競走馬の仔
「サキちゃんちの羊たち、もこもこですごくかわいかったぁ」
「え! リナちゃん、サキちゃんちに行ったの? いいなぁ」
休み時間にクラスの女子たちが集まってはしゃいでいました。中心にいるのは明るくて人気者のサキちゃんです。サキちゃんの家は観光牧場でたくさんの羊を飼っていました。
「良かったらみんなも来てね。来てくれるなら他のお客さんには秘密で子羊を触らしてあげる」
「え! いいの!? かわいい子羊なでなでしたーい」
サキちゃんの言葉に女子たちがきゃっきゃっとはしゃいぎます。サキちゃんを囲む輪のはじっこでは大人しいユリちゃんがもじもじと何か言いたそうにしていました。
「ユリちゃんも子羊撫でたいの? じゃあ今度みんなで一緒に行こうよ」
お友だちの一人がもじもじしているユリちゃんに気付いて声をかけました。でもユリちゃんは困り顔です。ユリちゃんは子羊を見に行きたくてもじもじしていたわけではないのです。
「あの、私は行けないの。家で馬の世話をしなきゃいけないから」
するとみんなはとてもびっくりしました。
「え! どういうこと? ユリちゃんちも牧場だったの!?」
みんながユリちゃんに注目するのでユリちゃんは恥ずかしくて何も言えなくなってしまいました。困っているユリちゃんのかわりにサキちゃんが答えます。
「確かユリちゃんちは馬を育てている牧場なんだよね? パパから聞いたことあるよ」
ユリちゃんは小さくうなずきました。すると今度はみんなが期待の目でユリちゃんを見ます。
「すごーい! ユリちゃんちに遊びに行ったら馬に乗せてくれる? 乗って見たかったの」
ユリちゃんはみんなの目を見ることが出来ずに教室の床をみながら小さな声で答えます。
「それは難しいかも」
「え! 何で?」
「あぶないから……」
ユリちゃんの家は観光牧場ではありません。人が乗って競争をする馬を育てる牧場です。だから羊のように大人しい性格の馬よりも強くて競争が好きな馬が大事に育てられています。そんな馬に子供たちが近づくのはとても危険なのです。でもユリちゃんは上手く説明ができませんでした。
「馬ってあぶないの?」
「えーでもユリちゃんが世話できるんだから大丈夫なんじゃない」
「ユリちゃんが独り占めしたいだけかもよ」
みんなが口々につぶやきました。期待の目はどんどん疑いの目に変わっていきます。いやな空気を変えたのはサキちゃんでした。
「みんな、うちの羊のこと忘れていない? 羊は乗れないけど大人しい性格だから安心して遊びに来て。私も毛刈りを手伝っているくらい穏やかな性格なんだから」
「そうだね、馬より羊のがもこもこでかわいいし」
みんな顔を見合わせて笑い合います。
「あ、あの……」
ユリちゃんが声をかけましたがもう誰もユリちゃんのことは見ていません。
「ねぇ、校庭で鬼ごっこしない?」
みんなはちらちらとユリちゃんを見て意地悪な顔で笑います。
「いいね! めっちゃ走りたい気分だったし!」
そしてあっという間にみんな外へ出てしまいました。教室に残っている女子はユリちゃんとサキちゃんだけになってしまいました。
「ユリちゃんはどうする?」
サキちゃんがユリちゃんに聞きました。サキちゃんはユリちゃんが気がかりで残ってくれたのです。でもユリちゃんはサキちゃんに申し訳なく思いました。
「私のことは気にしないで。サキちゃんは行った方がいいよ。人気者だしみんなが待っているから」
するとサキちゃんはムッとした顔をしました。
「言われなくても私は行くけど、私が行きたいから行くんだよ」
「サキちゃん?」
「思っていることは言わないと伝わらないよ」
そう言ってサキちゃんも教室を出て行ってしまいました。
校庭の楽しそうな声を聞きながらユリちゃんはため息をつきました。ユリちゃんは小さな頃に事故で負った怪我のせいで早く走れません。話すのも得意ではないユリちゃんは学校に心を許せる友達がいませんでした。
「早く家に帰りたい」
家に帰れば一番の友達がユリちゃんを待っていました。
学校が終わるとユリちゃんは急いで家に帰りました。
「お父さん! ただいま!」
「おかえり」
お父さんは大きな馬にブラシをかけている手を止めました。学校から帰ってきて牧場に入る時にはお父さんに挨拶をする。それがユリちゃんとお父さんの決まり事でした。
