4.3.16 帝国貴族の在り方について その十六
「なんだ、なんなんだあれは?!」
雇っていた男がイセカー家の令嬢に打ち負かされた途端、支配人は一切の余裕を失った。戸惑う部下たちを尻目に、脱兎の如く闘技場から逃げ出している。
「この私にこのような、ふざけやがって!」
朝焼けが明るくし始めている街中を、支配人は息を切らせながら走る。そこにはもう、賭博場の支配者たる男が持っていた威厳も何もなかった。
(ここにいては勝ち目がない、どこかに身を潜め、力をつけなければ……)
ひとまず、追っ手が掛かる前に外へ逃げる必要があった。安全と言える場所まで、行かなければならない。
帝国内に潜伏するのは不可能だ、しかし共和国には伝手がない。ならば行ける場所は限られる。支配人の逃亡先は、自然とその一国に定まった。
「あそこなら、聖国ならば──」
「我が国が、どうかしましたか」
忽然と、走っていたはずの支配人の真後ろから声がした。
突然、耳元から声がしたことに驚き、情けない悲鳴をあげて地面へ転ぶ。もがきながら振り向くと、そこにいたのは笹長の耳をした若い少女、エルフだった。
「お、おお、お前は、あのお方の」
「はい、その人より遣わされて、参りました」
黒い外套を身に纏った彼女は、それとは対照的な白い印象を持たせる容姿だった。白い肌に短く白い髪、しかし瞳だけは反転したかのような緋色だ。黒と白と赤、それがこの少女を表す記号である。
「それなら、この惨状をどうにかして……いや、私をあの方のところへ連れて行ってくれ! また資金と物を集め、あのクソ領主共に目に物を見せてやらなければならない!」
「はぁ、それで、私たちに何の利が?」
「わからないか?! あの方が私に課した役目を、それを成すために必要なことなのだ、これは!」
スポンサーの配下である彼女にそう主張し懇願する。自分はまだやれる、利用価値がある。だから助けて欲しい。本心にはまだ燻る野心を持ちながら、彼は足掻こうと他者の庇護を求めた。
「なるほど、わかりました」
「お、おお流石に話が早い、では早速──」
支配人が言い終わるよりも先に、少女は小さく息を吸い、何かを呟いた。
それが何か意味を込めた言葉なのか、立ち上がろうとしながら耳を立てていた支配人は、また忽然と不可思議な感覚に襲われた。
地面に着こうとしていた右腕の肘から先に、感覚がない。次の瞬間、猛烈な焼けるような痛みが走った。
「あ、がっ、ぎぃあああああ?!」
激痛が支配人を襲った。声の限り絶叫をあげ地面に再度転がる。
痛みがする箇所を見れば、自身の腕が赤く染まった服ごと綺麗に斬り飛ばし──いや、”消し飛ばされていた“。
何をされたのかまったくわからない。魔術に長けた種族のエルフと言えど、眼前の少女は短杖も持っていないのだ。
なのに魔術を行使し、あまつさえ牙を剥いてきた。
「な、なぜこんな?!」
意味がわからない。どうしてこの自分が、賭博場と街を支配していたこの自分が、こんな目に遭わされているのだ。支配人は痛みの中に憤りを産んだが、自身をじっと見下ろす強者を前にすると、即座にそれは恐怖へとすり替わった。
「いえ、よくわかりましたので、貴方にはもう、利用価値も、存在価値も、ないのだと」
「そ、そんなことはない! だから助けてくれ!」
嗚咽と共に助けを乞うが、返答は無常であった。次に左足が膝から消し飛び、支配人は痛みのあまり身動きも取れなくなり、ただうごめくだけの存在と化す。
「ひっ、うぐっ、助け……助けて……」
大の男が嗚咽しながら命乞いをしている。少女は心底くだらないと言いた気な無表情で、それを見下ろしている。
緋色の瞳は酷く無感情であり、対象を動物か、羽虫か、生き物と認識しているかも怪しい。
「あの人は、利用価値がないものと、存在価値がないもの、そして面白くないものが、何よりも嫌いなんです」
それでも言葉を続けるのは、せめてもの慈悲だろうか。あるいは壁に話しているようなものかもしれない。
「わ、私は役に立っていたはずだ、それを……」
「いいえ、貴方は、三つ目だけを辛うじて満たしていませんでした」
少女の言葉に、支配人は目を見開いた。その意味を理解し、凄まじい侮辱感と絶望の意が溢れ出す。
「あの人から、伝言です。『遊び終わった玩具をきちんと片付けるのが私なのよ』との、ことです」
「だ、誰でもいい助けてくれ! この気狂いをなんとかしてくれ!」
「最期まで、面白くない、人でしたね」
半狂乱になって周囲へ助けを求める支配人をエルフはそう評して、また小さく何かを呟こうと、小さな口を開いた。
