2.3.8 不調の解消
魔術について学ぶ場である学院の図書室は、意外なことにごく普通の構造をしていた。御堂が初めて来た時に想像していた魔法の図書室。宙に浮いている本だとか、飛ばなければ手が届かない高さのある本棚だとか、そういうのは一切なかった。故に、年甲斐にもなく御堂は少しがっかりしたのが、この図書室の第一印象であった。
そんな話をすると、トーラレルはまた小さく笑う。思いの外、子供らしい感性も持ち合わせていることが、微笑ましく思えたからだ。
「それは残念だったね、講師殿」
「まったくだ……俺の知る魔法世界とはどうにも違うことが多くて、逆に予想外だ」
「いったいここをどんな世界だと思っていたのか、それはそれで気になるよ」
「聞いても面白くないぞ。所詮、お伽話はお伽話、ということだからな」
「エルフと言えど、女の子はそういう話が好きなんだけどね」
他愛の無い話を続けて、二人は入り口にいた司書に軽く挨拶した。司書の女性は二人を一瞥しただけで、特に何か訪ねることもしなかった。講義を行っているはずの時間に、講師が学徒(しかも女子)を連れていることを咎められないのはありがたい。
そうして他に誰もいない、かなりの広さを本棚で区切られた迷宮染みた室内を進む。御堂とトーラレルは、奥まった場所にある椅子に腰掛ける。
「二人で話すのに、お茶がないのは残念だね」
「ティータイムというわけではないし、仕方が無いだろう……さて、それでは聞こうか」
「ああ、そうだね……」
肯定したトーラレルだが、どうにも歯切れが悪く、悩み事を言い淀んでいた。
「ここまで連れ込んでおいて今更だが、男の俺には言いにくいことか?」
「そういうわけではないんだが……講師殿のもう一つの身分を思い出してね。貴方に相談して良いことかどうか、今になって困ってしまった」
「もう一つの身分……」
御堂は考える。自分の講師とは別の立場と言えば一つしかない。イセカー領の騎士だ。あるいはラジュリィの護衛だと言っても良い。それで言い出すのに悩むとすると、あの少女に何か関係のあることかもしれない。
(待てよ、ひょっとすると)
そこで、御堂は少し前、ラジュリィとの雑談から出た話題を思い出した。一つの推測が浮かび上がり、目の前にいる少女がしている表情から、確信めいたものを得た。
「トーラレル。一つ推測があるんだが、良いか」
「ん、なんだい?」
突然切り出した御堂の言葉に少し怪訝そうにしたが、トーラレルは聞く姿勢に入った。
「君の抱えている悩みは、もしかしてラジュリィ・ケントシィ・イセカーが関わっている。そして、その悩みの原因は先日にあった合同の講義にある……違うか?」
「……鋭いね、講師殿は……それが強さの秘訣かい?」
「そうかもしれないな」
自身の悩みを言い当てられたトーラレルは、肩を竦めて首を振り、それが正解だと認める。
「講師殿の言う通りだ。僕はかの人間の才女。ラジュリィさんに負けてしまったのさ」
「負けた?」
「そうさ、一から説明しよう。この学院では、エルフと人間で合同の講義を行うことがある。二日前、魔術の測定を兼ねた合同での講義が行われたんだ」
「それは知っている」
流石に講師をしていれば事前に聞かされる内容だった。
この学院での講義は、基本的に人間とエルフで別けて行われる。ただ、頻度は高くないが、両種族のクラスが一緒になって講義を行うことがあるのだ。しかも、その講義は大体において、お互いに競わせたりする内容になっている。
人間がエルフに魔術で敵うはずがなく、大体においてはエルフが人間に対して優越感を得る手助けにしかなっていない。
御堂がこれを聞いたときは、なんと無駄な講義だと内心で思った。目的を訪ねれば、数で劣るエルフにとっては重要なこととも、お互いの実力を把握することで、事故を減らす目的もあるとも聞かされた。役に立っているようには、ここ数日では見えなかったが。