「お父さん、ナキのところへ行くね」
「ああ、気をつけるんだよ」
「うん!」
ユリちゃんは元気よく返事をすると若い馬が放牧されている場所へ向かいます。そこでは今年1歳を迎えた馬たちが柔らかな草の芽を食べていました。その中でひと際、小さな馬が1頭だけ群れから外れていました。
「ナキ、お待たせ」
ユリちゃんが呼ぶとその小さな馬がユリちゃんに近づきます。ナキと呼ばれた馬は甘えてユリちゃんにすり寄りました。ユリちゃんは放牧場に生えている花を摘み取ると花輪を作って頭にかけてあげました。ピンクと黄色の花輪は茶褐色のナキにとてもよく似合っていました。
「とってもかわいいわ、ナキ」
ナキは何も話すことはできませんが、ユリちゃんはナキが喜んでいるような気がしました。
ナキは生まれた時から他の馬より小さくて臆病な馬でした。
「仔馬に名前をつけてはいけないよ」
お父さんからはそう注意されていましたが、ナキだけは特別でした。ナキの名前は「泣き虫」のナキです。甘えん坊のナキはいつも泣いているように目を潤ませて母馬にべったりでした。
でも牧場にはもうナキの母親はいません。ナキが乳離れをした頃、牧場に『えらい大人』がやって来て言いました。
『ナキの母親からは強い馬が生まれないからもうあきらめよう』
するとその何日か後にナキの母馬はトラックに乗せられて遠くへ行ってしまいました。ナキは毎日、母親の姿を探して鳴き声を上げていました。ユリちゃんは知っていました。あのトラックに乗せられた馬とはもう2度と会うことができません。
「これからは私がナキを守ってあげるからね」
ユリちゃんはナキにそう約束をして、寂しさで震えるナキを抱きしめました。気弱で他の仔馬とも馴染めないナキはますます甘えん坊になってユリちゃんに甘えました。
ある日、家に帰ると嫌がるナキをお父さんが引っ張っていました。
「ナキ! そんなじゃ立派な競走馬になれないぞ!」
お父さんはナキに人が乗るための鞍をつけようとしましたが、ナキはそれをすごく嫌がっていました。
「お父さん、ナキが嫌がっているからやめてあげてよ!」
ユリちゃんが言うとお父さんは怖い顔をしました。
「ナキは競走馬になるために生まれて来たんだ。だから鞍をつけなければ競走馬にもなれない。生きる場所がなくなるということなんだぞ!」
いつも優しいお父さんの厳しい言葉にユリちゃんは泣いてしまいました。
「馬はペットじゃない。立派な競争馬に育つことがナキのためなんだよ。分かったなら今日は帰りなさい」
ナキは助けを求めるようにユリちゃんのそばへ行こうとしましたが、お父さんが強く引っ張ってユリちゃんの見えないところへ連れて行ってしまいました。
「ごめんね、ナキ」
ユリちゃんは泣いているばかりでどうしてあげることもできませんでした。
それからもお父さんはナキに鞍をつけようとしましたがナキは嫌がってつけませんでした。そしてまたあの『えらい大人』がやってくることになりました。その人がまた『あきらめよう』と言えばナキはトラックでどこかに行ってしまうでしょう。ユリちゃんは学校に行ってもナキのことで頭がいっぱいでした。
「ユリちゃん、何か悩み事でもあるの?」
ぼーっとしているユリちゃんに声をかけたのはサキちゃんでした。ユリちゃんは驚きました。サキちゃんとは彼女を怒らせてしまったあの時からほとんど話していなかったからです。
「よかったら話してよ。ほら、一人で悩んでいても解決しないことってあるじゃない?」
サキちゃんは本当にユリちゃんのことを心配してくれているようでした。ユリちゃんはサキちゃんにナキのことを話しました。
つっかえながら一生懸命に話すユリちゃんの話をサキちゃんは最後まで真剣に聞いてくれました。
「ナキはね、とても大人しくて人が大好きな優しい馬なの」
「そっか。ユリちゃんはナキが大好きなんだね。じゃあナキがトラックに乗せられない方法を考えよう」
サキちゃんは腕を組んで考えます。でも二人で考えてもなかなかいい案は浮かびませんでした。サキちゃんは考えているうちになんだか腹が立ってきました。
「それにしても大人って勝手よね。鞍をつけないくらいで追い出されちゃうなんてかわいそう! 羊は人を乗せないし毎日草を食べているだけでみんなに可愛がってもらえるのよ」
