりだから、彼の存在が、どことなく浮いてみえるせいだろう。


 クリスマス・プレゼント、いつ渡そうかな――ハンドバッグをぎゅっと握り締めながら、ガラス越しに沢村の姿を追いかける私の頭は、そのことでいっぱいだった。


 それにしても、奮発しすぎた。プレゼントとはいえ、ネクタイピンに五万円は、少々高かったかもしれない。


 値札シールは剥がしてあるから、金額が露見することはない。自分から口にすることは絶対にないけど、仮に値段を伝えたら、驚くだろうか。『たかがネクタイビンになんでそこまでかけるんだ?』と聞かれるだろうか。それとも、重い女だとドン引きされてしまうんだろうか。


 でも、『友情の証だ』とか言って、マンションの合鍵を渡してくるくらいだし、向こうもまんざらではないのかもしれない。


 プレゼントを渡したら、彼は私のことを見てくれるだろうか。そのことばかりが気がかりだった。ただの大きな箱にすぎないオーディオや、目に見えない音なんかじゃなく、小学校時代からの幼馴染である私のことを、ちゃんと彼は視てくれるだろうか。


 今日の、この後のスケジュールをスマホでじっくりと確認しながら、どこで自分の想いを打ち明けるべきか、うんうんと策を練っている時だった。


『すみません、ここ、空いていますか?』


 頭上から声が落ちてきた。反射的に振り仰ぐと、老人がニコニコと笑みを浮かべていた。


 ――あ、どうぞどうぞ。


 特に断る理由もなかったので座るように促すと、老人は『すみませんねぇ』と柔和な微笑みをたたえて、腰を下ろした。


『いやぁ、それにしても寒いですね今日は』


 ――本当ですね。まぁ、クリスマスですからね。


『ここまで冷え込むと、還暦を迎えたばかりの老骨には堪えますよ』


 人当たりの良さを隠そうともせず、老人は自嘲気味に笑って口にしたが、私はその老人から、矍鑠(かくしゃく)とした印象しか受けなかった。


 端的に言って、品のある老紳士だった。手にした牛革のハンドバッグも、クリーム色のコートも、首に巻いた赤いマフラーも、一目見ただけで高級品と分かる代物だった。


『お目当てのものは買えましたか?』


 ――え?


『ああ、いや、これは失敬。さっき、会場から出てくるところが見えたものですから』


 老人は照れ臭そうに笑うと、少しお辞儀をしながらそう口にした。


 ――買ってませんよ。その……友人の付き添いで来ただけですから。


 彼氏と来たんです――喉元を通りかけた台詞をなんとか飲み込む。初対面の人に変な見栄を張るのは、さすがに躊躇った。


『ああ、ではご友人がオーディオマニアで?』


 ――ええ、まぁ。


『そうですか。実は私も同好の士でしてね』


 ――……そうなんですか?


 率直に言って、意外だった。高価な装いで、白髪をムースで綺麗にオールバックに固め、ほのかにムスクの香水を漂わせている目の前の老紳士が、あのむさくるしいおじさん集団に溶け込んで、オーディオ機器を物色しているイメージが、どうにも湧かなかったせいだ。


『本当は行くつもりだったんですが、直前になって迷い始めてしまいましてね……それでも結局、こうして足を運んでしまった。趣味の業というのは、なかなかに深い』


 ――入らないんですか? 会場に。


 そう尋ねると、老人は何かを悟っているかのように、静かに首を横に振った。


『私は、音に嫌われていますからね』


 ――音に嫌われる?


 妙な言い回しが出たなと身構えていると、老紳士は懐かしむように遠くを見た。


『私も若い頃は、金に物を言わせて、いろいろ無茶をやったもんです。業者の美辞麗句に踊らされて、嘘や出まかせの効果を謳ったオカルトなオーディオ機材に、馬鹿みたいに金を使い込んでしまった』


 ――後悔、してるんですか?