「で、問題はその測定だ。僕は以前、講師殿に魔術が十回程度使えると言ったね」
「ああ、覚えている。大したものだ」
「そう、大したものなんだよ。僕は生まれてこの方、己の魔術的才能で誰かに劣ることはないと思っていたんだ。今思えば、身の程知らずも過ぎるけどね」
「それは驕りだな。環境から仕方が無かったのかもしれないが」
「はっきり言うね講師殿は、その通りなのだけれど」
「……話が見えてきた。その合同講義で、ラジュリィに負けた、ということだな」
「その通り、彼女がどれだけの内向魔素を持っているか、騎士である貴方なら知っているだろうけど……十五回というのは、人間とは思えなかったね」
そのときのことを思い出したのか、トーラレルは嘆息した。実を言えば彼女の具体的な才能について聞かされていなかった御堂は、内心で驚いていた。
(才能はあると聞かされていたし、優れているのは見ていてわかったつもりだったが、エルフを越えるとは)
そこまで来ると、ラジュリィは歴史に名を残すほどの人物になるのは目に見えた。自身の仕える少女のとんでもなさを知って、彼女が良くトラブルに巻き込まれるのにも理由があるのだと理解した。
「しかし、勝手な推測で悪いが、君がそう言ったことを気にする質だとは思えなかった」
「僕だって一人の学徒だし、エルフとしての意地もある。負けて思わないことは無くはない……けれど、悩みというのはそこじゃない」
「と言うと?」
悩みの原因は単純なことではないらしかった。続きを促し、トーラレルが続ける。
「負けたことを、僕自身がそこまで気にしているわけじゃない。気にしているのは、同期たちさ。小さい騒ぎにすらなったよ、貴方に剣術で負けた後だったから、なおさらにね」
「……それはまた、すまなかったな」
「講師殿が謝ることじゃない。それでまぁ、彼ら彼女らは、僕にとって快くない話をし出すわけだ」
「そんなことを気にするような質か、君は」
「自分でもそう思っていたさ、他人が僕をどう思おうが構わない。言いたければ言わせておけば良い……だが、僕もまだ小娘だった、というわけさ」
そこまで話して、トーラレルは視線を御堂から外して、また息を吐いた。自身に対する呆れだとか、失望的なものがこもっているのを、対面にいた御堂は感じた。
「こんなことで、不調を患うとは思ってもいなかった。魔術が上手く使えなくなる日が来るだなんてね」
「そういうことか」
「我ながら、情けないことだ」
情けないと彼女は言ったが、御堂はそれを仕方のないことだろうと考えていた。
これまで聞いた話や得た知識から、魔術というのは精神の状態によるところが非常に大きいことを御堂は理解している。魔術とはつまり、内向魔素で外向魔素を己のイメージ通りにコントロールし、効果を具現化する術なのだから、関係性は明らかだ。
要するに、メンタルが崩れれば、魔術の調子が悪くなるのも当然だということであった。
「精神状態で調子が悪くなるのは、至極当たり前のことだと思うけどな……トーラレルがそうまでなるとは、余程酷いことを言われているのか?」
「そうだね、エルフの面汚しくらいには、言われたかな。友達だと思っていた相手からも、似たようなことを陰で言われていたようだ」
これまで、才能溢れるエリートだと扱っていた同級生にこうまで言うとは、掌返しが過ぎる。エルフの学徒連中に、御堂は勝手ながらも僅かな怒りすら覚える。
だからといって「今から乗り込んで黙らせよう」などと短絡的なことは言わない。ただ、スランプに陥った彼女をどうにかして立ち直らせるべきだ。そうすれば、少なくとも好転はする。
「辛いか、トーラレル」
「辛いかどうかで聞かれれば、辛くなどないと言いたいけど、この有様じゃそうは言えないよ」
「そいつらを見返したいとは?」
「元々、僕の才能や家柄に惹かれてきた連中がほとんどさ。そんな奴らが離れたところで、どうとも思わないよ」
