雑学百夜 ビンタの由来
頬を平手で打つ「ビンタ」は日本語が由来である。
「ビン」とは鬢(頭の左右側面にある髪)を指し、「タ」とは頬を意味する「端」を指すという説がある。
山崎邦正が羨ましい。
ソファーに浅く座り、下唇を噛み締めながら尾形和郎はそう語った。
あの男は年末に必ずビンタを喰らい、今やこの日本でビンタの代名詞は山崎と言っても過言ではない。尾形はそれが本当に狂おしいほど羨ましいのだ。
尾形は自他共に認めるマゾヒストである。
物心ついた時には痛み・苦しみを快感に変えることが出来た。
ここまで紹介すれば大抵ついてくるのが陰惨な過去だ。幼い頃から両親に虐待を受けてとか、同級生にいじめられていく中で自身の心を守るためにマゾと思い込み生きてきたなどというありがちな話。だが、尾形にはそれはない。
ただ純粋に生まれついてのマゾヒスト。
そんな彼の一番好きなプレイがビンタだった。
尾形曰く、ビンタのピークは最初の攻めと受けが直立で向かい合った時なのだという。
「ビンタは別に道具なんていらないでしょ? 裸でもいい訳ですよ。個人的にはスーツを着ての方が燃えますが。とにもかくにもビンタするって言ってなきゃ周囲の人には何が起こるかなんて分からないですよね。ビンタをする、ビンタをされるっていうのはその瞬間世界で二人きりな訳ですよ。その瞬間が私はたまらなく好きです。そしてそんなそれぞれの思惑を交差させながら二人は数刻後、手のひらと頬を通して繋がるんですよ……手のひらは『たなごころ』このもみ上げ辺りは『ビン』とも呼びますがね、ビンタなんてのはまさに心と心が通じる瞬間ですよね。そんでそれが一瞬なのも憎いもんですな。すぐにまた二人は離れ離れ。本当はもっと繋がりたいのに攻めの想いが強ければ強いほど受けは意識が遠のいてビンタを受ける準備が出来ない訳です。理想を言えば一発で気絶がベストでしょう」
尾形の話す言葉がどんどん早口になっていく。もう俺が聞いていようがいまいがこのまま永遠にだって喋っていそうだ。
俺は卓上のICレコーダーに目をやりバッテリー残量を確認した後、尾形にバレないように小さく溜息を吐いた。
少しだけ少しだけ俺の気持ちも暴露させてほしい。
帰りてぇ。
こんなインタビューで一体どんな記事を書けというのか。鬼のデスクの顔が思い浮かぶ。
昨日俺は遅刻した。そこそこ大手の出版社。時間にルーズな業界人も多少はいるが、一年目で三度目の遅刻は流石に怒られた。
デスクに呼び出されたっぷり説教を受けた後、ある二択を迫られた。
「今ここで俺にビンタされるか、それともあるインタビュー案件受けてペンで俺を見返すか。さぁどうする?」
俺は悩む間もなく記事を書く方を選んだ。新米記者なりのプライドがあったし、何より暴力は嫌だ。
だがまさかインタビューの相手がこんなにも意味の分からない男とは。
こんなことなら素直にビンタを受けておけば良かった……いや別にこの尾形に影響を受けたわけじゃない。
ビンタの方が楽だった。それだけの理由だ。
ビンタなら一瞬で終わっただろう。鋭い痛みが頬を貫いたかと思うと、脳が揺らされ自身の意思とは関係なく足元がふらつき倒れる。否が応にもビンタをしてきたデスクを見上げる形になる。大学ではラグビーをしていたというデスクは恰幅が良いのも手伝って余計に大きく見えるかもしれない。遥か高みから自分のあられもない姿を上司に見下される。しかも密かに尊敬し憧れている上司にだ。
スケジュール管理能力も人心掌握力もそして記者として何より大切な文章能力、どれをとっても俺はデスクに遠く足元にも及ばない。本当は少しでも長く隣にいたい。一つでも多くの事を盗みたい。だけどヘマばかりの俺はいつかデスクに見放されるかもしれない。ただそんな時もしビンタをされたらどうだろう? 一瞬つながった後、地面に横たわる俺にデスクは欠片ほどの憐憫の視線なら向けてくれるかもしれない。デスクは俺を見てくれるかもしれない。
そんな事を考えながらふと尾形に視線を戻すと、彼は笑っていた。
綺麗に生え揃った永久歯を見せびらかすように底無しの笑みを浮かべていた。
あぁ、デスクのビンタを受けたい。
雑学を種に百篇の話を一日一話投稿します。
3つだけルールがあります。
①質より量。絶対に毎日執筆、毎日投稿(二時間以内に書き上げるのがベスト)
②5分から10分以内で読める程度の短編
③差別を助長するような話は書かない
雑学百話シリーズURL
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なおこのシリーズで扱う雑学の信憑性は一切保証しておりません。ごめんなさい。