4.2.7 ダンジョン・アタック! その七
「これは、大蜘蛛の類か?!」
思わず出た言葉は、ある意味で正鵠を得ていた。
三人の前にいたのは八本の太い脚を持ち、球体を組み合わせたずんぐりとした胴体、黒い体色よりも更に黒い複眼。ぎちぎちと音を鳴らす顎門。全体だけを見れば、それは確かに蜘蛛であった。
だが、これを本当に蜘蛛と呼ぶのだろうか? アンバランスな程に肥大化した頭部と、極端に短い胸部、そして頭部よりも巨大に膨らんだ腹部は、モチーフであろう虫とはあまりに違う。
形容するならば、正しく異形の怪物としか言い様がなかった。
その怪物の口にある六本の牙が、がばりと開いた。
「っ、ミドール殿!」
ブルーロの叫び声で、御堂は硬直していた身体に渇を入れることができた。同時に、怪物の頭部が自身を指向していることにも気付けた。
蜘蛛の真っ正面にいたことが不幸であった。
「くっ!」
何が飛んでくるかはわからないが、身の危険は感じた。全力で右に飛ぶ。勢い余って地面に倒れたそのすぐ脇を、黄ばんだ粘着物が覆う。地を転がりながら即座に腕を地に着ける。
(塗布範囲は直径で二メートルあるか、酸性は無さそうだが)
混乱から覚めつつある頭で必至に分析する。
(粘着性は高いと見えた、あんなものが顔面に付着したら、窒息は必至!)
起き上がってブルーロとオーランを見れば、そちらも有機的な網縄を吐きかけられている。どういうわけか、御堂は大蜘蛛の興味から外れたらしい。
「ブルーロ、あれはいったいなんだ?!」
「わかりませぬ! あのような魔獣は見聞きしたことがありません!」
「右に同じだ!」
返答しながらステップを踏むように吐瀉物を避ける二人だが、オーランが足下に広がった黄ばみに脚を取られた。「うおっ」と漏らすが転倒は間逃れる。しかし、怪物は目敏く剣士に頭部を向ける。
「オーラン!」
その口から特大の粘着物が吐き出され、即座にオーランを飲み込むかと思われた。けれどもそうはならなかった。横合いから飛んだ人間大の火球が糸を燃やし尽くしたのだ。
「迂闊ですぞオーラン!」
短杖から攻撃魔術を放った魔術師は「助かりましたブルーロ殿!」という部下の声に頷きながら、杖の矛先を怪物に向ける。
「渇っ!」
気合を入れて空中に生み出されたのは、先とは真逆である氷結の円錐であった。一瞬で手にしている剣よりも巨大になったそれが三本、轟音と共に怪物へ目掛けて飛ぶ。
並大抵の魔獣なら即死させる破壊力を持った魔術だ。御堂は一瞬、決着を確信した。
「――流石に、一筋縄ではいきませぬな」
命中と同時にブルーロが忌々しげに呟く。三本の氷柱は二本が怪物の体表にへこみを作り、一本は顎の一つを砕き潰した。だがそれだけであった。致命傷には程遠い。痛覚があるのか、大蜘蛛は絶叫をあげて脚を振り回しもがき出す。
「ここは退くべきだと思うが、どうか?」
「それができれば良いのですがな」
「あの巨体だ、この部屋からは出れないはず」
「……どうも、我々も同じようです」
悶える怪物を睨み付けたままの騎士から告げられた言葉に、御堂はまさかと後ろを振り向き、愕然とした。
唯一の逃走経路である出口は、敵が吐き出した物体で覆われていた。除去しなければ通れそうにないが、そんな隙があるとは思えない。
「……お約束が過ぎるな」
舌打ちを堪え、それだけ呟いて御堂は剣を握り直す。魔獣を切り捨ててきた実績のある武器が、とても頼りなく思える。
「やるしかないか、娘に良い土産話ができると思えばいいな」
「はっは、呑気なものですなオーラン。その意気ですぞ」
御堂と違い怖じ気づいた様子も見せない剣士は両手で剣を構え直し、騎士は懐から出した袋を手の中で遊ばせる。
(……やはり、現地人は強いな)
こう言った理不尽に立ち向かう力、活力、気力は、平和な世界にいた自分には備わっていなかったものだ。御堂は一瞬だけ瞑目し、決意を持って目を見開く。
「二人が奮えたっていると言うのに、俺が退くわけにもいかないな」
口の中で呟き、左太股につけているポーチを意識する。中にはネメスィの貨物スペースに置いてあった“ある備品”が入っている。
(これは使うまいと思っていたが、逆だな)
「さて、英雄譚の一つでも作りましょうかな!」
