2.4.5 朝の支度
翌朝、トーラレルは寝苦しさを覚えて起床した。この学院に来て与えられた個室。そこには持ち込まれた家具も少なく、特に装飾などが施されていなかった。部屋主の実用性重視が窺える。
そこが自分の部屋だと確認し、現実であると認識する。薄らと汗をかいた額に、まとめていない髪が張り付いていることに気付いて、鬱陶しげに手で払った。
(……嫌な夢を見た)
上半身を起こして掛け布団を捲り上げ、ベッドから降りる。そこが夢の続きではないことをしっかり認識したトーラレルは、それでも片手で顔を抑えて呻いた。自身が思っているよりも、先日にゲヴィターから言われたことが気になっているようだ。
(でなければ、あんな夢は見ないね)
少女が見たのは悪夢の類だった。思い人が自分の気持ちを手酷く裏切り、心が砕け散るような辛さを突き付けられる夢。先日のことから妙に現実味を帯びていたそれは、トーラレルの心を不安にさせるには充分であった。
「講師ミドール……貴方はどう考えるのかな、講師と学徒の関係を」
もし、あの男が言ったように、彼が自分のことを評価を得るための道具としか見ていなかったら、そう考えてしまった己の思考を否定するように、頭を振った。
「やめよう、考えすぎるのはよくない」
自分に言い聞かせるように呟いて、トーラレルは身支度を整え始めた。窓から外を見れば、まだ日が昇りきっておらず、薄暗い。時間的余裕はあるので、備え付けのシャワーで湯浴びをすることにした。
肉付きの薄い身体に汗で張り付いた寝間着を脱ぎ、脱衣かごに入れる。身一つの裸になって個室に入り、取っ手を捻れば、すぐにお湯が出た。それを頭から浴びると、思考がはっきりしてくる。
(何を気にしているんだろう、僕は……あんな男の言葉に惑わされるだなんて、らしくない)
汗と共に余計な心配も流れていった気がした。身体が十分に暖まったので、湯を止める。用意されているタオルで身体を良く拭い、自身の身体のラインをなぞる。そこで、ふとラジュリィの容姿を思い出した。
「……講師ミドールは、豊満な方が好みなのかな」
脱衣所にある姿見に身体を写して、トーラレルは布一枚もまとっていない己の身体を観察する。健康的な肌色に、無駄な脂肪のついていない身体。エルフとしては、均等の取れた良いスタイルをしている。
だが、それが逆に気になる。もっと、胸や尻に肉がついた肢体の方が良いのではないかと考えてしまう。こんなことは生まれて初めてだった。
「いや、講師ミドールはそういう淫らな考えはしていないさ。うん」
また自分に言い聞かせるつもりで言って、トーラレルはさっさと着替えに入った。イジン家で採用されている軍人の制服を、女性用に仕立て直した服を身にまとい、紺色のマントを羽織る。
そこまでして、窓から差し込む陽光が強くなっていることに気付く。トーラレルが思っていたよりも長く湯浴びをしていたようで、部屋を出るのにちょうど良い時間になっていた。
(今日は講師ミドールの講義があったね……楽しみだ)
先ほどまで抱えていた不安はどこへ行ったのか、普段通りの薄い笑みを浮かべて部屋を出る。すると、そこに一人の少女が待っていた。
「おはよう、テンジャル」
「おはようございます。姉様」
待っていたのは、幼馴染みのテンジャルであった。ぺこりと頭を下げた彼女に挙手で挨拶して、寮棟の廊下を歩き出す。
「あの、姉様。先日は出過ぎたことを言って申し訳ありませんでした」
後ろに続いていたテンジャルが、急にそんな謝罪をしたので、トーラレルは「ん?」と歩きながら視線を後ろに向けた。
「あのことなら、私はもう気にしていないよ」
「ですが、ここ最近の姉様はその……何かに悩んでらした様子に見えて」
「悩みか……そうだね、不安に思うことが確かにあった。でも、もう気にしないことにしたんだ。考えすぎてもしょうがないから」
「本当に、もう大丈夫なのですか?」