頬をふくらますサキちゃんの横でユリちゃんは草を食べている羊の姿を思い浮かべました。もこもことした毛に覆われた羊は、ただそれだけでぬいぐるみのようにかわいいと思いました。
「ナキもサキちゃんちの羊みたいに、もこもこだったら可愛がってもらえたのかな」
ぽつりとユリちゃんがつぶやきました。するとサキちゃんの目が輝きます。
「ユリちゃん、いいこと考えた!」
サキちゃんはユリちゃんにこそこそ話をしました。
「どうしたものか……」
ユリちゃんのお父さんはお仕事をしながらもずっとユリちゃんとナキのことを考えていました。鞍をつけようとしないナキを見た馬主さんがナキを手離すことに決めたからです。人を乗せない馬の未来はあまり幸せなものではありません。お父さんはナキと離れ離れになることをどうユリちゃんに伝えるか悩んでいました。
そろそろ学校が終わり、ユリちゃんが帰ってくる時間です。でもいつまでたってもユリちゃんは牧場にやってきませんでした。不思議に思ったお父さんはナキがいるはずの放牧場を見に行きましたがそこにナキの姿はありません。
「まさか」
お父さんは慌ててユリちゃんとナキを探しに行きました。
牧場の片隅で身を隠すように二人と1頭がごそごそと何かをしていました。
「うーん、思っていたのとちがうなぁ」
サキちゃんがナキを見て首をかしげます。ナキの背中にはふわふわの羊の毛がかかっていました。ナキは大人しくじっとしていました。
「羊の毛を乗っけたらふわふわもこもこの馬になると思ったんだけど」
サキちゃんは自分の家の牧場から刈った羊の毛をこっそり持ってきていました。ナキにも羊の毛を乗せてかわいらしく変身させようと思ったのです。
「サキちゃん、ありがとう。でもやっぱり馬は羊みたいになれないみたい」
「うーん、他に何か方法はないかな?」
ナキは悩んでいるサキちゃんにすりすりと近寄りました。小柄と言っても羊より大きなナキにサキちゃんの顔がこわばります。
「きっとサキちゃんがナキのことを考えてくれるからナキも嬉しいんだよ。良かったら撫でてあげて」
サキちゃんはナキの首筋を恐る恐る撫でました。しっかりと筋肉のついた首筋は温かく、すべすべとしていて気持ちが良いものでした。そして何よりもサキちゃんの心を掴んだのはナキの優しい目でした。
「ナキは優しい子なんだね」
ナキを見ていると不思議と心が柔らかになり、サキちゃんは微笑みます。
「ナキは優しくておしゃれが好きなの」
ユリちゃんはいつものようにナキにお花の冠を乗せてあげました。
「わぁ、かわいい! 私もナキにお花をあげたい!」
サキちゃんも目的を忘れてナキをお花で飾りつけしました。ナキの背に乗せられた羊毛はみるみるうちにお花でいっぱいになり、お花のお洋服を着ているみたいでした。
「ユリちゃん、ふわふわもこもこじゃなくてもナキはかわいいね」
するとユリちゃんは何か言いたそうにもじもじとしました。
「どうしたの? ユリちゃん」
「サキちゃんは思っていることは言わないと伝わらないって言っていたでしょ? 私、あの時ね、みんなに馬もかわいいよって言いたかったの」
ユリちゃんはうれしそうに言いました。
「ユリ!」
「サキ!」
遠くの方から二人の名を呼ぶ声が聞こえます。見れば大人が二人、ユリちゃんとサキちゃんを探していました。一人はユリちゃんのお父さんです。お父さんたちは二人に気付いてこちらにやってきました。
「パパ!?」
驚いたのはサキちゃんでした。ユリちゃんのお父さんと一緒にサキちゃんのお父さんもいたからです。
「お前が黙って羊の毛を持っていくのが見えたから後を追ってきたんだ。だめじゃないか、勝手なことをしては!」
二人のお父さんは怖い顔でユリちゃんとサキちゃんを叱りました。特に怒っていたのはユリちゃんのお父さんです。
「ユリ! 黙って牧場に入っては駄目だと言っていたじゃないか! 馬の怖さはお前もよくわかっているだろう! 友達まで連れ込んで、ここは子どもが遊ぶ場所じゃないんだぞ!」
そこまでユリちゃんのお父さんが怒るのには理由がありました。ユリちゃんの足の後遺症は興奮した馬に近づきすぎたのが原因だったのです。でもユリちゃんは自分とナキのためにサキちゃんが怒られてしまうのは耐えられませんでした。