 恐る恐る尋ねると、老紳士は笑いながら続けた。


『後悔だなんて、そんなの全くしていませんよ。私はね、ただ悔しいだけなんです。オーディオひと筋でこの年を迎えても、いまだに“天使の声”を聴けずにいる自分が、情けなくて、死にたくなるほど嫌になるんです』


 その言葉を耳にした途端、私の中で、老紳士への警戒心が上がった。


 瀟洒な身なりに騙されるところだったと、自戒する。


 見た目をどれだけ繕っていても、やっぱり頭のおかしなオーディオマニアの一人なのだ。


 ――“天使の声”って、なんですか、それ。


 これ以上、関わり合いを持つのはやめにしよう。そう頭では分かっていても、好奇心が先走りし、ついうっかり、聞き返してしまっていた。


 自分で自分を恨みたくなった。聞く必要なんてまるでないのに、どうして尋ねてしまったのか。


 沢村の、あの異様な眼差しが、またもや脳裏を過ったせいだ。


 きっと、そうに違いなかった。


『“天使の声”というのは、古くからオーディオマニアの深部で囁かれている、都市伝説みたいなものですよ。真に音を愛する者、音に愛される者が、一生に一度だけ巡り会うことができると言われている“本物の音”って奴でしてね』


 ――高価なオーディオ機材で聞くとか、そういうことですか?


『私も昔はそう捉えていたんですが、これが違うんですよ。いくら高価な機材でシステムを組もうが、それこそ世界的な歌姫やアーティストのCDを流そうが、レコードをかけようが、デジタル音声をダウンロードしようが、そんなことでは絶対に到達できない領域の音。機材や音源にその発生由来を持たない、偶然、人の耳に流れ込んでくる至福の音。それこそが“天使の声”の正体なのです』


 ――あの、すみませんけど、正体って……全然説明になっていないですよね、それ。


『当たり前じゃあないですか』


 それまでの人当たりの良さは消えて、老紳士は苛立つような声と共に、私を軽く睨みつけてきた。


『説明なんて誰にもできませんよ。音は“目に見えない”んですから。目に見えないものを、どうやって説明しろと言うんです?』


 ――それは……え、でも、信じているんですよね? その、“天使の声”とやらを。


『そりゃあ信じますとも。もう四十年以上もオーディオ沼に浸かっているんですから、信じないはずがありません』


 ――目に見えないものを、どうしてそこまで信じられるんですか?


 全く論理的でない、支離滅裂な言い分に反感を覚え、率直にそう聞いた。怒り出すだろうかと、言ってから不安になったが、老紳士は朗らかに笑って、先ほどとは打って変わって、諭すような口調になった。


『お若いお嬢さん、寝言を口にしちゃいけませんよ。人間の生活それ自体、常に“見えないもの”でいっぱいじゃないですか」


 ――それって、どういう……


『人間の感情だって、“目に見えない”ということですよ』


 側頭部を、思い切りハンマーで殴られたような衝撃があった。


『人は他者とコミュニケーションを図る際、その人の顔や目の動きを見て喋っているんじゃない。その人の“感情”という、決して見ることの叶わない“心のゆらぎ”を、相手の素振りや反応から察して、口にする言葉を選んでいる。他者ありきの現代生活は、常に“目に見えないもの”に支配されていると言ってもいいでしょうな』


 ――支配だなんて、そんな、大げさな。


 喘ぐようにして口にする。口の中が急速に干からびていく。


 老紳士はこちらを向いたまま、淡々と続けた。


『お嬢さん、これは真理ですよ。私はいま、真理を口にしているのです。“目に見えないもの”を胸の内に飼っている人間が、同じく“目に見えない”音を愛することは、ごくごく自然な、動物的な、それでいて社会的な行動の現れなのです。オーディオというのはね、人間の本質に迫る至高の趣味であり、その至高を求めた果てに“天使の声”と巡り会えるのです』


 違和感を覚えるほどに真っ白な歯を覗かせて、老紳士はニタリと笑った。全身の血が引いていく感覚に、私は包まれた。その場から離れなければと思っているのに、体が言うことを聞いてくれなかった。