それでも心配そうな目でこちらを見る幼馴染みに、トーラレルは足を止めて振り向いた。
「テンジャルの言ったことで悩んだわけじゃないから、そう心配することはないよ。解決はしてないけど……これは心の持ちようの問題だった。僕自身でなくせる不安だったんだ」
「ですが、ここのところの姉様はなんでも一人で抱え込んでいます。私はそれが不安なんです……!」
トーラレルの手を取り、テンジャルは瞳を潤ませて尊敬する姉様の顔を見やる。その表情から、ここ最近のことで余程この妹分に心配をかけさせてしまったことを、トーラレルは自覚した。どうにか弁明しようと、困ったように空いた手で頬を掻いた。
「テンジャルを不安にさせたのは謝るよ。でも、何でもかんでも君たちに相談していては得られないこともある。それは理解してほしいな」
「……わかりました。ですが、次に何かあったら、私も力になります。そのことを忘れないでくださいまし」
「頼りにしているよ……あっ」
そこで、トーラレルが近づいてくる人影に気付いて、小さく声を出した。御堂とラジュリィの二人だった。向こうもこちらに気付いた。
「おはよう、二人とも」
そう挨拶をしてくる御堂。傍らのラジュリィは、小さく頭を下げて会釈するだけだった。
どうして、学徒である彼女と御堂が共に歩いているのか、トーラレルは非常に気になったが、そこに言及する前に、はにかんで挨拶を返した。
「講師ミドール。おはよう」
「……おはようございます。講師殿」
そう挨拶したテンジャルに対し、御堂がさり気なく片足を引いたのを、トーラレルとラジュリィは見逃さなかった。
先日、彼に対して妹分が失礼を働いたのを知っているトーラレルは「余程に酷いことをしようとしたのか」とテンジャルにじとりとした視線を向け、なぜかは知らないが御堂が警戒していることは理解したラジュリィも、警戒心のこもった目になった。
そんな気まずい空気を早くも察した御堂が、わざとらしく咳払いをする。
「先日は悪かったな、アノーブ。怖がらせるようなことをしてしまった」
ぎこちなく、名前ではなく家名でテンジャルを呼び、御堂は頭を下げた。テンジャルはきょとんとしてから、横から感じる視線に反応して反射的に謝った。
「こちらも少し神経質になっていました。失礼をしたこと、お詫びします」
お互いに謝罪し合った二人。ラジュリィはこの件について話をされていなかったが、二人の態度から何があったのかを推測する。
どうせ、このエルフが何かで御堂に突っかかったのだろうと正解を思い浮かべる。そのことについて、自ら先に謝った御堂に「講師ミドールはお優しいですね」と微笑んだ。
「講師ミドール、あまりここで話していると講義の時間になってしまいますよ」
「ああ、そうだな……じゃあ二人とも、できれば同級生にもう少しちゃんと講義に出るように言っておいてくれ」
「努力はするけど、あまり期待しないでほしいな。彼ら彼女らは頑固だからね」
「それは困るな……まぁ、二人が来てくれるだけでもありがたい。また後でな」
「うん、また後で、講師ミドール」
「ご機嫌よう、講師殿」
立ち去る御堂。その隣を歩いていたラジュリィが、振り向いて二人、というよりトーラレルを睨み付けてきた。「私のミドールに気安く話しかけるな」とでも言いたげで、敵意を感じさせる眼差しだった。対し、トーラレルは口元に笑みを浮かべたまま、目だけ鋭くして睨み返す。
それで双方は意思を確認し合ったので、どちらともなく視線を外した。改めての宣戦布告をして、トーラレルは普段通りの薄い笑みに戻す。そして何事もなかったかのように歩き出した。
そんな彼女の横顔を見ていたテンジャルは、やはり自分がしている懸念は正しいのではないか、と思わずにはいられなかった。
あの男はやはり、危険人物に違いない。テンジャルは、すでに見えなくなった、大事な姉様の恋慕する忌々しい男の背中を幻視して、歯軋りした。