「ごめんなさい。でもサキちゃんは悪くないの。サキちゃんはナキを守るために羊の毛を持って来てくれただけなんです」
お父さんたちは顔を見合って首をかしげました。
「何でナキのために羊の毛を?」
「ナキも羊みたいになればトラックに乗せられなくてもいいと思ったの」
ユリちゃんのお父さんは彼女の肩を両手でつかみました。
「ユリ、いつまでもナキと一緒というわけにはいかないんだよ」
お父さんの厳しい目で見つめられてもユリちゃんは目を離しません。思っていることは口にしなければ伝わらないのです。
「ナキが行くなら私も一緒に行く。私がもし競走馬だったら早く走れない私はトラックに乗せられるもの」
「ユリ……」
お父さんはたまらずにユリちゃんを抱きしめました。本当はお父さんもユリちゃんの唯一の友達であるナキを助けてあげたいのです。
ナキはじっと大人しくユリちゃんとお父さんを見守っていました。お花で飾られたナキをサキちゃんのお父さんがまじまじとみつめます。頭に乗せた花冠も背に乗せた羊毛もナキは嫌がる素振りを見せませんでした。
「これは君たちがやったのかい?」
「うん、ナキはおしゃれが好きなんだって」
すっかりナキに慣れたサキちゃんがナキの身体を撫でます。ナキは気持ちよさそうにサキちゃんに身体を寄せました。
「ナキは不思議な子だなぁ。何で鞍は駄目で羊の毛を乗せるのは大丈夫なんだろう?」
それにはユリちゃんが答えました。
「だって鞍は重くて硬いけど羊の毛は軽くて暖かいもの」
「だが羊毛じゃ人は乗せられないしなぁ」
「羊だって人を乗せないわ。馬にだって人を乗せなくても出来ることがきっとあるはずよ」
サキちゃんは口をとがらせて言います。サキちゃんのお父さんはポンと手を叩きました。
「ちょっといいですかね?」
サキちゃんのお父さんがユリちゃんのお父さんに話しかけました。ふたりのお父さんは少し離れた場所で真剣な顔をして話し合っていました。そして話が終わるとお父さんがユリちゃんを呼びました。
「やはり競争馬に向いていないナキはこの牧場にはいられないよ」
がっかりと肩を落とすユリちゃんの目がどんどんと潤んで赤くなったのでサキちゃんのお父さんが慌てて付け加えます。
「ユリちゃん、ナキは私の牧場に引っ越すことになったんだよ」
「え!」
サキちゃんのお父さんの言葉にユリちゃんとサキちゃんは目を輝かせます。
「うちの羊たちはお客さんを喜ばせるのが仕事だからね。ナキなら人を乗せなくてもたくさんの人を喜ばせる馬になると思ってね」
サキちゃんのお父さんが笑顔で言います。ユリちゃんのお父さんもやれやれと微笑みました。
「よかったね! ナキ!」
ユリちゃんはナキに抱きつきました。
そうしてナキはユリちゃんの牧場を去って行きました。今でもユリちゃんの嫌いなトラックは牧場にやってきます。ユリちゃんはトラックに乗る1頭1頭に名前をつけて、行く先が幸せなものであるように願いました。競走馬に向いていなくてもこの子たちには出来ることがあるはずなのです。
人間が好きで優しいナキはサキちゃんの牧場で一番の人気者になりました。たくさんのお花でおしゃれをしたナキが出迎えるとお客さんたちはとても喜びます。牧場には毎日のようにナキと写真を撮るための長い行列ができました。もうナキはユリちゃんだけの友達ではないのです。でもユリちゃんにも心を許せる友達ができました。
休み時間、みんなは校庭で鬼ごっこをしていました。教室ではユリちゃんとサキちゃんが絵を描いています。二人はそれぞれ大好きなものを絵に描くことにしたのです。
「じゃあ、せーので見せあおう」
「うん!」
「せーの!」
向き合う2枚の絵を見て2人は大きな声で笑いました。それは二人が描いたものが一緒だったからです。絵の中では、もこもこの羊の群れの中におしゃれな1頭の馬がにこにこと笑っていました。
馬が好きで競馬もたまに見ていましたが、ふと色々調べてみたら考えてしまう事もあり、今回の題材に選びました。最近では競馬場にファミリーも多いのだとか(今は無観客ですが)、子どものうちに「馬ってかっこいいね」の先を話し合うのもありなのかなと思います。