 人は“目に見えないもの”を飼っている。


 “目に見えないもの”とは、“幽霊”と同じだ。


 沢村もまた“幽霊”を、“天使の声”を求めているのか。


 それを耳にしたとき、彼の身にいったい何が起こるのか。


 皆目見当がつかなかった。ただ、猛烈に嫌な予感だけがした。


『私もまだまだ、求道心が足りないのか……“天使の声”を耳にするまでは絶対に死ぬわけにはいかないと、そう固く誓って、最近は体に色々と負荷をかけているんですが、いやはや、さっぱりですな』


 その時だった。身なりだけは清潔感ある老紳士の体の一か所……両耳の部分にだけ、強烈な違和感を覚えたのは。


 辺りが夜だったせいか、それとも老紳士の言葉に意識を取られていたせいか、今の今まで、その異様さに気づかなかった。


 老紳士の耳には、マイクに被せるスポンジカバーと同等のものが被さっていた。最新の耳当てとも取れなくないが、どうもそうは見えなかった。耳を保護するためにつけているのではなく、人目から隠すためのカバーであるように見えたせいだ。


耳を改造する(・・・・・・)ってのも、一つの手だと思うんだよ』


 ごくりと、息を呑んだ。


 ――あの、すみません、その耳は……


 どうされたんですか?――そう尋ねかけた声は、ガラス一枚を隔てた向こう側から、突如として鳴り響いてきた鐘の音と、弾けるような歓声にかき消された。


 驚き振り返ると、長蛇の行列の先頭に立つ沢村が、信じられないといった顔つきで、福引台の前に立ったまま硬直している。


 一等大当たり、おめでとうございます!――スタッフがそう声をかけ、仰々しいほどのラッピングがされた箱を沢村に手渡す。


 ガラス一枚を通して映る沢村の表情に、徐々に喜びの感情が浮かんでいく。私と二人だけで、オーディオ抜きの話をしている時には、絶対に見せたことのない喜色の表情に包まれて、拍手を送るギャラリーへ、何度も何度もお辞儀を繰り返している。


 ――やっぱり、そっちのプレゼントの方が、嬉しいの?


 私は呆然としながら、決して触れられない距離で、沢村の喜びようを眺めることしか許されなかった。


『あぁ、羨ましいですな』


 老紳士が、不意に口走った。


『私が見たところ、あの青年は音に愛されていますよ。一等が当たって優越感をこれみよがしにまき散らしているわけでも、他のオーディオマニアを下に見ようともしない。あれは、純粋な喜びの表れだ。まだ聞いたことのない音を求める探究者のあるべき姿だ。なるほど。彼なら“天使の声”が聴けるかもしれませんなぁ』


 意味深長な言葉を残し、老紳士は立ち上がった。慌てて「待ってください」と声をかけようとしたが、それよりも先に、老人が口をきった。


『では、私はお先に。いやぁ、沖縄と違って本当に東京は冷えますね』


 その別れの言葉を置き土産に、老人は街の中へ溶けるようにして、軽やかに私の前から姿を消してしまった。




♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪





 いま、私の目の前で、人が死んでいる。


 死んでいるのは、友人の沢村だ。


 ヘッドホンを耳に当てて、眠るように動かない。


 薄く開かれた紫色の唇の奥では、白い蛆虫たちが蠢いている。


 彼の身に異変が起こったのだとしたら、それは、あのクリスマス・イブの日以降に違いなかった。


 きっと彼は、“天使の声”を聴いてしまったのだ。()()()()()()()()()()()と伝えられる、その幻の音を、ついに視てしまったのだ。


「沢村くん……」


 十六畳の冷え切ったリビングに、震える私の声が、ぎこちなく広がっていく。


 返事はなかった。その当たり前の事実を以て、私は、彼が本当に手の届かない領域へ旅立ってしまったことをようやく自覚し、わっとその場に崩れ落ち、さめざめと涙をこぼした。


 結局のところ、沢村は何一つ、かけてほしい言葉を私にかけてくれなかった。彼は“見えないもの”に執着してばかりで、“目の前にいる”はずの私のことなんて、きっとどうでもいいと思っていたんだ。


 ……本当に、そうだろうか?