ブルーロが袋を頭上に投げ、そこに小さい炎を飛ばす。薄い革製のそれは瞬時に燃え上がり、内部にあった粉が爆発したように散らばった。
ばら撒かれたのは、魔術で作られた特殊な粉末であった。魔素をぶつけることで化学反応に近い現象を引き起こし、長時間にかけて強い光を発するのだ。
「視界はこれで問題なし、脚から狙いますぞ!」
昼間のように明るくなった広間、突然の強い光源を受け大蜘蛛が甲高い悲鳴をあげて硬直した。これを好機と見て青い皮鎧の騎士が怪物の右側へ駆ける。
「承知しました!」
「応とも!」
続けてオーランと御堂が反対側、左へ向けて走る。怪物が動き出したのは、右の脚を一本、関節から切り飛ばされてからだった。
先ほどから自身に痛手を与えてくる存在に敵意を向けて、大蜘蛛はそちらを向こうと脚を上下させる。
成人男性の胴体ほどはある太さの支柱が、ブルーロを弾き飛ばそうと振るわれたが、
「甘いっ!」
身を低く低く、地面を舐めるようにして横薙ぎの軌道を潜り抜けて避けた。
「流石に身軽だな!」
感嘆しながらも、御堂は隙だらけになった大蜘蛛の左脚を狙う。根元の可動部分は筋肉のように動き続けている。
生物の関節部分は外殻や鱗に比べて軟弱だ。動作するにはそうならざるを得ない。それはある種、物理法則に従っている限り逃れられない事象とも言えた。
「せやっ!」
だからこそ、御堂の放った刺突は深々とその関節に突き刺さった。体液は吹き出さないが、確かに損傷を与えているのには違いない。その証拠に、今し方貫いた太い脚が硬直し、痛みで狂ったように暴れ出す。
「関節は刺突が通る!」
「だろうな!」
こちらを踏み潰そうと暴れ回る脚から逃れ、次に狙いを定める。
(だが、ああも動き回られていたら、狙うにも……)
直径で七十センチはある硬質な物体を叩き付けられたら、鎧を着ていようが人体には致命傷になる。どうにか範囲外にある弱点を狙うしかない。御堂はそう考えていたが、
「畳み掛けるぞ!」
「オーラン?!」
なんと、兵士長はその暴れる脚の隣、もう一本の根元目掛けて駆け出したのだ。これには御堂も驚き慌てた。
咄嗟に「無茶だ!」と叫ぶが、オーランはそれに応じずに突っ込む。
(焦ったか?! どうにか奴の気を引いて――)
援護しなければと踏み出そうとした御堂だが、その間にオーランの頭上に太い脚が迫る。間に合わない――友人の死を覚悟する。だが、
「遅い!」
オーランはなんと、猛然と振り下ろされる脚が乱舞する中を、紙一重で避け続けていた。
そういえば、と御堂は自身の知るオーランの武勇を思い返す。
(以前、俺がバルバドと初めて遭遇した際、彼は部下を守るために生身で巨大な怪物に立ち向かおうとしていた)
それは決して蛮勇ではなかったのだと、御堂はここで初めて知った。娘のファルベスが最年少で従騎士になれるのだ。ならば、その父親が弱いはずがない。
「せいっ!」
果たして、オーランは刺突ではなく縦振りの斬撃で大蜘蛛の関節を深く傷つけた。中の筋を損傷したのか、その脚は暴れすらせず、だらりと脱力する。
すぐさま離れたオーランに、御堂は羨望の意すら感じて叫ぶ。
「オーラン、正直そこまでの使い手だとは思ってなかった!」
「なんだ、見直してくれるか?!」
「元から高い評価が更に上がっただけだ!」
掛け合いをしながらも、御堂は脚一本分の隙に飛び込む。そして先に穴をあけた部位へ今度は満身の力で刀身を叩き付けた。鈍い感触と共に、刃が深く軟弱部を断ち切った。
片側二本の脚を潰され、大蜘蛛は絶叫をあげながら胴体を振動させ悶える。御堂からは見えなかったが、逆側のブルーロはすでに三本の脚を“根元から叩き切っている”。
(ブルーロが上手くやっていれば、これでもう動けないはずだが……?)
実際、頭部をぐるりぐるりと回し、腹部を上下に振る大蜘蛛は、抵抗の術を失ったように思える。
後はとどめを刺すのみ。決着を察し、御堂は小さく安堵の息を吐いた。オーランも構えを解いた。
「さて、首を落とせば流石に息絶えるか――」
オーランが言った直後だった。大蜘蛛の腹部が大きく波打ったのは、不気味な動きに一同が身構えたのと同じくして、怪物の背面から液体が滴る音と何かが落下した音。正しくは“産み出された音”が聞こえた。