「ひっ、やめ、助け」
直後、支配人の姿は透明な円形に押し潰されたように描き消えた。後にはもう、何もいない。肉片一つ、血痕一つ残らなかった。
「……ラヴィオさんの、頼みでなければ、こんな面倒なこと、しなかったのに」
今度はもっと美味しいものを食べさせてもらおう。誰にも聞かれない独り言を漏らしてから、少女は姿を消した。静寂の魔術が消え失せた通りには、何の痕跡も残っていなかった。
***
揺れる場所の中、御堂は強い疲労感を感じながらも、なんとか眠気に負けまいとしていた。
事の顛末として、今回の一件はひとまずの解決という中途半端な形で終わりを告げた。
元より、御堂も完全な解決は考えていなかった。手抜きなどではなく、現実的になし得ないからだ。
護衛を含めたった四名であの場にいた貴族らを捕縛するなど、まず不可能であるし、関係者であろう実行犯の部下を捕まえる余裕もない。
なので支配人だけでもと思っていたのだが、想定外に手強い敵に時間を稼がれてしまった結果、その捕縛もままならなかった。
それでも、全く効果がない、失敗かと言われればそうではない。これが良い見せしめとなったことは確かである。
彼の貴族たちは裏で噂するだろう。『イセカー家には、とてつもない始末家がいる』だとか『あの領地で企てをすると、白い化物がやってくる』。
こう言った内容の情報共有がなされれば、それで御堂やムカラドたちの目的はほとんど達成されている。要は再発を防げるように牽制できればよかったのだから。
(それでも、主犯は捕えておきたかったな……心情的な意味でも)
あのようなことを考え実行するような者など、放置しても百害あって一利もない。処理しておくのが一番適切なのだ。これは日本におけるテロ対応でも変わりない考えなので、余計にそう感じる。
(だが、それでも捕まえられたかは……)
定かではない。そう言わざるを得なかった。
あの後、御堂は外壁に詰めていた警備の兵らに身分を明かし不振な馬車か、あるいは支配人本人が通らなかったかと詰問している。しかし強く言うまでもなく、彼らは正直に「そんな物も人も通らなかった」と述べていた。
(つまり、敵は姿を完全に消す何らかの魔術を有しているということだ……方法は、俺の知る限りでは今回ラジュリィが使った幻術か)
ちらりと、隣でもたれかかって小さな寝息を立てている少女を見やる。もう地味だった色を元の瑠璃色に戻した髪の先端を小さく撫でる。
「お疲れ様だったな、ラジュリィ」
今回の戦いはこの少女にとって過酷だったはずだ。それでも彼女は最後まで戦い抜き、勝利してみせた。手解きをした身としては、多少なりとも嬉しく思える。
(さておき、あとはそれを教えたパルーアに……幻術という区切りならばトーラレルもそうか)
思いの外、話を聞けそうな相手が身近に多い。厄介な魔術師が敵にいるとなれば、情報収集を怠るわけにはいかない。学院に戻り次第、話を聞くことになるだろう。
「……また何か考えてらっしゃいますね?」
考え込んでいると隣のラジュリィが声を発し、小さくあくびをした。
「すまない、起こしてしまったか」
「ミドールのせいではありません、少し夢見が……いえ、なんでもありません」
「そうか」
何か悪い夢でも見たのだろうか、これだけ忙しい数日を過ごせば、疲れからそういった夢を見ることもあるだろう。御堂はそう解釈した。
「ところでミドール、一つお願い事があるのですが、よろしいでしょうか?」
「昨晩のようなことでなければ」
「そんなことではありません、初めて城へ来た時、父に見せていた板を見せてくれませんか?」
「認識証を? 構わないが」
何か意味があることなのだろうかと疑問に思いはしたが、特に断る理由もない。必ず持ち歩いているそれを胸ポケットから取り出し、手渡した。
「君が見ても、面白いことはないだろうに」
「いえ、そんなことはないですよ」
ラジュリィはその板、プラスチックのIDカードをじっと見る。そこには硬い文字で様々なことが書かれている。以前までなら、読みも意味もわからなかっただろう。しかし、
(陸上自衛隊、身分証明書……氏名、御堂るい……階級、三等陸尉……)
今なら、ディーフィルグンからの知識が刻み込まれた今ならば、読み方もその意味も、母国語のように理解できた。
「……読めない文字を見ていて、何か面白いのか?」
不思議そうにこちらを見る御堂に、ラジュリィは笑みを浮かべて頷いた。その意図がよくわからない御堂は、首を傾げる他ないのであった。
〈第四章三節 帝国貴族の在り方について 了〉