「じゃあどうして、不調になったかだが……君は自分のことを信じられなくなったんじゃないか?」
「自分自身を?」
トーラレルはどういう意味だろうと、御堂に視線を戻した。
「単純な話だ。君は己に魔術を扱える力が本当にあるのか、周囲の戯れ言を聞く内に疑問を抱くようになった。俺はそう推測した」
「では、どうすれば良いんだい?」
「そうだな……」
これがスポ根か何かなら「リベンジして勝てば良い!」と熱血教師のように言えるのだが、御堂はそういうタイプではなかった。現実、それで解決できるとも思えない。
「これは受け売りの考えなんだが」
なので、一つの考え方として、御堂なりの持論を述べることにした。
「自分のことを信じられないのは、誰だって抱える悩みだ。だが、それを乗り越えられない人間はいない。いつか必ず解消できる……なぜだと思う」
「……なぜ?」
「人間とは努力し続けることができる生き物だからだ。天命尽きて死に絶えるその時まで、己を高め続けようと抗い続けることができる。数少ない生物だ。その過程において、自信がついて、問題を解決し、次第に自分を信じることができるようになる」
「それは、やはり理想論だ。講師殿は理想家なのか?」
「いいや、これは理想じゃない。事実論だ。そして、君自身にも言えることだ」
「どの辺りが? 話が見えてこないのだけれど……」
いまいち、話がぴんと来ていない様子のトーラレルだった。御堂は結論を述べる。
「君だって、努力し続けているんじゃないのか? 本当に、才能だけであそこまでの魔術、剣術の腕前を得たのか? 違うだろう」
言われ、エルフの少女は否定しなかった。ただ御堂を真っ直ぐ見つめ、黙っている。それが肯定だった。
あの剣術を見て、御堂は確信していた。才能や優れた体質に胡座をかいている者には決して、手の届かない高い技術をこの少女は持っている。無論、まだ発展途上の力であるが、努力を怠っていないことに変わりは無い。
そして、剣術で努力できる者が、魔術で努力していないわけがないのだ。
「……講師殿の言いたいことは、わかったよ。ここで足を止めないようにしろということだね? だが、魔術を使えないのにどうすれば」
「本当に本来の力が使えないのか?」
「ん、どういう意味?」
「無理に大きな力を使おうとして、力んでしまったのと、精神的不調が重なってしまっている。そういうことじゃないか、という推測だ……ものは試しだ。今ここで、何か使ってみてくれ」
「いや、それは……」
「講師の俺が許すよ。変に凄いことをしようと思わず、むしろ小さく使うつもりでやるんだ」
御堂に催促され、トーラレルは目を瞑り、手を御堂の方へ向けた。数秒するが、何も起きない。
(やっぱり、僕の力は……)
トーラレルが諦めて、魔素の操作をやめようとした時、御堂が呟いたのが聞こえた。
「頑張れ、トーラレル。君ならできる、それだけの努力をしたはずだ」
それを聞いてどうしてだか、トーラレルの心中に小さな勇気が湧いた。これまで魔術を使おうとすると、酷くざわついた心が、静かな水面のように穏やかになる。
(……不思議な感覚だ)
やがて、微少な光が集まりだし、一つの形を造り上げた。
「これは……」
「幻影の魔術だよ。僕の得意分野さ」
少女の小さい手のひらの上で、人形が踊っていた。実体は無いらしく、薄らと透けている。二体の人形は手を取り合い、くるくると回っている。
「と、言うことは」
「魔術は成功した。そういうことだね。ありがとう、講師ミドール」
いつもの調子を取り戻したトーラレルは、御堂に微笑んだ。普段通り、余裕さを感じる笑みであった。
その手の上で踊っている人形は、片や人間で、片やエルフとわかる耳をしていた。しかし「本当に良かった」と息を吐いて俯いた御堂がそれに気付くことはなかった。