 自暴自棄になりかけた思考を中断し、激しい困惑を残したまま、私は考える。沢村のことを考える。熱中できる趣味を持たなかった彼が、なぜオーディオという趣味に奔ったのか、その理由を考える。


 ……何もわからなかった。


「ああ、なんだ、私って……何も知らなかったんだ」


 私だって、彼のことを“見ていなかった”んじゃないか。


 構ってほしい、気にかけてほしいという気持ちばかりが先行して。自分の理解できない趣味に熱中する彼を、心の奥底では拒絶して。好いているはずの相手に、そんな悪印象を抱きかけている自分の姿を認めたくなくて、プレゼントを渡して好感度を稼ごうとして。


 それらが巡り巡って、今、この状況があるんじゃないのか。


「ごめん……ごめんね、沢村くん……」


 なぜ、彼の心に寄り添って上げられなかったのだろう。彼が熱中したものに、どうして関心を寄せてあげられなかったのだろう。


『テニスにしろ水彩画にしろ、夢中になれるものがあるんだから、羨ましいよ』


 オーディオと出会う前の彼は、ずっと人知れず苦しんでいたんじゃないのか。何をやっても気が晴れず、世界が灰色に映っていたんじゃないか。オーディオは、そんな彼の心に、一筋の光を差し込んでくれる、大切な趣味だったのだ。


 だったら、今からでもいい。いや、是非ともそうさせてほしい。


 もう全てが遅すぎたけど、それでも、取り戻せるものがあるかもしれない。


 私は涙を拭うと、沢村の耳から慎重にヘッドホンを外すと、縁にこびりついていた蛆虫たちを手で払った。ヘッドホンの先には、沢村があの夜に賞品として貰った、手のひらサイズの高級アンプが繋がれていた。アンプはさらに、メタリックな輝きの携帯オーディオプレーヤーに接続されていた。


「これからは、貴方に仕えます。いや……仕えさせてください」


 ヘッドホンとアンプとプレーヤーを床に置いて正座になり、完全に部屋の主も同然の存在と化した、巨大なオーディオ・システムに向かって、誠心誠意、土下座する。


「私にも“天使の声”を聴かせてください。そして、沢村くんと同じ場所に、連れていってください」


 こんな神頼みが通じる相手なのかどうかは分らない。けれど、いまは“目に見えないもの”を信じたかった。沢村がそうしたように。あの老紳士が、それを求めていたように。


 沢村が愛し、沢村が愛された“天使の声”に、私も愛されたかった。


 アンプの表示を確認する。続いて、プレーヤーの画面を見る。電源はついている。沢村が選択した曲が、ループ再生されている。


 泣き腫らした目を擦る。頑張って笑みを作る。上手く笑えているだろうか。


 ぼんやりとした視界の向こうで、オーディオ・システムが、こちらを睥睨している。


「沢村くんのところにいけるなら、私は音の奴隷になる」


 緊張と覚悟を胸に抱いて、私は、ヘッドホンを耳に当てた。

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[一言] 初めまして。九傷さまの活動報告から参りました。 静かに語られる文章は澄んでいて、まるで静かに純文学の文庫本を読んでいるような心地になりました。 そのためか、彼が亡くなっているという状況その…
[良い点] さすがの力作ですね! 続きが気になるのに、先に進んではいけないと思わせるような恐怖感が素敵です(*^^*) 得体のしれない恐怖……。 ゾクゾクする恐怖……。 ……耳を改造って……。 そ…
[良い点] とても良かったです! ホラーというより、ドラマとして楽しめました。 趣味にのめり込むと、相方としてはなんともし難いものがあります。大抵の場合、趣味に没頭するのは男の方ですが、女性側のファッ…
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